薬・眼鏡・筋

文字数 4,177文字

「そんなに難しい話じゃありません。いくつか注意点があるだけです」

L字の形をした吸入ステロイド剤を手にした景が、まずはそれを上下に数回振ってみせる。内容物が目には見えないので、振った音で残量を確認しがてらの攪拌ということらしい。耳元で鳴るしゃらしゃらという音を確認し、それからキャップを外して、ここを咥えるんですと言ってそのそぶりをして見せた。

「それで、まず最初に肺をカラにするつもりで思いっきり息を吐いてください。吐ききったところで腹筋を緩めて息を吸うのと同時に、底の部分を下に押し込むんです。そうするとここから薬液が噴霧されます。それを吸い込むんです」
「なんだ、簡単だな」
「誰でも使えるようにできてますから」

前川の奴脅かしやがって。投薬管理なんて言葉を使うほどのことかよ。横で見ていた三矢が呆れたようにぼやいている。夜も更けた事務所2階のソファーで、ようやく点滴から解放された維は横に座った景のレクチャーを受けながら、前川の「こいつはお前の先輩だぞ」という声を思い出した。景が言うには小学生の頃からの患者だというから、こんな症状を抑え込みながら成長するのは、確かにそれなりの苦労と経験則があるだろう。

「薬を吸い込んだらそのまま肺が一杯になるまで空気を吸って、そこで息を止めてください」

理想を言えば10数えるくらい。で、我慢の限界まで来たら息を吐いていいんですけど、一気に吐き出さないでください。鼻からできるだけゆっくり肺の空気を外に出す感じです。そうするとすぐに薬が効き始めて息苦しさが止まるはずですから。要は薬を上手く吸って、長く気道に留めておくようにしろ、って話です。1度の使用で吸引は2回までです。使い過ぎに気をつけてください。これは一時的に発作を止めるだけのもので、治療にはなりません。だから処方薬はちゃんと飲んでください。

ハイハイわかったよと応じる維に、まだあるんですと言った景は「薬を使ったら最後に必ずうがいしてくださいね」と言い「必ずです。忘れると喉やられます」と念を押した。まず息を吐き切って、それから噴霧された薬を吸って、息を止めて、ゆっくり吐いて、最後にうがい。これで1ターン。「1吐く。2吸う。3息止める。4ゆっくり吐く。5うがい」景は処方された薬の袋にボールペンでそう書いて、恭しく維に差し出した。



あの、俺、明日も来ますから。外の掃除もいつも通りやりますし、ここの片付けも手伝います。だからあと2週間。やらせてもらえませんか。そう言ってお願いしますと頭を下げる景の、つむじが綺麗に渦を描いている。こんなにも粘り腰のつきあいになるとは思ってもみなかった維と三矢だが、奇妙な愛着が湧いているのも事実だった。何日かすれば退屈して出ていくだろうと思いきや、あんな目に遭わせてもまだ続けたいと言って縋ってくるものが、気にかからないと言えばウソになる。本人がやりたがるなら使いたいように使って、放り出すことはいつでもできるとたかを括っていたが、どうにもおかしなことになってきた。

「お前、背中汚してまで渡世やりたいのか。他にやることないのかよ」

景は黙って俯いたまま、首だけを左右に振っている。見習い期間3カ月、って話でしたよね。だから俺、それが終わったら実家に戻るつもりですと言う景に、実家って、お前ん家は駿河屋じゃねえのかと三矢が言うと、景は相変わらず俯いたままでもう一度ゆるゆると首を振った。

駿河屋はばあちゃんと叔母さんがやってた店です。俺、じいちゃん家で育ったもんで。8歳まではお袋と富山で暮らしてました。だけど学校でいじめにあって、それでこっちに転校して。富山には夏休みとかに帰ってたんですけど、高校やめたこともお袋にちゃんと報告してないし。とにかく一度行っておかないとまずいな、って。

「見習い期間、3カ月って約束だと思ってました。気に入らないから中途解約、って言われたらそれまでですけど」

崖っぷちに立たされた景を、呼び戻すのか突き落とすのか、どっちにしても厄介なことが起きたもんだとため息を吐く維の脇を歩き抜けて、三矢が一階から拾い出した古いメガネケースを持ち出す。パリパリと音をたてて開き、中から取り出したシルバーフレームを景に手渡して、ちょっとこれ掛けてみな、と言った。三矢の真意は汲めないものの、景は言われるままにテンプルを左右に開いて耳に掛け、さっき前川がそうしていた仕草を思い出しながら、中指でブリッジを鼻の付け根へと押し上げる。度のついてないレンズの向こう側で、ほんの僅かに不安げな景の黒目が揺れるのを見た三矢が、肘で維を突きながら口角を吊り上げていた。

