あんずホーム・景・豊中さん

文字数 4,305文字

「景くん、悪いんだけど豊中さんの相手できる?」
「ええ。……私服でもいいですか」
「いい、いい。ちょっと話し相手してくれたら機嫌よくなるでしょ。そうすればあの人、なんでも自分でできるんだから」

ロッカールームで着替えを済ませていた景は、あとはタイムカードを押すだけの状態だったのだが、上司の声で帰宅を止めた。
景の勤める介護付き老人ホーム「あんずホーム」は、業界のご多聞に漏れずスタッフが不足している。本当ならとっくに定時を過ぎているのだが、新入りの景は些細な作業に遅れをとって、つい上がりが遅くなる。とはいえ一人で暮らす部屋へ帰っても、家事を済ませ詰将棋を解くばかりの毎日では、ここにいて誰かと過ごしていた方が気が紛れるというものだ。それに豊中さんとはちょっとした約束をしている。それを果たしに行くと思えばいい。景はタイムカードを押してから自分が受け持つフロアの一番奥にある、豊中さんの部屋へと向かう。齢七十七という、このホームではまだ若い部類の入居者だ。



廊下の一番奥にある一人部屋の扉が細く開いているところへ、景は声をかけてから入る。豊中さんはベッドに腰掛けて、目の前に用意された食事には見向きもせずに将棋の本を顔に寄せ、ページを舐めるような近さで読んでいた。
元は船乗りで闊達な性格だったらしいが、病気で視力が低下してしまい早くに船を降りたから、陸の暮らしに馴染めずにいるうちに高齢になってしまったと、たまに会いにくる家族がこぼす声を思い出す。もう就寝時刻が近づいているのにどうにも食が進まず、食事介助の必要もないのに職員を呼び出しては、夕食そっちのけで愚痴に付き合わせようとする。ただでさえ人手不足のスタッフは豊中さんの扱いに困り、悪い人じゃないんだけどね、と言って敬遠する。そんなだから最初はどんなに困った人かと思っていた景だったが、ちょっと話をしてみればすぐに打ち解けて、景には親しく口をきいてくれるようになった。
コンテナ船で調理番をしていたという豊中さんと、惣菜屋として厨房に立っていた景とはどこか通じるところでもあるのか、どういうわけか不思議と馬が合う。今日も景が側まで来て声をかけると、おぅ来たかと言って本を閉じ、豊中さんは早速将棋盤を持ち出そうとした。

「先に食事してからにしませんか。対局、時間読めませんし」
「そうかね」

他のスタッフから頼まれて来たのだろうことは、豊中さんも薄々察しているようで、のろのろと食事の乗ったトレイに向かい合わせになる。

あんずホームはサークル活動も盛んで、将棋クラブもあるはずなのに豊中さんはそこには加わろうとせず、いつも一人で黙々と詰将棋を解いている。将棋クラブ、入らないんですかと景が訊ねると、うん、ああ、と曖昧な返事をしてから声を顰めて「つまんねえんだよ。歯応えのない奴ばっかりで」と言うから思わず笑ってしまった。景自身も暮らしているアパートの最寄り駅前にある将棋クラブに加入したものの、半年も通わないうちにやめてしまっていたからだ。「いろんな人のいろんな手を知れ」と維に言われた通り、初めのうちはまめに通っていたが、維や三矢との対局よりもはるかに退屈な局面ばかりで、すぐに物足りなくなってしまったのだ。そんなところも豊中さんと自分が似ている気がして、馬が合うのも道理なのかと思ったりする。話をするうちに景が三矢からもらった詰将棋の問題集を貸すと、豊中さんは本の表紙と奥付けを見て、これ全部解いたのと訊ね、頷いて返した景に、近いうちに一局付き合わないかと誘った。勤務の後でいいならと約束したのが数日前のことだ。初めての対局でお互いの技量が分からないから、時間の予想もつかないけれど、特別な用事があるわけでもないのだから、それが今日であっても別段困ることもない。
ようやく箸を手に取った豊中さんは味噌汁を啜りながら、二本榎さんはどこで将棋を習ったのと尋ねてきた。

「以前の勤め先で上司が教えてくれたんです」
「今時随分のんびりしたとこだね」
「いい職場でしたよ。出社してまず掃除して、それから昼飯食ったら午後中上司と将棋指して」
「そんないいとこ、どうしてやめちゃったのよ」
「そんなだから潰れちゃって、クビになりました」

がんもどきの煮浸しにかじりついて、口角から出汁を垂らした豊中さんは、そういう事業所がどんどん潰れて、日本はいよいよつまらない国になってきたねと嘆いた。



あの日コンビニで水を買い、レジで支払いを済ませて駐車場に戻ると、車ごと維が消えていた。
車の停めてあったところに自分のボストンバックだけが置き去りにされて、何度維に電話しても電源を落とされているのか繋がらず、景は仕方なく家まで歩いて帰ることになった。明け方にもならないうちに起こされた景の母は息子の無計画さに腹をたてながらも、疲れ果てた様子を見ると床を用意してくれる。布団に吸い込まれそうになりながら、景は最後の力を振り絞って警察に電話すると、車両の盗難にあったと言って維のセダンのナンバーを告げた。電話の相手は寝ぼけたような声で、明日にでも警察署に被害届を出しに来てくださいと言い、それじゃ遅いんです今すぐ捜索してくださいと言って押し問答になった。犯人は同乗者で喘息の発作を起こしているから、放置すれば命にかかわると訴えると、車の所有者が運転を交代しただけでは車両盗難には該当しませんよと言われ、家出人の捜索についてなら明日にでも警察署で承りますと言われたら諦めるしかなかった。

