西ヶ浦・景・狼煙

文字数 4,443文字

あんずホームでの対局ののち、景は豊中さんに拝み倒されてホームにやってきた客と顔を合わせた。スーツを着た壮年の男性で、藤沢と名乗ったその人は『豊中さんの弟子なんです』と言った。とにかく一回対局してみなよという豊中さんを、まあまあ、落ち着いてくださいよと制して、藤沢は色の焼けたハガキサイズのDMを景に差し出した。DMには『囲碁将棋サロンけやき』という丸ゴシック並べっぱなしの緩い施設名と、最寄駅からその施設までの地図が描かれている。

「ここの将棋クラブで室長をしているんです。もしよかったらぜひ一度いらしてください」

そう誘われて出向いたサロンけやきは、官庁街と商業地の境目にある古いビルの一室で、囲碁と将棋の愛好者がそれぞれ広いフロアを半分に分けて、廃校になった中学校から貰い受けたという机と椅子を並べた部屋が用意されていた。平日の昼間だから、年配ばかりがパラパラと席を占める室内は光が差し込んで、どこか有楽街にあった「あのビル」にも似た雰囲気のせいか、居心地は悪くない。
景はそこで初めて藤沢と対局して勝ち、すると藤沢はしばらくの間盤を眺めてからやおらカレンダーを手に、次はいつ来てくれるかと景に詰め寄って、半ば強引に予定を決めさせた。約束した手前翌週にまたサロンへ顔を出すと、前よりも増えた頭数が室内にいて、対局を始めた途端に集まってくる。やがて景が藤沢に競り勝つとギャラリーから自分とも対戦してほしいという声が上がり、それにも応じて白星を上げた。
藤沢は「入会金は豊中さんから預かってるから、あとはこれに君が名前を書いてくれさえすればいい」と言って入会申込書を突きつけてくる。景はサインをしなければ家に帰らせてもらえないような微妙なムードに追い込まれた。もし何か妙なことになったら豊中さんに相談しようと思いながらとりあえず申込書に署名して、また翌週サロンに来てみれば今度はさらに人が増えていた。イベントでもあるんですかと藤沢に尋ねると、ソファーに腰を下ろしているスーツ姿の男性の横まで景を連れて行き、この人プロ棋士なんだけど、二本榎さんの話をしたらぜひ一度手合わせ願いたい、ってことになって。そしたらこんなにギャラリーが集まっちゃったんだと言って笑った。

見たところ景とそれほど年齢も違わないように見える男性が、よろしくお願いしますと言って頭を下げるから、もうすっかり用意されている将棋盤の前に腰を据えた。相手の着ているスーツの袖口だけを見ながら対局していると、今自分と指しているのが三矢か維のような気がして、ふと首を持ち上げるとそうではない現実に引き戻される。少し落胆してはまた盤面を見ることを繰り返すうちに「参りました」の声が聞こえ、対局は終了していた。
それから先はほとんど毎週サロンへ通った。負けなしの強さで対局を重ねても、景自身は勝ち負けにはあまり興味がなく、健闘を労い賞賛してくれる誰かの声かけに、とりあえず礼くらいはしなければと思うばかりで、自分の中からは澄んだ歓びというものは湧いてこない。ただ対局している間だけ、維や三矢と再会している気分になるのが心地良かった。将棋盤は景にとってのタイムマシンであり精神安定剤のようなもので、結局のところ、自分はただ維に会いたいだけなのだと思う。



去られた淋しさだけはいつもどこかに小さく疼いて、時折思い出したように景の気持ちを蝕んでゆく。まるで海の向こうの低気圧にやられて発作を起こすように、維や三矢と過ごした日々を思い出していたたまれなくなる。どうしても維に会いたくてたまらなくなるとやってくるのは、かつて松岡組の詰所が入っていた空きビルで、あれから誰が入るでもなくテナント募集のステッカーが貼り付けられたビルのドアに貼り付いて、何もないと分かっていながらがらんどうの玄関ロビーを覗き込み、駐車場から2台のバイクが去って行った方向を眺める。それがいつの間にか景の習慣になっていた。
そのうちついにビルの売却が決まったようで、瞬くうちに足場が組まれた。行き場を失くした景は道路の反対側からその様子を窺うことしかできなかったが、やがて作業が終了し現場を覆っていたパネルが外されると白亜の構造体が姿を現した。解体には至らず建物自体は残ったものの、内外装に大掛かりな手を入れたらしく、詰所だったビルはまるで同じ建物には見えないほどの変貌を遂げていた。

「おい、何してんだ」

あまりの変わりっぷりに口を開けて見ていた景は、ビルから出てきた髭面に声をかけられて慌てて口を閉じる。声の主は相変わらず薄汚れたようなワイシャツの袖を捲り上げ、ずり落ちるメガネを中指で押し上げている。

「先生こそ何してんですか」
「お前の兄貴のご要望に応えて1階で開業することにしたわ。いつでも来いって伝えとけ」

前川にそう言われても、もう景には維に伝える術がない。あれから何年も過ぎてもうすっかりその事実には慣れたはずなのに、「みんな縁が切れてバラバラになってしまった」と声に出して伝えると、なぜか悔しくて涙が出そうになる。

「先生の言いつけ通り、俺なりに番犬勤めたつもりだったのに、兄貴は俺のこと見捨てて消えました」

そう前川に言うと、バカだなぁお前、ヤクザが子分見放すのは何とかしてカタギに戻してやりたいって親心だと言って笑った。

「お前の誠意が兄貴に伝わったってことだ。縁切られたのは葦折原なりの親心だと思え」

駐車場に置き去りにされたことを、今度会ったらなんて言って詰ってやろうかとばかり思っていた景だったが、前川の言葉に少しばかり慰められた気がした。それでも歪んだままの眉を貼り付けて、あれからもう何年も過ぎたというのに、思い出すたびに景は捨てられた仔犬の貌に戻ってしまう。

