レタス・エビカツ・BLT

文字数 3,921文字

景の仕事はまず朝10時に有楽社交街入口のアーチから、事務所のビルがある辺りまでを掃除するところから始まる。夜が長い繁華街の朝は遅く、まだ人の気配もまばらなうちに、箒を手にして路地を歩く。大通りから吹き込んでくる街路樹の落ち葉や、駅前で配られているらしいチラシ、飲み残しが入ったままのコーヒーチェーンのロゴがついた紙コップ、そこに突っ込まれたタバコの吸い殻、空き箱、のど飴の包装フィルム、ハングルの印刷されたミントガムの巻紙、使い捨てのマスクやティッシュ、コンドームの挟まったタバコケース、アルミ包装されたどぎつい色の薬、そして稀に吐瀉物。これは不思議と事務所から離れたところにあって、どうやらこのビルの何たるかを察して、落とし主は酔いながらも巧みに場所を選んでいるらしい。しかしネズミは所構わず行き倒れているので、骸をただゴミ袋に投げ入れるのもなぜか気が引けて、景は古新聞でそっと包んでポリ袋に入れ、口を縛ってから捨てることにしている。

駿河屋の店先は掃除したって向こう三件両隣までだが、ここではどうしてこんな遠くまでやらなくちゃいけないのかと思う。三矢からは「そういうもんだから黙ってやれ」という合理性に欠けた説明しか返ってこない。「自分達のショバだから自分達で綺麗にするのが筋」だということらしいが、まあ昔はたくさん若衆がいて、数名で手分けして10分もやれば、その広さが充分カバーできたんだろうという維の説明に少し納得できた。
かつて有楽社交街には松岡組がケツを持つ飲食店がたくさんあって、つまりそれが組にとっては「お客さん」になる。持て余している組員に掃除をさせれば、元手のかからない顧客サービスとも言える。そのサービスだけが慣習として残ったものだ。やがて組と付き合うこと自体が違法になり、大っぴらにはできないが店主が個人的な付き合いとして松岡組から縁起物や花を買い入れてくれる店がほんの数件いるだけにまで減っても、この掃除だけは続けられていた。

今は景が一人でやっているから1時間では終わらない。慣れないうちは日によってはたっぷり2時間取られることもあった。旗日の朝は前夜の喧騒を引きずった路地を午前中一杯這い回る。そうしているうちに昼が近くなり、寝惚けた様子の三矢がのろのろとやってきて、ゴミ袋をまとめている景を見るや、「もういいよ、そんくらいで」と声をかけてから事務所へと入ってゆく。苦役から解放されたような気分の反面、まだ終わっていない時には中途半端な気もしてモヤモヤしているうちに、今度は維が三矢よりはいくらかスッキリした様子で現れて、景の姿を見ると駅の近くにあるサンドイッチスタンドまでお使いに行けと言って、いつもの札入れから金を抜いて渡す。BLTサンドとレタスサンドと、あとお前の好きなもん買ってきなと言われてようやく箒を片付ける正当な理由をもらった気分になる。



事務所へ帰ると三矢と維が首を突き合わせて何かしら話し込んでいる。給湯室に引っ込んで3人分のコーヒーを淹れながら、聞くともなしに聞こえてくるのは雑多な内容で、株価為替の動向やら近在の企業や商店の出店および閉店の情報、地方紙の訃報欄に見知った人物は出ていないか、ああだこうだとひとしきりやりながら、三矢はBLTサンドを食べる。景の食べているエビカツサンドを見て、明日は俺もそれにするわと言い、維はレタスサンドを食べながら、二人に午後の作業についての段取りを差配する。
引越し業者のアルバイトをしたことがある景に言わせると「松岡詰所」はエレなし4階、つまりエレベーターのない4階建ての物件で、家具の移動を伴う荷物の搬出や清掃は過酷な現場になる可能性が高い。今使っているのは2階だけで、あとはほぼ物置になっており、その「物置」に眠っている家具備品の類を整理するのが午後の仕事だ。

「引っ越しでもするんですか?」
「……さあな。俺たちは親父の指示通りに動くだけだよ」

景の素朴な質問に、返答を保留した三矢に代わって維がそう答える。

最初にまず4階のフロアを片付けようということになり、薄暗く埃の積もった4階へと上がると、それほど広くはないワンフロアに古い二段ベッドが3つ並んでいる。さてとやるかの声を上げた三矢の音頭で、まずは一基の上段を外して木製フレームの結節部をハンマーで叩いて分解してゆく。組み合わさった木材は乾涸びて、接着剤の貼りついた木片へと姿を変える。木枠と板と4本の脚にしたものを、適宜搬出しやすい大きさに切り揃え、維は束ねて部屋の隅に積み上げた。

「この部屋、誰が住んでたんですか」

作業しながら尋ねる景の声に三矢はカラカラと笑いながら、お前みたいなのだよ、と応じた。部屋住みってな、田舎から出てきた若いのがここに寝起きして見習いやるんだよ。朝は6時に起きて、掃除洗濯食事の支度留守番運転使いっ走り。夜は10時になると就寝。とりあえず食いっぱぐれはしないで済む、ってこと。

