大机・中机・小机

文字数 3,846文字

「とりあえず一旦部屋から全部出せばいいんですよね」

景がそう言う声を掻き消したのは、三矢が不用意に引っ張ったオフィスチェアから放たれたキャスターの軋り音で、ぎゃりぎゅりと甲高い響きで鼓膜をえぐられる不快に、景は思わず眼を瞑って顔を背けた。さすがの三矢も耐えられなかったようで、服に埃がつくのもやむなしと諦めて、椅子を抱え上げて玄関ロビーへと運び出す。ようやっと動く気になった三矢が景を伴って、1階の詰所に潜り込み置かれた古いオフィス家具の類にうっすらとしかしまんべんなく積もった埃を舞いあげる。維なら見ただけで咳き込みそうな程の埃で霞んだ室内を往来する二人は、汚れた水槽を何食わぬ顔で泳いで廻る魚のようだった。小さな方はちょろちょろと水槽の底を縫って泳ぎ、大きい方は少し上から水槽の底を見下ろして、壁にぶつかりそうになる前にゆるりと身をうねらせて、四角い空間を気怠げに往復している。

「三矢さんもここにいたんですか」
「組員になる前はな。一階は出入り自由だったから」

俺はいっつもそこに座って競馬新聞眺めてた。維はあの隅の机で将棋指したりしてさ。三矢がそう言って視線で示した先には大小の机が並んでいる。
その手前に置かれた応接セットをじゃあまずこれからと言って、玄関ロビーまで運び出す。表面の合皮が汚れを纏って薄汚れ、どことなくペとペとするような手触りのソファーは、嵌めた軍手がヤニとホコリですぐに黒くなった。家具につけられたタバコのコゲ跡や、何かを引きずったような跡といい、座敷に敷かれた畳の縁の痛み具合といい、環境にあまり頓着しない荒っぽい扱われ方が、景には通っていた高校の運動部が使う部室のように見える。何部にも属していなかった景は校庭の隅にあるプレハブ小屋を遠巻きに眺めるだけだったが、どの部屋も狭いところに生徒たちがゴタゴタと出入りする様子を思い出し、きっと10年前のこの部屋も、あれに似たようなものだったんだろうと思う。

「部室みたいですね」

まあ似たようなもんだなと応じた三矢がローテーブルを抱えて運び出し、勢いまかせに一人でシングルソファーに挑んでいる景の元へ手早く戻ると、いくら若いからってさすがにそれは無理だろと言って息を合わせて持ち上げる。それから小上がりの畳を剥がしては景に背負わせ、運び出しては壁に立てかけた。畳の土台はビールケースを並べただけの簡単な作りで、その構造をここにきて初めて知った三矢も、よくもまあこんなもんの上で雑魚寝して潰れずに済んでたなと呆れたような声を上げた。



「ここで寝るんですか?」
「面倒が起きると泊まり込みしなきゃいけなかったりするからね」

酔っ払って潰れた奴だとか、ひと暴れして怪我した奴だとか、ここに寝かして前川に来てもらったこともあったっけなあ。そう言う三矢の声はどこか牧歌的で、卒業生が久しぶりに母校を訪れて感慨に耽るようなのどかさに満ちている。三矢は畳の下から出てきたビールケースを端から崩して運び出し、数個を重ねるとそのまま近所にある酒問屋の倉庫へ向かう。こっそりとそのケースを倉庫の中のビールケースの山に紛れ込ませ、何食わぬ顔で戻ると同じことを景と二人で繰り返し、数十個の空ケースを置き去りにした。ずいぶん昔にくすねてきたのだろうビールケースは、ずっと屋内に置かれていた為か、古いわりに状態が良い。だがプリントされた酒造メーカーのロゴマークだけは旧く明らかに悪目立ちしている。いいんですかと小声で言う景に、三矢はどうせこっから来てんだから、故郷に戻っただけのことだろと嘯いてそそくさとその場を後にした。

残ったのは机が3つで、まずは監視カメラのモニターが乗っていた中くらいの机を二人がかりで運び出し、次いで三矢がいつもここで競馬新聞読んでたと言った大きな机を動かす。天板下についた引き出しの中で、からり、と音がして、開けてみれば蛍光マーカーが一本転がり出た。受験生が参考書にアンダーラインを引くようなそれを見て、やっぱり部室みたいですね。誰か受験勉強でもしてたみたいだと言うと、三矢はそれを手に取りキャップを外す。フェルトチップはカラカラに乾き切って、手のひらに線を引いても生命線に沿って圧がかかるだけで色がつくわけもない。キャップを閉めると黙ってマーカーをポケットに押し込み「俺の兄貴が使ってたやつだよ」と呟いた。冗談の割には本当にそう思ってるかのような緩い声で「資格の勉強でもしてたんですか」と景が言ったのを、三ツ矢は「アニキがやっていたのはだな、確率論についての研究ってやつだ」と、もっともらしく真顔で応じてみせる。

