競馬・競輪・手本引き

文字数 3,980文字

公園での対局のあとは、保科は維との将棋には一切手心を加えなくなった。
飛車角を落とすような事もなく、待ったなしどころか時間制限を設けた指し切りと呼ばれるルールでしか対局しようとせず、その結果維には全く歯が立たない。それでも維は詰所に保科の姿を見つければそれとなく様子を伺って手合わせを願おうとする。すると保科は気配を察してするりと詰所を出て行方を眩ました。そうかと思えばいつもの机から、まるでそっぽを向きながら、それとなく駒の入った箱をカタカタ鳴らして維を呼ぶ。いつもより詰所に人影の少ない時で、どうやら人目を憚っている様子ではあるが、それが誰なのかは維にはわからない。そおっと近づくと、保科は誰かに遠慮するように小さな声で話しかけてくる。

「今ちょっとだけなら時間がある。やれるか?」

もちろん維にとっては願っても無いことだ。すぐに盤を広げて、二人掛で用意をする。駒を並べる手を急ぎながら、維は保科に話しかけた。

「何に気兼ねしてるんですか」
「わかんねえのかよ」
「誰かに何か言われたんですか」
「言われてからじゃ遅いから用心するんだろうが」

どういうことなのか、はっきりとは理解できないでいる維に、保科が「お前、瀬尾の弟分だろ」と言って先手を取り指し始めた。

本来親父の下に集まる組員たちは皆兄弟分ということになる。まだ組員になったわけでもない維のようなチンピラにとって、ことさらに『弟分』といえば、いずれ兄分が独立して組を構える際には一緒について行き、子として付き従うような間柄のことだ。
瀬尾とは同じ高校とはいえ、族でバイクを転がしていたその中にいた先輩の一人というのが正確なところで、それほど親しかったわけでもない。私設のサテライトと称してノミ行為を稼業にしていることは知っているが、手伝いをしたことはほとんどなく、維があまり競馬に興味を持たないことを知ってか知らずか、瀬尾も積極的に維を誘うことはなかった。有事の際に集められる人数の多さが、この世界ではわかりやすい力の誇示になる。だから瀬尾も数名いる子飼いの頭数を増やしておきたいだけなのだろう。

「弟分っていうか、単なる頭数ですよ」
「あいつはそう思ってないよ。いずれ盃もらうつもりなら、瀬尾を敵に回すな」
「敵、ってどういうことですか」
「兄貴の顔を立てて可愛がられろってことだよ。他の連中ならともかく、俺と連んでるのを見られたら拙い。将棋の相手なら最近瀬尾の弟分が出入りしてるだろ、あいつにしとけ」
「三矢ですか」
「この間一回やったけど、あいつの腕もなかなかのもんだ。お前の相手に丁度いい」

『丁度いい』じゃダメだ。
将棋だけではない。何事も自分よりも強い人を相手にしなければ、鍛えられることはない。だがそもそも腕を怪我した時に保科の退屈しのぎに付き合っていただけの、ただのゲームではないか。どうして自分はそこまで対局ににこだわるのか。どうせやるなら保科に勝たなければ意味がないと思っているのか。自分自身の真意すらわからないまま、維は保科に食い下がった。

「俺は保科さんと指したいんです」
「小遣い稼ぎしたいのか」
「そうじゃありません」

詰所に入ってきた男が、言い合う二人が向き合っている机の真横まで来て立ち止まった。三矢裕二、たった今噂をしていた男だ。元は瀬尾が運営する『私設サテライトの顧客』と言えばもっともらしく聞こえるが、要するに競馬仲間だろう。今は事務所に出入りしながら瀬尾の稼業を手伝ったりしているらしい。小脇に将棋盤を抱えて、高い身長を尚更高く見せるようなロングコートのポケットから、駒の入った箱を取り出し、保科に言った。

「それ、終わったら俺とも一局お願いできませんか」

保科は椅子から三矢を見上げて、それから手にしている駒と将棋盤に目をつけた。

「……いいよ。でも時間がないからさ」

そう言って折りたたみ椅子を持ってくると維の隣に座らせて、対局中の盤の横に三矢の持参した盤を開き駒を用意させた。

「二人まとめて面倒見てやるよ」

維と対局しながら三矢とも同時に対局する『二面指し』であるにもかかわらず、保科は悩む素振りも見せず次々に駒を繰る。やがて先に投了したのは後から来たはずの三矢で、それから数分と経たないうちに、あぁどうにか間に合ったなと言った保科が腕の時計を見ると、そこから数手で維の玉を追い詰めた。項垂れて盤を見つめる維と、隣で対局の行方を見守っていた三矢に向かって「お前たちタイプも違うし、お互いに良い練習相手になると思うよ。悪いけど片付け頼む」と言って上着を持つと足早に詰所を出てゆく。ほとんど入れ替わりで出かけていたらしい幹部数名と瀬尾が戻ってきた。どうやら保科は彼らの戻ってくる時間を読んで、それまでに投了できるように対局していたらしい。何から何まで保科の計算通り、手のひらの上で転がされている。それが維ひとりのことだったのが、いつの間にか三矢を入れた二人に増えていた。