何日経っても維とは一切の連絡が取れないまま、端末を手放せずにいる景の元へ電話してきたのは三矢で、維に置き去りにされたと訴える景を制して、時間がないから要件だけ言うけど、警察から何を聞かれても一切答えなくていい、もし拘留されても心配するなとだけ言って電話は切れた。果たしてその翌日になって県警から刑事がやってきて、ご同行願えますかと言われたけれど、三矢の声を聞いたあとだったからか、不思議と冷静でいられた。

「あなたの免許証がね、それも偽造されたものですけど。事故を起こした車両の中から発見されまして」

それでちょっとお話を伺いたいと言われ、目の前に維の写真が提示された。
この男なんですが、ご存知ですかと言われて景は思わず「無事なんですか」と声を出した。刑事は、ええ。どうにかねとだけ言って、事故の経緯をざっくりと説明した。過積載のトラックが居眠り運転してセンターラインをはみ出し、対向車と衝突したんです。その車に乗っていたのが捜査中の事件の関係者だとがわかりまして。車内からあなたの免許証が見つかったんですよ。そこまで言うと刑事が捜査資料のファイルに維の写真を戻してしまったから、景は小さく溜息をついた。

詳細については捜査中の一言で何も教えてはもらえず、防犯カメラに映った景の姿を提示して、どういう経緯で行動を共にしていたのかを説明しろと言われ、景は三矢に言われた通りに何も答えなかった。維の状況を小出しにされて、もっと知りたきゃちゃんと答えろと言わんばかりの誘導には何度か引っかかりそうになったが、それでも黙っていたのは心底疲れていたのと、迂闊なことを言えば維の身に関わることになると分かっていたからだ。運転手として雇われて、命じられた場所まで移動していただけで、その他については「わからない」「知らない」「覚えていない」を繰り返して二日ばかり拘留された。そのうちに面会に来たのは弁護士を名乗る見知らぬ男で、高木壮一郎様からのご依頼で伺いましたと自己紹介した。結局その日のうちに釈放され、無免許運転の罪で保護観察処分をもらうだけで、賭博罪及び容疑者の逃走幇助については家庭裁判所の判断は審判不開始として、事実上の不起訴相当の扱いになった。
釈放されて帰宅し、実家で待ち構えていた母は、もう勘弁してちょうだいあんたまで警察の世話になるようなとこに首突っ込まなくていいのよと言って景を咎めた。



母親の小言を聞いた翌日の早朝に家を出ると、電車を乗り継いで自分のアパートへと戻り、駐輪場で拗ねたように壁に寄りかかっていた自転車を持ち出す。錆びて軋むような音をたてるそれに乗って、住宅街の方へと向かった。あれから数度病院への送迎をした組長の本宅は、丘陵地の一番奥まったところにある。自転車で登るにはきつい坂道ではあったが、道はちゃんと思い出せるはずだった。電動アシストなんてものが付いているわけもない自転車で坂道を立ち漕ぎして、こんなに遠かっただろうかと考えながら30分近く彷徨ったあげく、ようやく見つけた広い空き地に重機が停められた工事現場が、組長の自宅の跡だと気がついた。もうとっくに売りに出された物件の建物は解体され、入り口近くに植えられていた躑躅が根こそぎにされ片隅に積み上げられている。買い取った業者が敷地に一戸建てを3軒建てるべく着工していたのだ。掲げられた白いボードには「建設計画のお知らせ」が貼り出され、表記された見知らぬ施工主と施工業者の名前に、むしろ景の方が何の用があってここへ来たのかと詰問されたような気分になった。

釈放されてから、もう何度三矢と維の端末に連絡をしたかわからなかった。だが繋がらないどころか、三矢の番号に発信すると、同じ回線を新たに契約したらしい女性の、綺羅綺羅しく甲高い声が応答した。維の番号はどこぞの企業が契約して社員に持たせているらしく、長ったらしいカタカナ社名で応答された。そんなことでもなければ二人の電話番号をスマホから消去することは、景には難しかっただろう。
そうして景の人生から、松岡組は消え失せた。

三矢がいた証拠にはあの水色のカバーをかけた将棋の本一冊が残った。維がいた証拠は景の背中に、花札の藤の種札に飛んだ杜鵑(ホトトギス)の、そのまた後ろにぽかりと浮かんだ赤い三日月みたいな、今となってはうっすらとピンク色をした火傷の痕が残っただけだ。

『……やるもんじゃないぞ任侠なんて。最後には何も残りやしないんだから』

維がそう言ったのは本当だったのか。少なくとも一冊の本と、火傷だけは残ったじゃないか。
反発するような心持ちだったせいだろうか。景の指先で駒が一際大きくパチンと音を立てて、将棋盤のマス目に据えられた。



「参りました」

将棋盤を挟んだ向こう側で、豊中さんはそう言って景に白髪頭のつむじを見せ、それから傍の小机にある引き出しから手帳を取り出すと、ページをパラパラと捲る。それから「二本榎さん、来月の頭に僕の友人が来るんだけど、頼むからそいつと一局つきあってやってもらえないかな」と興奮気味の声で言った。
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