「そんなに寂しいんだったら、お前もプロになったらどうだ。メディアに取り上げられたら、兄貴たちがお前の活躍をどこかで見て喜んでくれるかもしれないぞ」

そう言った前川が、手に持っていたスポーツ新聞を広げて大きな見出しを突きつけてくる。有名なプロ棋士がタイトル戦を制し、最年少で四冠を達成したという記事が掲載されていた。
もうとっくに日は暮れて辺りは暗く、有楽街の方向が照明でぼんやりと光り始めている。景は前川に礼を言うと、けやきサロンのある官庁街へと走り出した。今ならまだ藤沢がいるはずだ。家路を辿る通勤帰りの人混みを逆流するように、景はサロンの入ったビルを目指す。息を切らせて階段を駆けのぼり、勢いよく扉を開くと予定外の景の訪問に驚いている藤沢に、どうやったらプロ棋士になれるのかと詰め寄った。藤沢はさらに驚いて、それから少し困ったように眉を顰めている。

「えっとね、奨励会、っていうプロ棋士養成機関があって、そこの入会試験を受けて合格するのがプロの登竜門なんだ。……言いにくいんだけど、受験資格は19歳までなんだよ」

もうとっくに二十歳も過ぎている景には、もはや受験資格もなくなっていた。



「それか、アマチュアの全国大会がいくつかあって、そのどれかに優勝すると、奨励会の編入試験が受けられるんですよ」

でもね、ものすごい難関ですよと藤沢は言ったが、もはや景の耳には何も届かない。
自分の行くべき場所は見えた。そこに登って灯をともせば、遠くからでも維が自分を見つけてくれるかもしれない。そこからは将棋漬けの毎日になった。藤沢に紹介してもらった講師を訪ね歩き教えを乞い、オンライン対局はもちろん、あらゆる道場に顔を出した。使えるものはなんでも使い、神仏にさえすがりついた。東京まで行くと鳩森八幡神社を皮切りに、勝負運を授けると言われる神社を巡り、兜町の将門塚や回向院にも出向き、伝説の義賊の墓石まで削り取って持ち歩いた。
食事の時間まで惜しんで対局するからいつも以上に腹が減り、空腹をごまかすために甘いものを欲しがった。チョコレートもグミキャンディーも好んだが、一番気に入ったのはキャラメルで、気がつくといつもポケットには黄色い箱が入っていた。息子の将棋狂いをあまり好ましく思っていなかった母親は、電話でやつれた声を出す息子を心配し、ちょっと休みなさいと声をかけ、家に呼び寄せた。

久しぶりに実家へ戻り、それでもスマホを覗いて詰将棋を解いている息子を見ると母親は呆れて、車使っていいからたまにはお父さんのお墓でもお参りしてきなさいよと水を向けた。景がまだ小さい頃に離婚して、それから程なくして亡くなったという父親の顔を、景はほとんど覚えてもいないし、遊んでもらった記憶もない。そもそも家にいることが少なかった父との数少ない思い出は、あぐらをかいた父が景を膝に乗せ、キャラメルの包み紙を使って折鶴を作ってくれたことくらいだった。

「そういえば真剣師して稼いでた時もあったわね。お墓参りしたらちょっとはご利益あるんじゃないの」

母親にそう言われ、景は白い軽ワゴンに乗って海沿いの道を目指す。市街地を抜けて対向車もまばらな道を走っていると、それだけでもほんの少し気分が晴れた。



本当に数える程しか行ったことがない墓地だったが、子供の頃から大した変化もなく、相変わらず交差点名の標識くらいしか目印になるものがない。だから迷うはずもなかった。
母が使っている軽ワゴンに乗り海沿いの道をひたすら進む。「西ヶ浦」と書かれた小さな標識のついた交差点を曲がって細い道を行けば、砂利を敷いた駐車場に出られる。車で入れるのはここまでだから、景は母に持たされたお供物の落雁と仏花、線香の束を入れたビニール袋を持って、角の削れた石段を上がる。

ゴールデンウイークも過ぎたばかりで季節はまだ春と呼べるはずなのに、直射を浴びれば汗が噴き出てきそうになる。息もつかずに石段を登り切り、そこから景色を見渡せば自分が車で走ってきた道と西ヶ浦交差点が見えた。他には目印になるようなものはなく、木に覆われた丘陵と、集落の跡らしい緩斜面、数件の廃屋の屋根。陸にあるのはそのくらいで、あとはひたすら護岸に隔てられた日本海が広がっている。
遥か遠くには薄く雪を頂いた山の稜線が見えて、景は自分のやろうとしていることはあの峰に一人で登って、その頂で火を焚くよりも難しいことだと思う。それでもその狼煙を上げることでしか維とコンタクトが取れないのなら、もはや他に為すべきことはない。

久しぶりに訪れた墓石の前で、景はしゃがみこんで線香の束に火を着ける。何度も何度も百円ライターの、硬い着火ボタンを押し込んで、頼りない小さな炎で何度も線香の先端を炙った。そのうちに赤い光の粒が見えはじめると、それに息を吹きかけては同じことを繰り返す。煙にやられた目を瞬かせると涙が滲み出し、咽せた喉はごほごほと咳込んで景の腹筋を揺らした。

燃えろ。もっとだ。
景は自分がここにいることの証としての火を燃やす。今は低い丘陵にいるが、いつかきっとあの峰の頂で炎を掲げる、そのための小さな火を何度も繰り返し灯し続けた。



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