スーツ・免許・高校生

文字数 3,826文字

三矢(みつや)裕二(ゆうじ)がこの街に流れ着いた頃は、ヤワタ屋と言えば6階あるフロアの上から下までが衣料品の店で、元は小さな呉服屋だったのがバブル景気の波に乗り、1から3階までを婦人衣料、4階は下着類、5•6階は紳士衣料という手広さを誇るこのあたりでは随一の店だった。それが今や一階のワンフロアでセミフォーマルを扱うのみになり、2〜6階は居酒屋チェーンのテナントで埋められている。その1階一番奥のビジネススタイルコーナーで、三矢は吊しのツーピースを数種類物色して、景の前に並べた、

「どれがいい」

一応選ばせる体裁で景に尋ねるが、当の本人は目が泳いでドーバー海峡くらい余裕で横断しそうになっている。標準よりやや細い景の体格だと各種在庫も豊富すぎて、そうしている時間があればあるだけいつまででも迷っているだろう。

「何、決められねぇの?」
「……違いがわからないです」
「違うだろうがホラ、襟の幅とかベントの位置とか。こっちはネイビーでこっちはグレー。黒はやめとけ、喪服と変わんねえから。ボタンはシングルにしとけよ」

悩んだ挙句に景が選んだのはミディアムグレーのシャドーチェックで、まあまずまずの無難さだ。候補の中で一番高く、維から渡された3万円の予算から少しばかり足が出たが、それは三矢が持つことで話がついていたから仕方がない。何事にも経費というのはかかるものだ。店員に声をかけて選んだスーツに合わせるワイシャツを探し、まとめて支払いを済ませる。時間がないからここで着替えさせてもらえと言ってその場で景を試着室に押し込めた。



親父の通院は月に2回、いつでもカンタの運転で、姐さんと若衆がひとり付き沿うスタイルだ。それも数名の組員が輪番でこなしていた頃は三月に一度で済んでいたのに、神崎の兄貴もお勤めに行った今では毎回が維か三矢の仕事になった。カンタさえもいない今、どこからか転がり込んできたこの若造に与えるにはうってつけの仕事とも言える。そして今朝事務所に現れた景の姿を見て、三矢は笑いを堪えるのに必死だった。

農夫が無蓋馬車に乗るならそれも良いかと思えるが、仮にも親父の前に出るのにコーデュロイのジャケットにタックなしのボトムはないだろう。緊張感をさらに削ぎ落としているのは景の童顔で、コンビニのドア付近でダンゴになっている高校生に紛れても、こいつなら違和感なく馴染みそうだ。実際ついこの間までそうしてたんだろう。大抵は成人式にスーツを新調したりするもんだが、こいつの場合はまだ先の話で、そう考えれば手持ちの服で精一杯の背伸びをしたという努力だけは認めてやれる。

維は顔色ひとつ変えずに三矢を呼び、ちょっとこいつ連れてヤワタ屋まで行って適当なの見繕ってこいと言った。

「吊しのでいいから、シャツは白だ」
「スニーカーでかよ」
「靴まで揃える時間ないだろ。急げ」

札入れから3枚を抜いて渡しながら、足りない分はお前が出してやれと言って押し付けてくる。何で俺がと言うと嫌なら全部お前が出せと言って引っ込めようとするのを奪い取って、景を連れてヤワタ屋までやって来たのだ。急がなければ午後の診察に間に合わない。スマホの着信に気づいて見れば、維から首尾を伺うメールが入って、手間取るようなら俺が運転すると言ってきたが、今着替えてるからもうすぐ戻ると返信する。

幸運にも景の履いているのが色の濃いスニーカーだったので靴はそのままでもごまかせるだろう。試着室の中でゴソゴソやってる景の気配を聞きながら、三矢は売場に並んだネクタイを眺め、いつも作業服姿で運転していたカンタのことを思い出した。好んでいたわけではないのだろうが、部屋住みたちが着ていた作業着のお古を着るうちに、いつの間にかそれがカンタの制服のようになっていた。
着の身着のままで三矢を訪ねてきて、いつの間にか居着いただけのカンタは、正式には親父から盃をもらったわけではない。ただ三矢のそばでウロチョロして、他の兄貴分たちが連れて歩くチンピラに混じって事務所に入り浸っているうちに何となく居着いてしまっただけだ。だからいついなくなっても誰も気に留めないはずだった。だが組員たちが次々といなくなり、いつの間にかカンタの占める比率がこんなにも大きくなっていたことに、三矢は月並みながらいなくなってから気がついた。
あいつにもスーツくらい用意してやるべきだったと今頃になって思いついて、それがチクリと心臓の裏側あたりを刺してくる。売り場に並んだトルソの首にカンタの顔をすげ替えて、店の照明を滑らかに反射させて並ぶネクタイの中から一本を選び、手に取って見定める。

