池月・磨墨・白虎

文字数 3,515文字

景自身はついこの間、維を迎えに三矢と一緒に訪れたのが初めてだと思っていた。
だが前川が言うには子供の頃に何度か来たことがあるらしい。そう言われて思い出したが、確かに小児喘息の発作を起こすたびに、祖父に背負われて診察を受けに来たのは繁華街の路地裏にある小さな診療所だった。その頃景を診察してくれた老先生は引退し、今はすっかり代替わりして場所も一階から三階に移ったから、同じ病院だとはまるで気がつかなかったのだ。数年前にカルテを全て電子化したとのことで、過去の患者のリストに名前と簡単な既往歴だけが残っていたと、相変わらず無精髭を生やした前川が景の背後から教えてくれた。

それよりも景の関心事は背中につけられた火傷の方で、自分で直接見ることは叶わないのがどうにももどかしい。前川は「範囲は小さいけど、それにしても酷いね」と言い、先端に細い管がついたプラボトルから精製水を押し出して、火傷を洗い流しては左手に持った膿盆で器用に流水を受け止めることを繰り返している。濡れている間だけは皮膚の表面がぢりぢりと染みるような痛みがわずかに治まることが救いで、できることならずっと水に浸かっていたいくらいだった。

「あの……。ちょっとは残りませんか」
「まぁ無理だな。よく焼けちゃってるから刺青ごとまとめて皮膚の総取っ替えだ。それより被害届け出せよ。こんなの立派な傷害罪だろ。消えちゃった分の刺青の代金と治療費、慰謝料まとめてよこしやがれ、ってさ」

維に向かって景がそんなことを言えるわけもなかった。ここに入れておけと言われた偽造免許証を持ち出して、18歳と偽って彫り師の元を訪ねた時点で、不義を働いたのは自分の方だという自覚くらいはある。

昨夜の酒も抜け切らないまま訪れたのは古びたアパートの一室で、扉を叩いて出てきた人物に三矢の名前を出してその紹介だと言うと、初老の彫師はしばらく考え込んでから「あぁ、宇治川の」と声を上げた。三矢の顔よりも先に背中に入れた宇治川の先陣争いを思い出したようで、すぐに行くからここで待ってろと言って隣の部屋の扉を開けてくれた。住居の隣の一室を仕事場として借りているようで、通された六畳間にはその真ん中に薄べったい布団が一枚敷かれている。本当にすぐやってきた彫師がまだ幼さの残る景の顔を見て、未成年と学生は断ってると言うから、維に持ち歩くなと言われていた免許証を提示して見せた。もうあの時点で自分の裏切りは確定したも同然だ。



自分で言うのも何だがと断りを入れた上で、あれは出色の出来映えだったと彫師は景に語って聴かせた。宇治川の流れを蹴り分けて疾る池月とその後を追う磨墨の、二騎の躍動を肌に刻むのはとにかく時間も手間もかかったが、彫師が心血注げるのも何より三矢の忍耐があってこそで、よう堪えてくれはったと西の言葉を混ぜながら三矢の胆力を褒め称えた。
それでどんなのを入れたいのかと尋ねられ、虎、それも白いのがいいと言うと彫師は図案帳をパラパラと捲り、このクラスだと平均60時間でだいたいこの位の金額だと予算の話をはじめる。あのうそんなに持ち合わせがないんですと言うと、じゃあとりあえず抜き彫りの虎を入れて、予算と時間の工面がついたら額を足したらいい。兄さん肌が白いから、雲額を濃く入れてやれば白虎が浮き出るように見えてさぞいい仕上がりになるだろうと言われ、得心の上で手を打ち、それですぐにも始めることになったのだ。

維の背中に青龍が棲んでいることは、三矢に聞いて教えてもらった。東方を守る四神獣ということなら、西にいるはずの白虎を自分が入れたなら、いつでも維と向かいあわせの対でいられるような気がして、そう考えついた途端に他にも入れたいと思っていたあれもこれも、本当にこれでいいのかと迷う気持ちまで根こそぎすっかり吹き飛んだ。うつ伏せに寝かされて背中で受け取る痛みは、子供の頃に虐められ、廃ガラスを詰めたドラム缶に突き落とされて向こう脛を抉られた痛みに似ていたが、これで少しは維に近づけるような錯覚を覚えて、どこか恍惚とした気分にもなる。だがその刺激も彫師の「お前さんもしや酒入ってるか?」の一言で中断された。いくら若いからって血の巡りが良すぎると思ったよと、遽にバレた景の素行に彫師は「これじゃあ進められないから、日を改めな」と言って保護材を貼り外へ放り出した。仕方なくいつものように事務所へと向かううちに、体が怠く熱っぽくなり、たったあれしきの刺青でもこうなるのだから、彫師が褒める程の三矢の胆力とやらがいよいよすごい偉業に感じられてくる。

