飛車角・香車・桂馬落ち

文字数 3,686文字

あれから景はいつものように、午前中は事務所がある有楽社交街の周りを掃除して、昼になると事務所へやってくる三矢と維が気まぐれに始める事務所の片付けを手伝う。それも毎日というわけではない。二人は何もしない日は本当に何もせず、新聞を読み雑談をしては景にお茶やらコーヒーやらを入れさせると、真ん中で二つ折りにできる簡易な将棋盤を机の上に開いて、三矢はいつもの袖付き椅子から、維は椅子も使わずに立ったまま将棋を指す。三矢が長考すると、維は一手指しては部屋の真ん中に置かれた応接セットのまわりをぐるりと一周歩く。さらに長考が続くと退屈しのぎに給湯室で水回りを掃除している景のところに来ては、さすがにそろそろやらんと拙いよなぁ、と相談めいたことをぼやく。雇い主にそう言われても、景には返す言葉がない。

唐突に投了した維がちょっとだけでも片付けるかと言って動き出すと、三矢も仕方なさそうに応じ、そのくせ維の足を引っ張るように「怠い」「疲れた」を連発して作業の手を止め、三人まとめて2階へと戻ろうとする。そうかと思えば維の留守には、三矢は景を連れてようやくがらんどうになった4階の隅から隅までを、ぶっ続けで清掃しようとする。

物のなくなった室内にまず掃除機をかけ、古い絨毯は剥がし、外側は砂埃、室内側は埃がヤニで固められたような窓を拭く。あっという間に泥で真っ黒になる雑巾を見かねた景が、まず古新聞を濡らして拭き取り捨てる作戦を提案し、それに応じた三矢が1階の物置になっている部屋から古新聞の束を持ってきて四つ切りにして濡らす。景がそれを使ってガラスを拭き、三矢もガラス拭きの合間に網戸の両面に濡れた新聞紙を貼り付けて、それをしばらく放置しては剥がすことを繰り返してすっかり磨き上げた。

その翌日も先に三矢が事務所へやってきて、エビカツサンドを食べながら新聞を読みテレビを流し見て、維が来るのを何となく待っていたのが、やおら立ち上がって景を連れて3階へと出向く。締め切ったカーテンと窓を開け、維が来る前に一仕事しておくかと言って片付けを始めた。3階はここで寝起きしていた部屋住みたちの使っていたリビングと、台所と水回りで、4階よりも雑然と物が溢れている。景はひとまず掃除機をかけて、積もった埃を除けるところから始めた。

三口のコンロとシンク、食器洗いスポンジや洗剤もそのまま据え付けられたよくある家庭用のキッチンカウンター。その前にあるダイニングテーブルは大きめの6人掛けで、傍にはスタッキングできる簡易な椅子が6脚セットで積み上げられている。風呂場にはタオルとスポンジ、洗面所には歯ブラシやT字剃刀、脱衣所にはカゴの中にタオルが畳まれている。トイレにはロール紙と芳香剤のケースだけが残されていて、リビングには中央の凹んだソファがひとつ、その周辺にクッションが散らばって、さっきまで誰かが座っていたようにさえ見える。どこもかしこも蒸発してしまった水分以外、全てがここにいた誰かの気配まで含め、そのままに残されているように見えた。景は三矢に指示されるまま、通電されていない冷蔵庫内の、乾涸びて軽くなった調味料の類をポリ袋に投げ込んでゆく。誰かが使った形跡のあるものが置かれたままの部屋は奇妙な生々しさで、まるで人間だけがどこかへ消えた後、その部屋ごと封印したみたいだ。

「維さん、今日は来ないんですか」
「さあ。俺も特に何も聞いてないから、そのうち来るんじゃないか」

いないうちに進めるだけ進めて、維が来たら休憩にしようと三矢が言うのを聞いて、景は何だか不思議な気がする。いつもの三矢ならもうとっくに「こんくらいにしとこうぜ」と言って2階へと降りている頃合いだが、今日はそんなそぶりはまるで見せずに、引き出しに詰め込まれた布巾類を、未使用の割り箸の束を、使われなかった醤油の小袋を、何となく取って置かれたプラスチックのスプーンを、あれやこれやを次々とゴミ袋に投げ込んで膨らませてゆく。景の片づけている棚からは、保存食だったのかサバ水煮の缶詰が出てきて、そのとっくに切れた賞味期限から推察するに、この部屋が使われなくなってからもう10年は軽く過ぎているらしい。
ふと作業の手を止めてスマホを触っている三矢が、小さく舌打ちをして端末をポケットにしまった。維に連絡を取ろうとしても、通話も繋がらないのだろう。三矢は大きく伸びをしてから、景に「ちょっと休むか。コーヒー淹れてくれ」と頼んだ。