「……どうよ。悪くないだろ」
「リーマンで通るかねぇ」
「新入社員によくいるだろ、こういう感じの」

なあ景、お前ヤクザっぽいことやりたいって言ってたよな。
そう言う三矢にそんなこと自分は言ってませんけど、でも何かやれって言うならやりますと、肚を括った顔をする。

「よし、じゃあお前に仕事をくれてやる。明日、運転はないがスーツ着て来い。最後のお勤めだと思って励め。嫌ならこの場ですぐサヨナラだ。やるか?」



当然のように「やる」と答えた景が翌朝事務所へと顔を出すと、あれほどの発作を起こした翌日だというのに、維はもう三矢と二人揃って2階の片付けを始めている。ステロイド剤さえあれば怖いものはないとばかりにワイシャツの袖を捲り上げ、フロアを縦横無尽に歩き回り、スーツを着た景が部屋へ入ると上から下までしげしげと眺めて「いい靴選んだな。よく似合ってる」と言って褒めた。横で見ている三矢は「な、これにしといて良かっただろ」と上機嫌だ。
維さん、無理しないでくださいね。発作が起きそうになったら我慢しないで、なるべく早めに薬使ってくださいと言うと「いいからお前は外回りの掃除しておいで」と言って景を外へ追い出した。

掃除を終えてサンドイッチスタンドへ行き、レタスサンドとコロッケサンドとツナサンドを抱えて事務所へ戻ると、すっかり空になった家具に囲まれて、維と三矢が白木でできた神棚を外しているところだった。神棚の左右に5張ずつ並べられていたはずの弓張提灯はみな畳まれて床に並んでいる。これがなくなって尚のこと、ただの会議室のように無味になった部屋でサンドイッチを食べながら、それじゃあ段取りいっとくかと維が口を切った。何の段取りですかと景が言うと、サギの段取りだよと三矢が嘯いた。「詐欺」の単語に身を固くした景が思わず維の方を見る。

「まあ、詐欺だな」
「何を盗るんですか」
「盗むわけじゃない。ちょっとばかり騙されてもらうだけだ。俺と三矢だけじゃこの筋書きは成立しない。お前が抜けると言うならこの場で御破算だ。やるか抜けるか、段取りを聞いてからでいいから自分で決めな」

わかりましたと唾を飲み込むように顎を引いた景を見て、維はいいお返事だねと言い、それじゃあらすじから行こうかと言って景の顔を覗き込む。催眠術でもかける気かよと三矢が揶揄い、そんなもん使えるならもうちょっとマシな筋を考えるねと言って笑った。



景。お前はサラリーマンだ。それも相当に疲れ果ててる、この春入社したばかりのはずが、早くもくたびれまくってヨレヨレの社会人だ。
あれはまだ高校3年生だった去年の夏を過ぎた頃のことだ。自分の周囲の友人たちは大学やら専門学校やらへ進学するための受験勉強に勤しんでいる。そんな中で家には進学するに必要な資金がなく、奨学金という名の借金を作ってまで励むほど勉強に興味がないお前は、卒業したらすぐに働くつもりでいる。求人を探して何社も巡って採用担当に会い、どこも今ひとつ決定打に欠けるものの、ようやく内定が出てそれなりにホッとしたことだろう。ところがその後になって見つけた会社の求人に、ものすごく魅力的な企業があることを見つけてしまった。初任給から福利厚生まで、全てにおいて条件が勝るものの、すでに他社から内定をもらったことは親兄弟を初め学校の先生はもちろん、友人たちにまで知れ渡っている。悩んだ末にお前はこう考えた。『ダメ元でこっちの採用試験も受けてみよう。どうせ不採用になるに違いない』そう思って受験したら最終面接にまで漕ぎ着けてしまった。ぜひ当社へと頭を下げられて、先に内定をくれた方には申し訳ないが、頭を下げて詫びを入れ、そうして晴れてこの春新入社員として迎えられたってことだ。望んだ会社に入社して、前途洋々、順風満帆。
……かに見えたが、これが蓋を開けたら猛烈なブラック企業。

残業に次ぐ残業、あらゆるハラスメントを掻き集め、鍋で煮詰めたのを浴びるような毎日。同級生たちはパステルカラーのキャンパスライフに明け暮れている様子をSNSで見せびらかし合っているもんだから、益々自分の人生が、地下水を汲み上げ過ぎて地盤沈下を起こした海抜ゼロメートル地帯の、そのまた地下に掘った核シェルターで明け暮れているような気がしてくる。最初に内定をくれたあっちの会社の方がまだまともだったのかもしれない。だがそれを蹴ったのも他でもない自分だ。自己嫌悪という名の虫が、じわじわとお前の精神を齧り、ひとつふたつと穴を開けてゆく。

不遇の日々にやつれたサラリーマンのお前に、ふと声をかけてきたのは高校時代の先輩だ。「疲れてんのか? これキメたら一発で吹っ飛ぶよ」。明らかに違法なモノだとわかっていても、もはやお前にやれることはない。ここで期待される「理性的で正常な判断力」なんぞは、疲れ切ったお前の脳の隅っこで、とっくにお布団敷いてフテ寝を決めこんでいるからだ。先輩の口車にまんまと乗せられて、言われるままに現実逃避する。
実際それを使えば頭がスッキリして、何でもできるような気分だ。粉の土台の上に建ったあやふやな万能感に満たされて、かつてないほど幸福な気分。同級生たちと違って社会人であるお前は、わずかでも稼ぐことができる身の上で、幸か不幸か手元に金はある。だからまた買う。数度繰り返すうちに、どこでどうやって手に入れるかは先輩が教えてくれた。スマホの検索窓に「アイス 手押し」って入れてみな。画面の中には「お店」がずらっと並んでる。簡単なことだ。彼らと接触して、どこかで落ち合い、金と引き換えにモノを手に入れればいい……

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