港・博打・沖仲仕

文字数 3,615文字

維が三矢を伴って入った部屋はドアノブはもちろん、家具調度備品、全てが砂埃にまみれている。手を触れたところにはもれなく指の跡が残り、そうなることを見越して嵌めていた軍手は瞬く間にグレーに染まった。見ただけで思わず咳き込んだ維を見て、三矢が窓を開けて室内を換気する。差し込む光が舞い上がった埃を照らして、二人はスノーボールに閉じ込められた人形みたいになった。

港湾施設の片隅にある古いモルタル造りの建物は、かつて沖仲仕の周旋をしていた海運業者たちがそれぞれに事務所を構えていたその残骸で、今ではその棟の一番大きな部屋に松岡組の看板が掛けられているほかは、がらんどうの資材置き場と化している。港湾事業組合としても本音を言えば立ち退いてほしいが、相手が相手だけに強く出られないというだけの理由で、今になるまで松岡組の事務所ということで半ば黙認されていた。自分達がここを手放せば、晴れて港湾事業組合の意向に沿い、おそらくはすぐにでも解体されて、隣接するコンテナヤードが拡張されることになるのだろう。

自然任せの海底に岸壁を打っただけの旧い港では、座礁の危険があるために大型の貨物船は接岸できない。だから沖に停泊した船と陸を、(はしけ)と呼ばれる小型船が荷物や人を乗せて往復した。船から陸へ、陸から船へと積荷を詰め替える重労働をこなすのが沖仲仕(おきなかし)と呼ばれる男たちで、その周旋をしていたのが松岡組の始まりだ。
やがて港は改良されて大型船が接岸できるようになり、コンテナによる物流が主流になると、クレーンとトレーラーが港の仕事を請負い、沖仲仕たちは港から消えた。

海はすっかり様変わりして、松岡組の事務所も港を離れてここからそう遠くない駅近くの繁華街にあるビルへと移った。その他にも組員たちがシノギに都合のいい場所を探しては新しい事務所を開設し、手狭になればまた住み替えていたが、それももう遠い昔の話だ。ヤクザが不動産の賃貸はもちろん売買も厳しく制限されるようになって、かつて市内に数カ所あった事務所も今はなく、社交街はずれにあるビルと、この港の詰所だけが残った。維が組員になったときにはすでにここは物置同然で、年に一度の正月のほか、組で行う盃事の際に使うだけで、それも数年前からは親父の住む本宅で行うことになった今、ここはすっかり廃屋一歩手前ということだ。
それでも組がここを手放さなかったのはひとえに親父の一存で、古くは幕末から続くと言われる松岡の根幹をなす場所であるとして、この場所だけは移動を許さず、誰にも譲らなかった。維も三矢も、他の組員たち同様、親父から盃をもらったのはこの場所だ。



あれから何年過ぎたのだろう。祝い事の度に広げられ、事務所の壁を覆い尽くしていた紅白幕がきちんと折り畳まれたまま、棚の中で日に焼けて白くなっている。それをそおっと埃を舞い上げないように静かな動きで、75リットルのポリ袋へと入れる。隣で事務机の引き出しをあさっていた三矢が、おっという声をあげた手元を見れば、手垢染みた古い花札が埃にまみれている。「雷公の太鼓釣り」が、こんなところに紛れているということは、誰かがイカサマでもして抜き取ったのかもしれない。三矢はしげしげと眺めてから、その薄汚れた真っ赤な一枚をポリ袋へと投げ入れた。

沖仲仕、という仕事は待ち時間が多い。入港する予定の船が気象その他を理由に遅れれば、船が着くのを気長に待つことになる。艀は沖仲仕たちを乗せてその場限りの賭場と化し、時間潰しの興に熱が入る。組と博奕はその頃からの長い付き合いだ。事務所に花札や株札が散っていてもなんの不思議もない。
維が開けた引き出しから出てきた、古いプラスチックケースに収められた名刺の束は、活版印刷の微妙な凹凸のある文字で今はもうない同業他社をはじめ、港近くの盛場の、おそらく源氏名だろう派手な名前が刷られたものまで混じっている。顔も知らない誰かの名前を束ねて、維はケース丸ごとポリ袋へと投げ入れる。どこぞの寺で見た地獄絵の、燃え盛る炎に亡者を投げ込む鬼の姿がチラリと浮かんではすぐに消える。

次々と投げ込まれる雑多なものたちで、ポリ袋はすぐに大きく膨れて口を縛るのも難しくなる。3つ目の袋を広げる前に、ちょっと休憩させてくれと言って、維が古いソファの座面だけを掌で拭いてそこに腰を下ろした。上着のポケットからタバコを取り出すと、すぐに三矢がそれを見咎める。

