ソファ・神棚・弓張提灯

文字数 3,748文字

そのうち本当に駿河屋が閉店した後、景がしたことはまず真っ先にその人の事務所へと向かうことだった。黒い車を乗り付けて駿河屋へ惣菜を買いに来てくれた会社の社長が、何を営んでいるのかすらわからないまま、あたしもよく知らないのよと言う叔母から聞き出した頼りない情報だけで原付に乗って向かったのは、港の近くにある倉庫の並んだ一角に建った古めかしいビルだった。入り口に極太楷書で書かれた松岡組の看板だけが威勢よく、しばらくそこで様子を伺っても誰が入っていくでも出てくるでもない扉は岩盤のごとくで、寸分たりとも動く気配すら見せない。よく見れば郵便受けはガムテープで口を塞がれていて、転送先の住所番地が油性マジックで書き込まれている。駅に近い繁華街の町名が書かれたそれを見て、景にはすぐに場所が思い浮かんだ。駅の裏手にある飲み屋の並んだ路地、その奥に数件の風俗店とホテルが並ぶ辺りだ。
早速向かった先でそれらしいビルを見つけたが、それが郵便物の転送先の事務所だってことは、ビルの入り口に控えめに掲げられた、小さなプレートの「松岡詰所」という文字だけでしかわからない。二軒隣の縄のれんは昼だというのにダクトからもうもうと煙を吐いて、とりあえずその軒先の、ビールケースに座布団をくくりつけた椅子に腰掛けて、注文した串を齧りながら待った。
誰を? 他ならぬあの人をだ。

出入りするところを捕まえて、求人の予定はないかを尋ね、なんとなれば本人に直接「ここで働かせてほしい」と訴え出るのだ。二十歳になるにはまだ時間が必要な身の上だし、それ以前に昼間っから酒臭い息を吹きかけるわけにはいかない。突き出しのキャベツと串を齧りながら、ウーロン茶に浮かんだ氷が溶けて薄くなるまで座り続け、そのうちに事務所の入り口に黒いワンボックスが停まった。運転席から作業着姿の若い男が降りて後部座席のドアを開けたところを見届けて、景は席を立つ。

あてがはずれたのか、車からは誰も出てこない。気ばかりが焦る景が見たのはビルの入り口の、自動ではないドアが中から押し開かれて、そこから歩み出てきた年配の、それこそ景の祖父よりもうさらに年嵩に見える小柄な老人の姿。その横でドアマンのように扉を押さえ、白髪の半歩後ろを付き従ってゆく男の姿を見つけた。あの時惣菜のケースを覗き込むように身を屈めていたあの人が、景の気配に気づいてこちらを向いて軽く身構える。

「あのここで、……ここで働かせてくれませんか」

全部言い終わった時には、男はもう老人と一緒に車に乗り込んでいる。運転手はこの間店頭にビニール傘を持ってきたあの人だ。戸締めを確認するとすみません車動かしますからと景に声をかけてくる。ここまで来たらもう誰でもいい。あの、ここで使ってもらえませんかと願い出ると、運転手はうろたえて、いやあのここは会社だとかそういうのじゃないですとだけ言い車に乗ろうとする。追い縋るともう一人別のスーツがビルから出てきて、ほらほら、そこ退かねぇと轢かれるよと言って鬱陶しそうに手の甲で景を払い除けた。掃除でも運転手でも何でもしますから使ってくださいと言う景の声を聞いて、いいからもう()ぇんな兄さん、職安ならあっちだよと駅の方角をさす指には金の印台が光っている。職安で求人票に埋もれてため息を吐くのはいつでもできる。それこそ髪に白いものが混じるようになってからでもできることだ。景の目には今しか映っていない。探し出して待ち続けたその人のことしか。

「ねぇ、……アンタぁ駿河屋の店番?」

車のサイドガラスが下がって、中から惣菜屋の店名で呼んだのは、その駿河屋で景にメンチカツと、チキンカツとコロッケを注文して、滑らかに光る札入れから手の切れそうな新券を出して支払いをしたあの人だ。あの長い指先がドアの淵に掛かっている。そうですと応じる景の声を聞いて奥からこちらを覗き込んだのは、奥に座った老人の方で、しわがれた声で店はどうしたのと尋ねられた。先週末で店じまいしましたと答えると、車内で何かを話し合うような気配がしているが、景にはこのわずかな時間すら惜しい。

「あの、掃除でも何でもいいです。ここで仕事させてもらえませんか」

ドアが開いて降りてきた男は、ついさっき景を手の甲で払い除けた男を呼び寄せると、お前代わりに行けと言って車に乗せた。滑るように出てゆく車を、頭を下げて見送った男はビルの入り口へと戻って、扉を開くとそれをぼんやりと見ている景に声をかけた。

