空・当・空

文字数 3,994文字

夜も更けた詰所の一番奥まった大机には今日の電話番が座り、ソファの周りや小上がりの畳の上に数名の若衆とその手下が小さく集団を作っている。ここにくるのは随分久しぶりで、来ても部屋住みたちが作った料理を3階まで受け取りに行くことに忙しく、入り口から覗き込んで知り合いがいれば会釈するくらいのことしか出来ずにいた。今日は目で部屋中を探りながら入ると、いつも保科が陣取っていた小さな机に三矢が座り、マーカーを片手に競馬新聞を広げている。維が声をかけると三矢は新聞をたたんで、対局する時に使う木製の三脚椅子をひっぱり出して移り、席を譲ってくれた。差し入れだと言って維が手にした寿司折を渡すと、丁度腹減ってきたとこだったと言ってすぐに紐を解いて蓋を外す。酢飯の匂いが経木の蓋に煽られて散った。これ食ったら一局付き合ってくれないかと頼むと、三矢は俺も久しぶりにやりたいと思ってたと言った口に海苔巻きを放り込んだ。

「お前、大丈夫だったか」
「どうにかこうにか乗り切ってる。それより、こっちはどう」
「……まあ、ご覧の通りだな」

座敷の上で車座になっているのは瀬尾の手下たちで、それ自体はさして珍しいものでもない。不自然なのはカードも花札も弄らずに、ただタバコを吸いながら何かを話し合っていることだった。そういえば詰所全体がどことなく静かで、そこそこの人数がいるはずなのに、皆が息を殺しているような気配を感じる。俺はずっとここにいるから気がつかない。お前の方が余計に前と様子が違うってわかるだろうと三矢は言った。

「あの一件から数回小競り合いが起きてる。みんなピリピリしてるだろ」
「兄貴たちから何か指示が出るわけでもないだろ」
「それが出てからじゃ遅いんだよ」

この世界はな、行けって言われて行くんじゃダメなんだ。たとえば親の顔に泥を塗られてそのお礼に行くのに、言われて行くのと自分から行くのとでは全く意味が違う。ここを上手く見切って自分から行けば男が上がる局面だってことだが、そう簡単にできるもんでもない。だからみんな情報を探りながら様子見してんのさ。自分の器量を見せつけるいい機会だからな。出し抜くつもりで小競り合い起こした奴もいる。報復されるかもしれないから、一人で出歩くなって話まで出てるからな。……こんなところに吸い殻ひとつ投げ込んでみろ。あっという間に燃え広がるぞ。

 『理由なんて何でもいいんだよ』

保科の声が聞こえる。自分がくだらないことで保科と諍いを起こしているうちに、本当に釜の蓋が弾け飛びそうになっていた。



「瀬尾さんは?」
「ナイトレースの後だから、今頃はサテライトの顧客と飲んでるところじゃないかな」
「あの人が先陣切るって本当か」
「まあ、普通に考えたらそうだろうな」

それから三矢は武闘派の幹部の名前を出すと、瀬尾さん、あの筋の子飼だからね。誰かが火をつけに行くのを期待してるだろうな。そう言ってチラリと畳敷の上で車座になっている手下たちを見た。そのうち二人は維も顔見知りで、暴走族の支部長を名乗っていた男と、そこのケツ持ちをしていた男。あとの数人はそのケツ持ちの取り巻きだ。いつもならあの支部長が胴になって博奕に興じているはずなのに、低い声で何かやりとりをしている陰鬱な気配だけが満ちている。

三矢はすっかり空になった経木の箱を潰して、掛け紙で包んで紐で括りながらチラリと維の方を見ると、保科さんどうしてると訊ねる。順調だよ。相変わらずキャラメルばっかり欲しがってると言うと笑って、ちょっとタバコ買いにコンビニ行きたいんだけどいいかと言って立ち上がった。小さな声でお前も来いと言ったその声色に含みを感じて、とりあえず維も後をついて事務所を出る。通りに出ると人の気配を確認して、俺の勘だけどと前置きしてから三矢が切り出した。

「2〜3日詰所には近寄らない方がいい。座敷にいる連中、あれは何か起こすぞ」
「やっぱりそう思うか」
「頭数揃えておっ始める気だ。詰所にいる連中を巻き込んでひと暴れしに行く気だろう」

手柄を独占したければ、できるだけ少数精鋭で目標を定めて襲いに行くのだろうが、明確なターゲットも見つけられずに猜疑心を募らせて、ただ暴発の時を待っている。「バカバカしいからやめようぜ」という一言を本心では望んでいても、それを口にすれば腰抜けだと嗤われるのを恐れているのだ。自分と三矢もこのままフケたら『バック踏みやがった』と言われるだろう。
何か、気を逸らすに丁度いいような何かを目の前で振って見せることはできないだろうか。