馬の個体が持つポテンシャル、当日の馬場のコンディション、騎手のコンディションとその相性、同じレースに出る馬との相性、スタート時の位置取り。思いつく限りの条件と誤差を生む要素を洗い出し、ペン先一本で印をつけて「その一頭」を絞り込む。データの蓄積と分析。瀬尾はいつも詰所にいる時はここで電話番をしながらその考察に没頭していた。その机を景と二人で運び出し、その隣の小さな古い木製の、手脂で艶がでているような机も運び出す。
いよいよ空になった部屋の床は、フェルトのような青みがかった灰色の絨毯が隙間なく敷き詰められている。人の歩くところは汚れ擦り切れて、家具の乗っていたところは濃い色合いを留めた斑の海に、四角い島が浮かんだような厚みのある、唐草模様の小さな絨毯が敷かれている。



「あのペルシャ絨毯も剥がしますか」
「ペルシャじゃねえよ。中国緞通、っていうの」
「どう違うんですか」

三矢が無言でその畳1枚分くらいの長方形を端から丸めて筒にする。フカフカとした厚みに手こずるように巻き取りながら「ペルシャ絨毯っていうのは高級品なの。こんなとこに置けるようなのがあったとしたらバッタもんだ。本物はもっと薄い。逆に中国緞通は厚みが特徴でウリなんだよ」そう言って筒にした緞通を担ぎ上げ、部屋の外へ運び出す。
景はその中国緞通の厚みから解放された床に、不規則に広がる黒い染みを見た。濃いグレーの床材に濃褐色で広がったその液体が何であったかを、察して固まっている景の隣に、いつの間にか片手に溶剤の缶を手にした三矢が立っている。

「床材剥がすの手伝え。打ちっぱなしの床にするとこまでが今日のお仕事だ」

施工時に塗りつけられたままの接着剤はすでに劣化し、溶剤も必要ないくらいに日に焼けくたびれて、もう部屋の隅から剥がれだしている。さして力を入れずともべろりと剥がれ、剥がしにくいところに差し掛かかると溶剤を零し、接着剤を溶かしてはまた剥がす。シンナーに酔いながら中国緞通の下から出てきた染みのついた場所を剥がすと、コンクリートにもかすかに跡が残っている。それなりの量の液体が溢れた、ということだ。作業を黙々と繰り返してゆく三矢に、景がぼそりと声をかけた。

「三矢さん、この汚れって」
「だから、厚みのある絨毯の方がいいのわかるだろ」
「……血、ですよね」
「俺はお前に『スプラッタとか大丈夫か』って聞いたよな?」
「ええまあ、大丈夫ですって言いました」
「だよな。そいでもってお前『ヤクザっぽいことやりたいと思ってました』って言ったよな」
「それは言ってません」
「いいからちゃっちゃとやろうぜ。維が戻る前に終わらせたいんだよ」
「まさか、維さんに内緒なんですか?!」
「違うって。できるだけ近寄らせたくないだけだ」

埃っぽい部屋の空気を維に吸わせたくなかったし、何よりこの染みを見せたくなかった。空気は維の肺を蝕むだろうし、染みは記憶と感情を踏み荒らすだろう。そのうち何も知らないカンタと二人で片付けてしまおうと思っていたのに、そのカンタが姿を消して目算が狂い、一人でやるにはあまりに気が進まない作業だった。三矢が少々強引にでも景を抱き込んだのは、これを片付けるためだと言っても間違いではない。本当にすっかり何もなくなった部屋の隅に、机3つと応接セット、畳数枚を積み上げて、あとはこれを廃品に出せば終わる。



剥がされた床材は溶剤を吸い取ってすっかり重くなっている。三矢はそれをおなじみの70リットルポリ袋に入れ、口を縛ってゴミ置き場に放り出す。よく燃えそうだなと言った三矢に、景が不安そうな顔であのうこれ何かの証拠隠滅ですかと言うから、揉め事の後に親父がこの部屋を出入禁止にしたから、物置きになってただけだと答える。

「気にすんな。別に今さら警察が出てくるような話じゃないから。何かイチャモンつけられたら、『ヤクザに脅されて従ってました』って言えばいい」

揉め事って、あの、「出入り」だとか「カチコミ」っていうアレですかと言う景の顔が強張っている。敵対する組の鉄砲玉が撃ち込んできたり手榴弾投げ込んだりするアレですよね、と思い込みで先走る景を引き留めるには、どうするべきなのかを三矢はちゃんと解っている。そんな古臭い映画みたいなの、今どきはそうそうあるもんじゃないよと静かに応じ、積もった澱を再び舞あげないように用心するような緩い動きで、コンクリートが剥き出しになった部屋をあとにする。

人間が三人以上集まれば、どこでも起こることだ。ただそれが世間様よりちょっとばかり派手好きが集まるこの界隈では、取り返しのつかないところまで突き進むことがある。三矢はポケットに手を突っ込んで、指先に触れた蛍光マーカーを握りながらできるだけつまらなさそうな声で「単なる内輪揉めってやつだよ」と言った。
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