煙草・コーヒー・ソレイユ

文字数 3,895文字

午後2時を過ぎたファミリーレストラン「ソレイユ」は、ランチタイムの混雑から少しずつ解放されつつあるが、まだ数組の客が残っているフロアにはそれなりの賑わいがあって、維を落ち着かせてくれる。賑やかな場所でするような話ではないが、静かすぎるのも居心地悪い。維の目の前には寝不足気味の目蓋を弛ませた中年男が座っていて、顔をあわせるのは随分久しぶりのはずなのにあまり歳をとった印象はない。あの頃よりはむしろ若返ったような、健康そうな肌色に見えた。
折目正しいというほどのものではないが、清潔感のあるシャツにジャケットを羽織った男は、手元のクラッチバッグから銀行のロゴがプリントされた封筒を出してテーブルに乗せ、静かに維の方へと押し出した。維が中身を確認し、確かに、と言って男と同じ手つきで受領証を渡した。いつもは振り込みだが、今日は維が相談を持ちかけたから、ついでだからとクラシカルな手集金になったのだ。

「親父、どうしてる」
「達者です。姐さんが苦労してますが」
「相変わらず無理言ってくるのか」
「幸田さんのいた頃よりはだいぶ丸いですよ」

そうかぁ、まだ突然夜中に車出せとか言い出したりしてんのかと思ったよ。親父の囲った女のために真夜中に鯛焼き屋を叩き起こしたり、ブランド品のハンドバッグを探し歩いたりすんの、お前やったことないだろ? いや実際あの頃なんてカーナビくらいならあったけど、親父の指示ときたら。若い頃里子に出した娘から、子供が描いたっていう絵を送ってもらったって大喜びしちゃってさ。飲んじゃあ酔いに任せて今すぐここへ行けだとか、わからんなら探せとかって言い出すんだから。手がかりはガキが画用紙に描いた絵しかないから、お花畑の向こうに海が見える所ってことくらいしかわからんのによ? しかし孫可愛さって凄いもんだな。俺らにはひたすら脅威でしかなかったけど。あれにはみんな揃って頭抱えたわ。

鯛焼きの話も孫の描いた絵の話も、事務所内での噂話としてそこのろはまだ駆け出しですらなかった維にも聞き覚えがある。自分は駿河屋に惣菜を買いに行かされるくらいが精々で、見栄っ張りの親父の気がすむようにケースひとつを買い切り、それをみんなで、人数が減ってしまってからは胃もたれしそうな数を三矢とカンタの三人で食べるくらいの苦行で済んだ。今だったら景がぺろりと平らげるんだろうと思ったが、そう言えばあいつが作ってたってことだよなと思い返し、奇妙な繋がりが可笑しくて口元が綻んだ。

兄分たちが言うには親父がまだ若い頃、恩義のあった人がいて、その縁者が経営しているからという理由で足繁く通い、自分が松岡の組長という立場になってからもその習慣が変わることはなかった店が駿河屋ということらしい。それがどの程度本当の話かはともかく、あの頃の「駿河屋の惣菜地獄」を経験していない組員は存在しないだろう。どんなに旨いものでも量を過ぎれば苦痛につながるもんだけどと前置きしながら、幸田は懐かしそうに「俺結構好きで、足洗ってからも何度か買いに行ったよ」と笑う。軽く肩の力が抜けたところで、維はかつての兄貴分に切り出した。

「幸田さんに相談があるんです。返済についてなんですが、残すところあと1回ですよね。それ、俺に買わせてもらえませんか」
「どういう意味?」
「人、探してるんです」

上着の上からポケットを探り、フロアを見回している幸田に、俺も行きますと言って連れ立って喫煙所へ向かう。席で吸えないことが普通になったこの頃では、店内に喫煙ブースがあるだけでもありがたいなと言って幸田が維にも一本差し出してくれる。手に取ろうとして三矢の顔を思い出し、自分はやめときますと言って火のついたライターを差し出した。

「何、タバコやめたの」
「ちょっと減らしてるだけです」
「保科みたいにキャラメルにすんのか?」

幸田の嗤う口調に維は微笑んで、それもいいですねと答えた。甘いものは苦手だが、キャラメルだけは別だ。あのこっくりとした黄色の箱は、ポケットに入れるとそこだけ暖かい気がする。
先に一服していた客が入れ違いに出て行って、中には維と幸田だけになった。



維はカンタの写真をスマホの画面に呼び出して兄貴分の目の前に差し出した。
大山寛太、先月頭に消えて音信不通です。歳は二十五、画像は数年前に事務所へ出入りするようになった頃のものです。ヤサには戻っていないみたいで、扉の開いた形跡がありませんでしたと言うと、幸田は何度か瞬きをしてから焦点を合わせるように頭を上下させる。「最近、スマホもよく見えなくてさ」とこぼしてから画面を見つめる。それから小さく溜息をついた。