「すみません、これもください」

店員を呼んで支払いを済ませ、試着室から出てきた景の首に、こっくりと濃い鼈甲色のネクタイを掛ける。結び方知ってるかと尋ねると、制服、ブレザーでしたからと言って案外器用に一発で結んでみせた。ドットにも見えるくらいのささやかな小紋柄を散らしたネクタイの艶が、顎の下から景の顔を照らす。この際素材がシルクか化繊かなんてどうでもいい。景くらいの若造には何よりも清潔感、それさえあればどうにかなるものだ。グレーのスーツはどんな色でも呑み込んで、着た人をその空間に馴染ませてしまう、その能力を遺憾なく発揮してくれた。足首から下さえ見なければ、ようやくそれなりに格好がついて、お抱え運転手の一丁上がり、だ。



ヤワタ屋の紙袋に入れた私服を手に提げて、事務所へと戻る車の運転は景に任せてみる。ハンドルの捌きとブレーキワークは滑らかで、アクセルワークに至っては少し慎重すぎるほどだが、車酔いしやすい姐さんを乗せるにはむしろ好都合にも思える。無意識に車間を多めに取りたがるようだが、事故防止のためには大いに歓迎される癖だ。
事務所の裏手にある駐車場に車を入れて、ドアを細く開いて地面を覗きながらバックを切り、景は白線で囲った枠の中央にきっちりと車体を収める。エンジンを切ると大きく息を吐きながらシートに背中を預けて緊張をほぐした。

「はいお疲れさん。慎重すぎる運転だけど、人を乗せる分には丁度いい。姐さんは車酔いしやすいからそこだけ注意な」
「あの、三矢さん」
「何だよ」
「これ、制服ってことですか」
「んー、まあそういうことかな。運転のある時は必ずコレ着て来い」
「はい。……あの」
「言っとくけどタダじゃねえぞ。薄謝から経費として引いておくからそう思え」
「全部でいくらですか」
「3万6千ちょっと。あとお前、今日はそれでいいけど靴も揃えろよ」

靴下は黒な。どうせ見えねぇと思って白いのとか、アンクル丈履いてる奴いるけど、あれ目立つから気をつけろ。ダサ過ぎて周りまで気不味くなる。あともう少し余裕ができたらジレも用意しとけ。……ベストだよベスト。中に合わせるアレ。一着あると便利だしちょっと寒い時に使える。コートなんか一番最後でいいからまず先にジレだ。サイズはちゃんと合わせろよ。できたら仕立ての方がいい。中途半端に緩いジレなんて遊びの時でも使えないからな。

身形についての話に火がつきかけた三矢の横で、景の顔色が沈んでくる。金の心配してんのか? 増やし方なら俺がいつでも教えてやるよと軽口を叩きながら車を降りると、運転席を降りた景がロックを確認してキーを差し出した。景の手のひらでそれはほんのり湿気を帯びたように暖まっている。

「俺、普免持ってません」
「……は?」

お前何言ってんの? たった今お前の運転でここまで戻ってきたんだぞ? 喰いつくような勢いの三矢の目の前で景は薄い財布を引き抜くと、運転免許証を取り出す。種類の欄にかろうじて「原付」がついただけの、あとはずらりと横棒が並ぶ免許証を差し出され、三矢の視線は免許証と景の顔を何度も往復し、とどめに名前の横に記載された生年月日を確認して指を折る。
……17歳。高校生だ。

「お前、運転できるって言ったじゃねえか」
「バイクのことかと思ってました」
「18って言ったよなぁ?」
「ごめんなさい。言いました」
「だいたい履歴書も何も受け取ってねえってどういうことだ」
「維さんが要らないって言ってたから」

言い合う二人の向こうから維がやってきて、景を見るなりおぉイイね、形が決まれば中身は勝手についてくるもんだよと言って景の肩をぽんと叩く。さてとじゃあ役者も揃ったし、親父のご機嫌を伺いに行くかと助手席のドアハンドルに手を掛けた。

「維! こいつ高校生だってよ」

三矢が景の免許証を押し付けるように維に渡す。維は三矢がついさっきそうしたように、手元と景の顔をじっくり交互に眺めると、くつくつと笑いながら免許証を景に押し返した。

「ヤクザ騙すってなかなかいい度胸してやがんな」

どうすんだよ、こいつこのまま使うのかと言い募る三矢をそのままにして、維は景にキー持ってんだろ、開けろよと声をかける。慌てた景が湿気た手元を動かすと、ことり、とロックの解除される音がした。すっかり助手席に収まってサイドガラスを下げた維が三矢に声をかける。お疲れさん、あとは俺がやっとくわとだけ言う維に、三矢は「ガキぃ付き合わせたってバレたら面倒になるぞ」と喰らいつくが、維はどこ吹く風だ。

「三矢ぁ、お前が『渡りに船』だとか言ってこいつ抱き込んだの忘れたか? 景、お前も覚悟の上でヤクザ騙したんだろ? 一度手ぇ付けたんならやり通せ」

早くしろ。時間ねぇぞ。
維の急かす一言で、景の脚を岩のように固めている呪いが解けた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み