今の自分と同じようなのがここに6人も寝起きしていた、ということは朝の掃除も30分もかけずに終わっただろう。景には維の言った言葉がようやく理解できた気がする。三矢さんもやったんですかと尋ねると、俺は通いだったからね。ここに寝起きしてる奴らはさ、気がつくといなくなってんだよとぼやくように答えた。ここで同じ釜の飯食ってさ、それでてんでに散らばっていくんだよ。みんな今頃どうしてんのかね。

それから三矢は維の様子をチラリと窺って、あぁ怠い(だりぃ)、続きは明日にしようぜと言って切り上げようとする。まだ午後も3時を過ぎたくらいで、再び2階に戻ってコーヒーを淹れて一服する。2階の事務所に据えられた机が三矢の、応接セットの長椅子が維の定位置で、どんなに頑張って他のフロアの片付けに出ようとも、ふと気がつくと二人ともいつの間にかその場所へ戻って寛いでいる。実にのんびりしたものだ。
それでもこの日は作業が進んだ方かもしれない。場合によっては二人ともいつものように事務所へ来て軽食を摂りながら喋り、そのまま動こうとせず「今日はいいよ」と言って新聞を読んだり競馬中継を見たり、たまに将棋を指したりして過ごし、陽が傾きだすと景にお疲れさんと言ってどこかへ出かけてゆく。そんな調子だから、4階の片付けに目処がつくまで半月以上かかった。



窓際でタバコに火をつけた三矢が景からコーヒーを受け取りながら、俺ぁ三日でフケると思ってたんだけどなぁと呑気な声をあげる。テーブルにマグを置く景の横で、維がソファに身を横たえて腕掛けに脚を乗せ、てらてらと光る靴の先端を見つめながら、お前何で見習いなんかやりたがるのと今更なことを尋ねた。

「ヤクザらしいことやりたいんならもっと別の組紹介してやろうか」
「……ここの方がいいです」

実際どうしてそこまでこの場所にこだわるのか、景自身もよくわからずにいる。ただあの日、維が惣菜を買いに来さえしなければ、今自分はここにいなかっただろう。ここで毎日することと言えば、つまるところ掃除と事務所の片付け、その合間にお使いをしてコーヒーを淹れ、夕方には戸締りをして事務所を後にする。それが景の仕事だということになる。駿河屋でメンチカツを揚げていた頃とどれほどの差もない。

「そういえば、あの人は来ないんですか。運転してた……」
「あぁそうだ、明日は運転頼むわ。親父の通院があるから」

朝いつも通りに来ればいいから。あとは明日指示する。そう言って灰皿にタバコを押し付けてから、俺ぁそろそろ行くよと三矢が事務所を出てゆく。景は三矢の使ったマグを給湯室に下げるついでに灰皿を横目で見てから、維を見る。すると維はゆるりと首を左右に振った。まだ使うからそのままでいい、ということだ。それからやおら身を起こして、タバコを咥える。卓上ライターはまたしても火が着かない。そうなることを見越していたように、景はポケットから掃除中に拾った百円ライターを出して、維の目の前に差し出した。

着火石(フリント)、抜かれてますね」



維はいつも三矢のいる前ではタバコを吸わない。吸おうとして取り上げられているところを何度か見ている。ゴミ箱に着火石が捨てられているのを見たが、あれはこのライターから抜き取られたものだろう。

「……三矢の奴、余計なことしやがって」
「禁煙、してるんですか」
「やめろって医者に言われてる」

急にそう言われてもなぁ。維はそう言って旨そうに煙を吹きながら、お前は吸わないのと景に尋ねた。試したことはあるけれど、それほど旨いとは思えなかったし、それよりいつも腹が減っていて、小遣い銭は食べるものに化けた。痩せの大食いというのはそのまま景のことを指しているような言葉だ。俺は大食いなんで煙より食いもんがいいですと言うと維は笑って、惣菜屋、天職なのに残念だったな、と言った。

「維さんはいつから吸ってるんですか」
「高2ん時だから、かれこれ15年かぁ」

バイト先の先輩がさ、休憩中に旨そうに吸ってんの見て真似てみたんだよ。煙たいばっかで「何だこりゃ」って思ってたのにな。気がついたら立派なニコチン中毒だ。

「あん時に先輩の真似してなけりゃ、俺も今よりちょっとはまともだったかもな」

維はタバコの火を消すと景の着ているパーカーの、フードから垂れた紐を引っ張りながら、明日は運転手だからね、もう少しいい(なり)しておいでと言って何処かへ出かけてゆく。景は灰皿の一番上に載った維のシケモクを指先で摘み、形を整えて火をつけてみる。やはり旨くも何ともないのに、唇に当たるフィルターの感触だけがやけに心地よくて、名残を惜しむようにそれを咥えたまま、灰皿と三人分のマグカップを洗った。

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