保科がお墨付きを与えただけのことはあって、確かに三矢は維の好敵手になった。親から教わったのを手始めに、自宅の近所にある将棋クラブに出入りしていたという三矢は、あまり詰所に顔を出さなくなった保科の代わりに、維と対局しては互角に戦った。代わりというのも失礼な話で、三矢だって同じ気分でいただろう。聞けば公園で保科にここへ来いと誘われてから詰所に顔を出す日が増えたというから、ある意味保科にスカウトされたも同然だ。それなのにスカウトした本人が不在を決め込んで、維を相手にするしかなくなったわけだから、三矢からすれば不本意もいいところだろう。

「あんた、あの人の弟分、ってこと?」

打ちながら三矢にそう問われても、どう答えていいかわからない。維が松岡組の詰所に出入りしては組員たちの使いっ走りをしたり、シノギの手伝いをして小遣い銭を稼いでいるのも、そもそもは瀬尾を慕っていた後輩たちに、維も来いと誘われて始まったことだ。だから自分は瀬尾の手下ということになる。だが側から見たら保科の手下であるように見えるのだろう。現に三矢からはそう見えている、ということだ。

「俺は組員じゃない。正確には周りから保科さんの手下と思われてるチンピラ、ってとこだろうな」

自嘲気味にそう言った維を盤の向こうから見返した三矢は、声を潜める。

「……ホントはあの人に相手して欲しいんだけどさ。近づくなって兄貴に言われてんだよ。あんたが相手なら別に問題ないんだけど」
「兄貴って、瀬尾さん?」
「ああ。あの人、馬券師だから。どうしても保科さんには引け目しか感じないらしくて」



競馬競輪の類は公営ギャンブルで、それに乗っかる博奕打ちは数多いる。だが玄人の中には素人でも手を出せる遊びを、格下の博奕と見做す者も多い。法の目を掻い潜って賭場を開張し、そこで繰り出す勝負こそ博徒が身を散らすに相応しいというのが、伝統に重きを置く渡世人の価値観だ。組の若衆たちの中ではそれなりの存在感がある瀬尾だが、裏ではどんな言われ方をしているか、維にも容易く想像できる。
しかも瀬尾のノミ屋兼予想屋兼コーチ屋のような『私設サテライト』は、居酒屋での飲み仲間との雑談から始まったというわりに繁盛し、それなりの顧客を抱えている。それがまた他の組員たちから妬みを買う原因になっていて、そういう意味では瀬尾と保科は似たような立場とも言えた。

「俺は馬券師としての瀬尾さんのことは一目置いてるんだ。データも多いし、分析も巧い。何より好きだから心血注いでるっていうのがよくわかるからね。それにしても保科さんに対する物言いは尋常じゃないな。将棋でイカサマなんてできるわけないのに、最初(ハナ)っから仕事(ゴト)師扱いだもん」

それは維も耳にしたことがあった。

『あいつはイカサマの名手だ。公園でやってるあれだって、相手の手を読んでギリギリでどうにか競り勝ってるように見せかけて、ギャラリーを引っ掛けてんだから。何となればサクラ使ってわざと負けてみせるもんだから、みんな『こいつなら勝てる』って騙されて対局するだろ? それで散々毟られんだよ。見誤らせて虎の子張らせるなんざ詐欺と変わらねえよ』

維と対局している時に、瀬尾が聞こえよがしにそんな挑発を仕掛けてきたことさえあった。あんな言われ方放っとくんですかと維が言い募っても、保科はほのあまいキャラメルの匂いをさせながら「まるっきり根も葉もない話じゃないからなぁ」とのんびりした声で応じるだけで、あとはいつでも馬耳東風を決め込むだけだった。保科にとっては大した興味もひかない中傷以下の発言だったのだろう。



ふと詰所の入り口近くが騒がしくなって、居合わせた若衆たちが慌ただしく立ち上がった。昼下がりのまだ早い時間に突然幹部が出入りするのは珍しいことだ。若衆たちの張り上げる挨拶の声を縫うようにして、条件反射的に立ち上がった維と三矢の元へ来ると足を止める。江崎という名の組員で、普段は口をきくこともないような貫目の大きい組員が持つ、独特の威圧感に圧されて頭を下げると、手にした携帯から鳴りっぱなしの呼び出し音が小さく漏れ聞こえている。

「おい、保科来てないか」

苛々と携帯のボタンを押して呼び出し音を切ると、どこかあいつが出入りしそうな場所、知らないかと言われて、維は思いつく限りの保科の狩場を挙げてゆく。まずは駅裏の児童公園、それから県立図書館に併設された広場、隣駅にあるターミナルビルの屋上庭園も、保科が真剣将棋をするのに使う場所だ。だがそのどこも既に確認済みと見えて、江崎は来たらすぐ連絡するように言って詰所を出てゆく。

「公園だとか広場だとか、まるでいなくなった猫でも探してるみたいだな」

三矢がそう言った直後、窓の外が白く光る。
随分経ってから、遠くから岩でも転がすような、雷の低い響きが聞こえてきた。

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