「……やめるってこの間自分から言ってただろう」
「一本くらいいいだろ」
「それを止めさせろって前川に言われてんだよ」

三矢は維の唇からタバコを横取りして自分が咥え直す。諦めた維がライターを灯して差し出すと、首を傾げて火を貰い、旨そうに煙を吐いた。

「お前、これからどうすんだ」

そう尋ねられた三矢は、怠そうにひとつ伸びをしてから、カンタがいいって言ったらだけど、と前置きして、田舎に戻るよ。エアコン清掃の会社を軌道に乗せたいんだって兄貴が言うからさ、と言った。三矢の実家は新聞販売店で、購読者数の減少が著しい昨今、業態変更を迫られていた。父親の後を継いだ兄が幾多の副業を模索して、これならどうにかなりそうだと空調設備の清掃を請負う会社を設立した矢先に、商圏に大型マンションが建ち始めた。新規顧客の獲得に手を取られることになり、高校を卒業後専門学校に入学すると言って家を出てそのまま、寄り付かなくなった弟をあてにし始めたらしい。

「カンタにさ、手伝わせたいんだけど。 ……あいつ実家の半径10キロ四方に近寄っただけで機嫌悪くなるから」

カンタは家出同然で実家を離れ、そのまま盆暮どころか親からの連絡も一切無視しているらしい。子供の頃に通った柔道場の先輩だという三矢を頼ってこの街へ転がり込んできたカンタも、次の誕生日で26になる。仕切り直すにはいい年齢だ。もう話したのかと聞くと、三矢は「考えとくって言われた」と頷きながら腕時計を見る。熊田さん、3時に約束してんだろ? はやく片付けようぜと言って立ち上がった。



引き出しの中身を全てカラにして、拭ける埃はみな拭き取って少しでも見栄えを良くしておく。雑巾をすすげばバケツの水はヤニ混じりの黄ばんだグレーになり、それを数回交換したところで、従業員らしい若者を連れた熊田が事務所へ現れた。維と三矢が揃って頭を下げると、悪かったなぁ、体が空いてりゃ俺も来て手伝うのに今日に限って忙しくてなぁと言い訳するように二人を労った。それから懐かしそうにがらんとした部屋の中を見回して、「いよいよお別れってわけだ」と言った。

熊田が組を抜けることになったのはだいぶ前の話で、姉と一緒に家業の家具屋を継ぎ、中古家具を下取り販売する会社を立ち上げた。今では社屋も実家の家具屋とは別になり、従業員も増やしたらしい。隣で大人しくしていた若者が、養生、足りますかねと心配そうな声を出した。もし足りないなら奥に毛布があるから、それを使ってもらっても構わないと言うと、熊田が事務所の奥にある小部屋を覗き込んだ。4畳半くらいの小さな部屋だが仮眠が取れるように小上がりに畳が敷かれ、その隅には座布団と毛布が数枚積んである。維よりも十歳近く先輩にあたる熊田は、懐かしいなぁ、よくこれの上で札ぁパシパシ鳴らしてたもんだとぼやいて座布団を持ち上げる。もうもうと埃が舞い上がって、また維の咳が響いた。

「最近はヴィンテージ家具が流行っててな。こういうのよく売れんだよ」

そう言った熊田の手で次々と家具は運び出され、横付けにされたトラックの荷台に積まれてゆく。心配通りに足りなくなった養生の代わりに古い毛布を被せられ、荷造りが済むと熊田は電卓を叩き弾き出された数字にいくらか色をつけて、集金バッグから現金を差し出した。

「オヤジと姐さんによろしく言ってくれ。俺も近いうちに挨拶行くわ」

そう言って本当に挨拶に来る者は少ない。元組員ともなると尚更だ。熊田は数多いた組員のうちでも綺麗に足抜けできた数少ない先輩で、それができた人でも反社会的勢力との繫りを取り沙汰されることを嫌って、ほとんどは二度と組織には近寄らない。その方がいいことは親父も姐さんもよく分かっていて、むしろ自分達の方から「事務所へは来ないように。どうしても必要な時は連絡だけよこせばこちらから出向くから」と言い含めていた。だから挨拶に来ないということは、組を離れたとはいえ親父と姐さんの指示を忠実に守っていると言える。

トラックが湾岸道路へと出てゆくのを見送ると、三矢が「大丈夫か」と声をかけてくる。何が、と聞き返すと、肺の鳴ってるのが聞こえるぞと言う。気づかれてないつもりでいたが、少し早足に歩くだけではぁはぁと息が荒くなりはじめている。倉庫の埃が拙かったらしい。事務所戻る前に前川のとこ寄ってくぞと三矢が言う声に頭を下げながら、維はどうにか「頼むわ」の四文字だけを喉から絞り出した。


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