背中を庇いながら事務所の階段を上がり、久しぶりに見た維の顔を直視することが少し後ろめたくて、掃除を理由に事務所を出ようとすると使いっ走りに出され、その間じゅう小さいはずの背中の刺青が痛んだ。それから戻ってコーヒーを淹れて、掃除をしていてもずっとその背中の痛みと、維の言いつけに背いて持ち出した免許証のことがじくじくと自分を責めてくる。悪戯がバレそうになって怯える子供のようで、だからどこか優しいような声で維に給湯室へ呼ばれ、何が起きているのかわからないまま息ができなくなり、瞬く間に組み伏せられた時にも、同じくらいの早さでこれから起きることを予感し、下されるであろう罰を覚悟することができた。

申し開きの一つもできるわけじゃない。ただ黙って耐えることしかできないと思っていたが、さすがに空焼きされたヤカンの底を背中に押し付けられた時に出た絶叫は、これが本当に自分の喉から出てるのかと恐ろしくなるほどだった。自分の背中でしゃああっという水分が蒸発する音がして、10センチも入っていない虎の尾になるはずの筋彫りは、他ならぬ維の手で一瞬のうちに荼毘に付された。

自分の声を聞いたらしい三矢が入ってきて「ちょっとやり過ぎじゃねえの」と言った声に、維は「前川んとこ連れて行け」とだけ答えて、コンロを使ってタバコに火を付ける。いつもなら吸わせないはずの三矢もさすがにこの時ばかりは何も言わず、黙って景を起こして立たせるために手を貸そうとする。ようやく立ち上がって恐る恐る維の様子を伺い、その指先に光る赤い光を見て、景はこの人に禁を破らせたのが自分であることを恥じた。維を「吸わずにはいられない気分」にさせたことは、自分が犯したことのあるどんな罪よりも、……例えば無免許運転なんかよりもよほど重く罪深いと思う。その罪人がどうして維を告発するなんてことができるだろう。



悪いのは自分です。兄貴じゃありません。
景がそう言ったのを聞いて前川は鼻で笑い、ここにもたまに来るけどさ、お前アレだな、DV被害者とおんなじだなと言った。夫にボロカスに殴られて担ぎ込まれてくる患者。何て言うと思う?『悪いのは私です。あの人は本当はいい人なんです』。いつから世間じゃ妻の顔面殴りつけるのがいい人って呼ばれるようになったんだ? 

「悪いのは自分です。自分が兄貴に背きました」悲鳴にも似た訴えを景が繰り返すのを無視して、半透明の保護材を貼りつけた前川は「今日は入浴禁止、シャワーはいいけど当てないで、明後日くらいにもう一回様子診せに来て。辛かったらこの上からでいいから、保冷剤でも乗せたら少しは楽になるよ」と言って立ち上がる。アコーディオンカーテンを引くとそこは狭い待合室で、傾いた折りたたみ椅子に座っている三矢に向かって、うちは指定病院じゃないけど俺としては労災認定してやりたい気分だねと悪態を吐く。黙って三矢が支払いを済ませる間も景は診察室の椅子に座ったまま項垂れて、声をかけても視線すら動かさずに床を見つめるばかりだ。痺れを切らした三矢の方から景の前へ歩み寄ってポケットから薄謝と書かれた封筒を出し、仕事は終わり。今日までの分だと言って景の膝にそれを乗せる。重いような軽いようなその封筒が腿に乗ったその瞬間、診療所のドアの向こうでドンっと鈍い音が鳴った。磨りガラスの向こうから入り込むはずの光が、人型に黒く遮られている。誰かが扉に寄りかかっているらしい。

肩を怒らせた前川が勢いづけて扉を開くと、ずり落ちるように入って来た維は苦笑いを浮かべて、肩を上下させて息を切らしている。ひゅうひゅうと鳴る喘鳴の合間から前川に苦情を訴えた。

「先生、……頼むから1階で ……開業してくれない?」

呼吸器病患者にとって階段は崖と同じだ。エレベーターのない3階では、診察室まで辿り着くのは拷問に近い。お前救急車の呼び方知らんのかと言いながら、前川は維の肩を担いで室内に引きずり込む。ほらどきな、診察の邪魔だよと言って三矢と景を部屋から追い出した。
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