「……追い込みなんてもうできないよ」
「兄貴にしか頼めません。俺も三矢も面が割れてます」
「債務者?」
「いいえ。三矢の弟分です」
「持ち逃げでもしたのか」
「逆です。何も持たせてやれないうちに消えました」
「逃げた犬猫捜せってのかよ」
「居所さえ判ればいいんです。最低限無事は確認したい。受けてもらえるなら、今日付けで完済扱いにします」

カンタが気後れしているうちに戻れないままになっているのなら、探し出してやらないと本当に繋がりが切れてしまう。そうなる前に打てる手は打っておきたい。
勤めていた居酒屋から独立して、幸田が小さな焼き鳥屋を構えるために数年前に親父が融資した、その返済を1回肩代わりするという条件での取引に誘い出す。数年前の自分だったらとても言い出せないような話だが、何はさておき貫目を気にする人付き合いも、もはや過去のものだ。今やヤクザとカタギという決定的な違いが、二人の間に見えない谷を刻んでいる。
追い込みには情報網と独特のコツが必要で、松岡組の中でも特にそれが巧みだったのがこの兄貴分だ。自分と三矢が右往左往するよりも何倍も早く結果が出るだろう。とっくに足を洗ったとはいえ、頼られることに弱いヤクザの習性を逆手に取った維が「助けてもらえませんか」というキラーワードを添えて頭を下げると、幸田はさらに大きなため息を漏らした。

「裕二の弟分だってんなら、あいつが拾いに行ってやりゃいいだろう」

そう言った幸田の言い分もその通りなのだが、この人手不足ではそれもままならない。取り込み中で手が回らないのだと言う維に、幸田は懐かしい名前を出してきた。

「瀬尾も相変わらず人使い荒いのな」

その組員は三矢の兄貴分だ。幸田の中ではまだ三矢が、兄貴分である瀬尾にあれこれと用事を言いつけられて忙しくしている絵面しか思い浮かばないのだろう。



「……幸田さん、ご存じなかったですか」
「何を?」
「瀬尾さん、亡くなりました」

早くに足を洗った幸田が知らないのも無理もないことだ。自分の知る限りの顛末を話して聞かせると、幸田はまだ半分にも縮んでいないタバコを消し、黙って喫煙ブースを出て席へと戻った。ドリンクバーでコーヒーを追加して、ひと口啜ってやっと絞り出した声が嗄れている。

「……裕二どうしてんの」
「しばらくは瀬尾さんの代わりにノミやってましたけど、今はもう手を引いて、馬券まわりとカジノだけみたいです」
「お前は」
「相変わらずですけど、もう限界です。盆が立ちませんから」

賭場に出入りできない身体になりました。とは、さすがに言い出せない。

「張子も胴も合力も、どこもかしこも高齢化してますよ、この国は」

半年前に親父と親交のあった団体の幹部クラスが病没した。博徒の葬儀につきものなのは慰みと呼ばれる追善博打で、全国から交誼のある渡世人たちが集まるのが慣例だ。だが実際のところ博打はおろか、ヤクザは組を名乗って葬式を出すことすらできない。葬儀屋が受け付けないからだ。映画のような大規模な葬儀はすっかり過去のものになり、それぞれが弔問に訪れて香華を手向けるのが精一杯で、親父も自分と神崎を連れて遺族の元へ顔を出すことしかできなかった。
慰みの盆を立てようにも、博徒の習性を知り尽くした警察の手配も厳しく、何より盆に明るい者、つまり賭場を立てるに必要な知識や技術を備えた者たちは皆揃って年老いた。後に続く者もない今では、盆は消滅するのを待つだけの薄暮の空間になりつつある。

いずれそうなることを兄貴はわかっていた。すでに告知されていた余命を使い果たしただけのことで、すべてはあの人の予告通りだ。ふと気がつけば維もあの頃の兄貴の年齢に近づいている。潮の流れは気まぐれに自分一人を浜辺に打ち上げて、あとはひたすら引き潮のまま変わることなく、豊饒の海原は沖へ沖へと遠のいてゆく。自分ひとりが砂浜に取り残されて、陸へ戻るにも遠い。誰もいない砂浜で迷子になって、沖に立つ陽炎をぼんやりと眺めているのが今の自分なのだろう。



データ転送しろよと言われて、維が端末を操作すると、幸田は自分のスマホでカンタについての情報を確認する。今さら香典の代わりにもならんが、お前と裕二が不憫だから受けてやる。そう言われて維は黙って書類ケースから用意してきた受領証を一枚取り出し、頭を下げて幸田へと差し出した。

「首輪つけても気に入らなきゃまた逃げるぞ」
「どうしてもダメならその時は諦めます」
「そんなに惜しいのか」
「ええ」
「若い者が足りないのはいずこも同じ、ってことか」

維の差し出した受領証を、幸田は静かに押し返す。

「これはいいから、ここのコーヒー代おごってよ」
「でも幸田さん」
「せっかくここまで漕ぎ着けたんだし、ちゃんと全額自分で返したいから」

それに、あの頃みたく巧いこといくかわからんしな。
幸田はそう言ってからゆっくり席を立つ。ドア口へ向かう幸田の背後で、維は深々と頭を下げた。

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