タバコ・茶・コーラ

文字数 4,252文字

「兄さん、随分お若いね」

そう言って声をかけてきたのは、景より先にコタツに入ってくつろいでいた年配の男性で、祖父と同じかそれよりは少し若いくらいだろうかと見当をつける。八畳敷の和室の片隅に置かれたコタツで暖をとりながら、千鳥格子のウールジャケットを羽織った胡麻塩頭が、タバコの箱からフィルターをおみくじみたいに振り出して、景の方へと向けるから丁重にお断りする。天板に乗った大ぶりの急須からお茶を注ぎ、せめてご返礼のつもりで男の湯呑みにも注ぎ足すと、男は火のついたタバコを挟んだ指で器用に手刀を切り、早速それをずずっと啜ってみせた。

「ほいで、どこいらからで」
「松岡の若い者です」
「あれェ、ほいじゃあ、あんた高木さんとこのォ」
「はい。世話になってます」
「あん人の博打上手は有名だからぁ。あんたも惚れたクチかい」

ようけ遠くっから来たのにまァ兄分が打つばっかりでェ、おまいさん待たされっぱなしか。そう言って憐れむような目を向けられたが、景には先立つものも肝心の打ち方も、その楽しみ方もわからない。三矢や維の口から何度か聞かされた『盆』というものに今自分は来ているらしいのだが、時折開閉される襖の向こうにチラリと見える、白い板を取り囲んで座った男たちと、そこに紛れた維が何をしているのかは全くわからずにいる。ただ時折聞こえる「勝負」という低く張った声と、取り囲んだ男たちの嘆息を込めたざわめきが景の耳に届くだけだ。



あれから維に言われるまま、景は温泉街の観光案内所に隣接する駐車場に車を入れた。
盆、ってどこなんですかとあらためて尋ねると、維は「店とは違うんだよ。場所を借りてどっかでこっそり開くもんなんだから」と言って笑った。慌てなくていい。ちゃんと迎えが来る手筈になってると維が言う通り、しばらくすると車に男が一人近寄ってきて、維がサイドガラスを下げると「ご足労様です。できてますからどうぞ」と言って二人を案内する。着いたところは駐車場からそれ程遠くはない温泉宿で、しかし入口の看板は消灯されて、正面玄関らしい大きなシャッターは開閉されている様子もなく、維はその寂た様子を見て「廃業した旅館で盆を敷くとはなかなかいいセンスしてるね」と言ってニヤリと笑った。

迎えの男は本館の正面玄関を通り過ぎ、木戸を開くと細い裏口を抜けて、庭の一角に造られた離れへと向かう。今は庭木も荒れ荒んでいるが、よく見れば奥には本館からの渡り廊下も見える、きちんとした日本家屋だ。母屋の向こうには侘びた草葺きの庵が見えて、茶室の用意もあるらしい実に風雅な造りになっている。飛び石伝いにたどり着いた暗い玄関灯の下で、案内役の男が立ち止まると中から引き戸が開けられた。懐中電灯を持った人が軒先に立つ顔を照らし、それから足元の敷居を照らして「ようお越しを。足元(あぶ)のおまっせ」と言って維と景を招き入れた。

今度こそ靴には手も触れず下足番に任せて上がると、久しぶりの客に驚いたように上がり框が軋む音をたてる。案内人の後について長く薄暗い廊下で数枚の襖を通り過ぎ、人いきれが漏れ出すような襖に手をかけて少しだけ開き、中の様子を確認してから二人を中へと押し込んだ。十畳敷きの真ん中には白い布をかけた畳一枚ほどの板が敷かれ、その周りをぐるりと囲む頭は斑らに白いもの、すっかり白銀のもの、薄くまばらなもの、手入れよく光るような禿頭が入り混じり十五、六人ばかり。やぁお若いのがおいでなすったという声に招かれて進めば、傍の文机ひとつで用意された帳場に、堅真会会長の屋敷で応接してくれた大沢が座っていた。維が正座して慇懃に頭を下げたから、景もその横で同じようにしてみせる。

「松岡組代打ちながら参じました」
「ご足労おかけいたしました。お二人入られますか」
「いいえ。こいつは控えで待たせます」

維はそう言って景を連れ、襖で仕切られた隣の座敷に上がる。
その部屋はバックヤード、ということなのだろう。廊下に近い三畳間と、その奥の八畳間の間にある襖は外されて、ひとつながりの和室になっている。片隅に置かれた冷蔵ケースには清涼飲料水やらドリンク剤が収められ、その隣に据えられた座卓には寿司桶や、菓子パンの類を入れたフードコンテナが積み上がり、時折誰かがやってきてはそこから食品を皿に盛り、いそいそと座敷へ運んでいく。奥の八畳間へ入ると、そこには座布団が敷かれ毛布も置いてあり、傍にはコタツも据えられている。すでに数名、つけっぱなしのテレビを見ながらごろ寝して、盆にいる主人の戻りを待っていた。
ここで待ってろと維に言いつけられ、景としてはせっかくここまで来て閉め出しを食らってたまるかとばかりに「俺も見たいです」と訴えるが、維は「盆の毒気に当てられるのは俺一人で十分だ」と言って景をコタツに置き去りにした。