「ここは会社じゃないってことくらいわかるよな」
「……さっきそう言われました」
「じゃあ何だと思う」

男の指先がコツコツと玄関のプレートを叩いている。『松岡詰所』とだけ書かれたプラスチックのプレートを見て呆けている景に、本当は岡と詰の間に組が入るんだけど、生々しいからわざと外してんだよと言って、それからビルの入り口の重たいドアを押し開いて「それでも良けりゃ、どーぞお入り」と言って微笑んだ。



1階にある部屋を玄関ホールから覗き込むと、広そうな部屋の半分は畳敷の小上がりになっていて、残りの半分にはオフィス家具やら段ボールの類いが積み上がっていて薄暗い。どうやら廃品置場になっているようで、そっちじゃないよと言われて階段を上がった先の部屋に通される。古いけれど手入れの行き届いた革張りのソファと、大きなデスクと、葉のフチが黄ばみはじめた観葉植物が配置されて、それは景がかつてアルバイトしていたビル清掃の現場でよく見かけたような眺めだ。唯一圧倒的な違和感を放っているのが一番奥に鎮座している神棚で、その両端には墨文字も黒々と「松岡組」と入れられた弓張提灯が並んでいる。奥にある給湯室から盆も使わずに茶托を摘んで出た男が、景の前にそれを置いた。ということは客であるとみなされた、ということだ。

「……あの、履歴書だとかは」
「要らないよ」
「じゃあ、何すればいいですか」
「勘違いすんな。うちは誰も雇わないし、もう部屋住み(見習い)も取ってない」

大体ヤクザってのは働いてお給料もらうってのとは違うんだよ。そう言って男はメモパッドとボールペンを茶托の横に置いた。

「親父が『働き口をあてがってやれ』って言うから入れただけだ。仕事の紹介くらいならしてやれるから、ここに連絡先書いて、茶ぁ飲んだら帰んなよ。駿河屋さん」
「俺のこと覚えててくれたんですか」
「……親父に言われて思い出したわ。俺らも散々食ったけど、元々あすこは親父の『行きつけ』だからな。うちの若衆やってて駿河屋の惣菜食ってない奴はいないよ」

火を点けないままのタバコを咥えながら、景の差し出したメモを見つめる眉が歪む。
えっと、これ『にほんえのき』さんでいいの? と男がメモ帳を指さした。学校でもバイト先でも、ふりがな無しに二本榎景と書いてすんなり読めた人は何人もいない。

「にほのき、です。にほのき、けい」
「へえ。ニホノキさん。どうして『ん』と『え』が抜けちゃったのかねぇ」
「その方が言いやすいからじゃないですか」

岡と詰の間の『組』が抜けたのと同じようなもんか。そう言った男は微笑んで、景に年齢を尋ねてくる。18ですと言うと、はぁ若いねぇ、まだまだ時間も体力も浪費しまくりだなと笑う、男の下瞼に小さな皺が浮いた。

「じゃ、ニホノキくんは何が得意なの? 飲食店の厨房ならちょっとは選べるけど」
「あの…。ここの、見習いでもダメですか」

掃除でも電話番でも、使いっ走りでいいですから、ここで使ってもらう訳にはいきませんか。そう言って食い下がる景の目の前で男は卓上ライターをカチカチと鳴らし、ガス欠だと気づくとデスクへと向かい、引き出しの中を探って、出てきた手で古式ゆかしくマッチを擦る。ようやく煙を吹きはじめたタバコの先端で、ドアの方を指した。

「なぁ、あそこから帰りたいだろ? 早く茶ぁ飲まねぇと、さっき俺の代わりに車に乗った奴が戻ってくるぞ。あいつは気に入らないものはもヒトでも何でも窓から放り出すからね」
「給料もいりません。ただの見習いでいいですから」
「ほいでお前さんはどうやって食ってこうってのよ」

とにかく潜り込んでしまえば次につなげられる。アルバイトをつなげてきた、その時作ったわずかばかりの蓄えを崩せば、身入りがなくても当分は大丈夫のはずだ。寝起きしている家賃の安さだけが取柄のボロアパートを追い出されたとしても、運河に架かる橋の袂まで行けば、まだじいちゃんの暮らしていた艀が浮かんでいる。いざとなればあそこへ潜り込めばいい。

「貯金だったらあるんです。半年ぐらいは粘れるから、そのくらいまでの間でいいんで」
「行儀見習いならもうちょっとまともなとこでやんなよ」
「運転もしますし、メシも炊きます」
「そいで半年後には食い詰めてにっちもさっちも行かなくなるんだろ? やめときなって」

あーあ、まったく他所の組から見たら羨ましいんだろうけどなあ。若い奴が自分から入れてくれって頭下げに来るなんて、この二十一世紀の日本でありえないにも程があるな。ぼやく男の指先でミリミリっと音がして、赤い光がじわりと指に近づいてゆくのが見える。
あれは自分だ。寸分刻みでこの人に近づいて、煙になるのを厭いもしない。奇妙な覚悟が景の中に赤々と灯った。

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