2階の小さな給湯室は小型冷蔵庫と食器棚、電子レンジと一口コンロがぽつりと置かれているだけで、駿河屋の厨房とは真逆の素っ気なさが却って景には居心地良く感じられる。ヤカンに水を入れ、維がいつ来てもいいように、いつもと同じ量の湯を沸かす。コーヒーマグを持って三矢の座る机に向かうと、机上には将棋盤と駒が並べられ、折りたたみ椅子が用意されていた。

「お前、将棋指せるか」
「駒の動きくらいしか知りません」
「それだけ分かれば十分だ。ちょっと相手してくれよ」

維のかわりにと言われても、いきなりそれは無理な話だ。飛車角落としてやるから付き合えと言われて意味がわからずにいると、ハンデをつける意味で駒を抜いて対局するってことだよと教えられ、雇い主がそこまで言うならと応じることにした。
景が先手を取りマグカップを片手に指し始めて、最初の一局はまだ手元のコーヒーが温かいうちに投了になった。もちろん手詰りになったのは景の方だ。もう一局と言われて今度はさらに香車を落とした三矢に挑むが、10分足らずで決着がつく。お前なかなかスジがいいなと言って、三矢は桂馬も落としたスカスカの自陣を眺めながらさらにもう一局を付き合わせた。
飛車角はおろか香車桂馬もいなくなり、居並ぶ兄弟分たちが皆消え失せて自分と維だけになった松岡組を見るようで、三矢はどこか肌寒さを感じながらも、今の自分にできるのは見届けることだけだと覚悟を決めたような面持ちで盤を見る。

「なぁ、明日なんだけどさ。俺は用があって留守にするけど、維が来たら将棋教えてもらえ。事務所の片付けは手を出させるなよ」
「どうしてですか」
「……できるだけ俺とお前で片付けたいんだ」

さてと。もう一仕事して今日は終わりにするか。三矢がそう言ってコーヒーを飲み干したところに、事務所の電話が鳴った。横に立っている景にまで聞こえるような大声が受話器から漏れて、維の声ではないことはすぐ知れた。すみません、今すぐ伺いますからと言った三矢が、ポケットから車のキーを出して景に投げる。エンジンかけておけ、という意味だと理解した景が駐車場へ出ると、お前が運転すんだよと言って三矢は助手席に乗る。どこまで行くのかと尋ねる前に指示されたのは有楽街の入り口アーチのすぐ近くで、本当に事務所の目と鼻の先だ。

「維さん、何かあったんですか」
「そうみたいだな。とりあえず無事らしいけど」



飲食店に酒や食材を納品に来た業者の車に紛れて路上駐車すると、景は一緒に来いと言った三矢について路地に入り、ビルの谷間の薄暗い外階段を登る。前川診療所と書かれた磨りガラスの嵌った扉を開くと、ワイシャツの袖を捲った無精髭が立っていて、三矢が慇懃に頭を下げた。

「……あんた、葦折原に言いつけ守らせろってこの間も言ったよな?」

メガネ越しの目つきは険しいが、それ以上に険しいのは口の方で「だから前にも言っただろう、お前兄弟分殺したいのか」と手厳しい。三矢は大きい背を縮めるようにして医師らしい男性の、怒声にも近い口舌を浴びている。維が今朝方酷い発作をおこし、這うようにしてここへ来て、薬でどうにか発作を抑え込んだ途端に寝落ちして、診察台を占領されたこっちとしても困っているというのが医者のもっともな言い分だった。
ご面倒おかけしました。それであの、維はという三矢の声で、男性が白いカーテンを開いた先には診察室がある。そこに据えられた見るからに固そうな診察台の上に、誰かが横になっているのが見えた。診察台の足元には飴色に光る靴がきちんと揃えられて、その上に……維が毛布に埋もれて熟睡していた。

「気管支喘息ってのは別に怖かないって言ったがな、それはちゃんとコントロールができてればの話だ。できないんならうっかり野垂れ死ぬ覚悟決めとけ」

景は耳元で爆ぜる医師の声よりも維の様子が気になって、診察台の横に膝をついて顔を覗き込む。いつもより青白く見える維の顔色が不安を誘ったせいなのか、捩れたような声が出た。

「維さん、維さん」

細く開いた瞼の向こうから、景と三矢と医師の顔を順繰りに寝ぼけた目で眺めると、維は「おや、みなさんお揃いで」ととぼけた声だ。景の肩につかまって体を起こし、ああ、やっちまった。もうこんな時間かと言って靴を履き、三矢と一緒になって医師に頭を下げる。先生ごめんね。次はジタバタしないでちゃんと野垂れ死ぬからさ、今日の所は許してやって。そう言って笑う維の顎髭がいつもより少し濃くて、青い顔の理由がそれだけのことだったと分かったから、ようやく景は少しだけ安心できた。


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