「長丁場になるから寝ててもいいぞ。何か食うもん欲しくなったら隣に頼んで、代金は俺につけるように言っときな」

維がそう言うくらいだから、朝になるまで帰れないだろう。控えの間には男たちが入れ替わり立ち替わりに現れて、茶を飲んだりタバコで一服つけたりしながら博打の首尾やらを雑談し、また広間へと出ていったりを繰り返している。景は誰かに構われて雑談に応じたり、お茶受けがわりらしいみかんが段ボール箱ごと置かれてるのを食べたりしているうちに夜も更けてきた。ふと手にしたスマホにはさっき母宛に送信した「今日は無理みたい。明日帰る」というショートメールに返信がついている。「了解。にしても連絡が遅いんじゃないの」という小言混じりの本文の最後で、絵文字のまん丸い顔が険しい表情をしている。
『叱ってくれる人がいるうちが花だ』と維は言ったが、維にはもうその『叱ってくれる人』はいないのだろうかと景がぼんやりと考えていると、近くで携帯の着信音が鳴った。隣に座った男性が、おう、ああ、大丈夫だ。わかったわかったと短く答えて通話を切ると、やれやれ、娘ですわと言って苦笑いしている。

自慢の娘だがどうにも心配性でぇ。……まぁ娘、ってぇも俺の子じゃあないんだがね。若い時分に兄貴分が長いお勤めに出るってことになって、嬶ぁもなしに育ててた一人娘を、俺んとこ夫婦で引き取ってサ。よくちゃんと一人前に育ってくれたもんだァ。兄貴は12年務めて出てからもよ、娑婆と務所とを往復してるうちに、ガン患ってなぁ。最期は医療刑務所だったから、並の檻よか少しはマシだったのかと思うしかないわな。

昔はこんなこと、ちっとも珍しくもなかったんだけどもねと言われて景が素直に頷けたのは、母と祖父母も血は繋がってないと聞いたことがあるからだ。ただ母が不幸だったのは、自分は祖父の知り合いから預けられた子で、家族の誰とも血縁がないということを、免許を取ろうとして取り寄せた戸籍書類で知ってしまったことで、そこから始まった親に対する不信が自立を早めたのかもしれない。母は早々に家を出て、住み込みで働ける温泉旅館の仲居をやりながら、生まれ育った場所を離れて暮らしてきた。景がまだ幼いうちに離婚して、その後に再婚した継父とも結局別れてしまっている。それなりに苦労をしてきたはずの母に報いることができないどころか、自分は一体どこへ向かおうとしてるのかさえわからずに、景は自分をごまかすようにスマホに入れてある詰将棋のアプリを起動させて、画面の中の小さな将棋盤を見つめる。指先ひとつで解いてしまえば次の問題が、それも解けばまた次が現れて景の気を引くが、こうしている間に時は過ぎて、朝になれば維と三矢が行き先を違えたように、自分と維もまたほどけてしまうのだと思えば胃の底辺りがきゅうっとして、じっと座っているのが辛くなる。



ふと気づくと老爺は座敷から入ってきた男と連れ立って帰り支度を始め、それじゃお先にと言って立ち上がり、景一人がこたつに残された。戻らない維を待ちながらほんの少しうとうとして、それから誰かがこたつに入ってきた気配で起こされた。やっと維が戻ってきたのかと思ったが、みればさっきの老爺よりは若く、しかし自分や維よりはだいぶ年嵩らしく見える男が、懐を探ってタバコに火をつけている。狭そうに身を屈めながら「悪いなぁ、起こしちまったか」と言って布団を胸元まで被り、美味そうに煙を吐いた。

「待ちぼうけかい」
「はい」
「どこら辺から」
「あの、松岡組の者です」

へえ。あっちから来たんじゃあここいらの夜寒は堪えるだろうなぁ。そう言って傍に積み上げてあった毛布を取ると肩に羽織り、使いなよと言って景の肩にも掛けてくれた。確かに真夜中を過ぎて、ぐんと冷え込んできた気がする。

「松岡組って言えば俺も昔何度か盆に出入りしたねぇ。最近はどうよ」
「あの、自分はまだ日が浅いんで……」

色の濃いレンズ越しの視線に射抜かれて、言い訳する理由もないはずなのに景の声が弱く細ってゆく。

「どうもなにもないか。噂に聞いたよ。松岡組も解散するんだって? もっとも昨今珍しいことでもないけどなぁ。どこもかしこも不景気な話ばっかりで、昔みたいに盆泳がせるような余禄もありゃしねぇし。肝心の盆がもう、どこを探したって此処くらいだろうな。西も東も、もうこういう遊びを嗜むような粋筋はいなくなっちゃったからね」
「……自分はよく知らないんです。ただの運転手なもんで」
「そいでもアンタぁ、松岡組にゲソ付()たってことは博徒渡世駆け出しってとこだろう? ここにきて解散じゃあ心残りだなぁ。……この先、どっか行くアテあんのかい」

行くあても何も、ここへ来たのは維の後についてきただけだ。ずっとそうしてきただけのことで気がついたら侘びた古宿にいる自分に、この先なんて見えるわけもない。



「良かったら俺んとこ来たらいい。何、俺も大したもんじゃぁねえが、一家名乗って渡世してんだ」

男はそう言って懐から名刺を取り出して景に渡す。
たかとおよしひこ、と印刷された名前を黙読するのと同時に、景の後ろで「ぱくっ」と音がした。見れば維が右手に薄緑色をしたガラス瓶の首を掴んで立っている。音はどうやら冷蔵ケースから引っ張り出したコーラの瓶を、座敷の柱に叩きつけた音だったらしい。維はビンの先から褐色の雫をぽたぽたと滴らせながら歩み寄り、男の後ろから左肘を首に絡め、瓶の鋭利に割れた先端を晒け出された男の襟元に押し当てた。

「……この期に及んでお目通りが叶うとは。ご無沙汰してます。タカさん」




※ゲソ付けた……組員になった、の意。
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