「なあ三矢、久しぶりにモヤやらねえか」
「……何企んでる」
「ヒマだからロクでもないこと考えるんだ。あいつら混ぜてちょっと遊ぼうぜ」

維は保科からもらった札でキャラメルを3箱買い揃え、レジ係に頼み込んで釣り銭を千円札で貰った。事務所に戻ると全部開封してキャラメルを側にあったビニール袋に移す。これは保科への土産にすればいい。一粒だけを取り出して、箱に戻した。
随分久しぶりだし、いつもはタバコの箱を使うのだが、今日はそういう気分でもない。三矢を連れてソファーの置かれたローテーブルに陣を取る。数回シャッフルしてカンを取り戻すのに時間はそれほどかからなかった。ゲンつけとして三千円を三矢に渡して、一口千円で倍掛けだ、それで付き合ってくれないかと言った。

「俺がサクラやるんじゃないのかよ」
「いいんだ。あいつらの目を引いてちょっと抱き込めばいいだけだから。シンプルに当てに来てくれりゃそれでいい。できるだけ大袈裟に盛り上げてくれると助かるけど」
「乗るかね、奴ら」
「乗せるのも技のうちだ」

ちょっと練習するかと言って、維は目の前のローテーブルにキャラメルの箱を3つ並べ、一つずつ三矢に中身が空であることを確認させる。二箱は空、最後の一箱だけ中に一粒、キャラメルを入れる。その3つを手早く入れ替えて、どの箱にキャラメルが入っているかを三矢に当てさせる。維が手先で入れ替えてシャッフルした箱のひとつを見定めた三矢が、箱の前に千円札を一枚置いた。それでいいかと尋ねた維が、三矢の選んだ箱を開くと中からキャラメルが出てきた。三矢の勝ちだ。維は手元から千円札を出し、三矢に渡す。手にした二千円を、三矢はそのまま次のシャッフルへ賭ける。次も三矢が当てた。四千円がテーブルの上に出されて、それが瞬く間に倍々に膨れ上がる。賭け金に適度な厚みができた頃、調子出てきたと言った維が三矢に勝負しようぜと声をかける。今までよりも更に早い手つきで3つの箱をシャッフルし、ピタッと手を止めた。

「さあどれだ」

三矢は16枚になった千円札の束を自分から見て左の箱に賭ける。維が端から順に箱を開くと、キャラメルは真ん中の箱に入っていた。三矢の悲鳴ともつかない嘆息が詰所に響き渡り、居合わせた人間の視線がこっちに集まったところで、一万六千円を掴んで振り上げ、維は大きく声を張った。

「この金全部次に回すぞ。千円、当たれば総取りだ。誰か乗らないか」



間髪入れずに三矢が俺が張ると返し、再び勝負が始まる。今度は数名のギャラリーがついてきた。三矢の後ろから覗き込むように維の手元を凝視する。維は数度箱を入れ替えて、途中で一度手を止めてキャラメルの入っている箱を開いて見せる。それから速度を上げて入れ替えをして、パッと手を離してみせた。

「勝負」

三矢は躊躇って、千円札を持った手を差し出しかけて引っ込める。

「どうした三矢。ダービーは18頭、こっちはたったの3箱だぞ」

維の煽る言葉に乗った三矢が一つの箱に狙いをつけて札を置く。それでいいかと尋ねた維が端から順に箱を開いてゆく。三矢の賭けた箱からキャラメルが転がり出て、どっと歓声が沸いた。維が束ねていた一万六千円を出して手渡す。そこから五千円を抜くと、もうひと勝負させろよと言って三矢の方から維を煽った。
維は勝ち負けを繰り返し、相手は三矢だけだったのが、俺にも張らせろと言い出した電話番を最初に、皆次々と維のモヤ返しに挑もうとする。詰所にいた全員が維と三矢のいるソファの周囲に集まるまで、それほど時間はかからずに済んだ。
普通は素人から金を巻き上げるためのイカサマ賭博だが、仲間内でやるのにそればかりでは誰も乗ってこない。維は箱を操りながら時には相手に勝たせ、負けが込んで手元の資金が尽きそうになると、続けるために巻き上げることを繰り返した。普段金に縁がないような相手には多く取らせ、調子に乗って大枚を積んできた相手からは巻き上げる。確かにさっきはこの箱に入っていたはずのキャラメルが消え、隣の箱に入っている。いつの間にか座敷にいた連中までが一緒になって、維の動かす黄色い箱の動きを凝視し、札を注ぎ込んで一喜一憂する。みんなが維のイカサマを見破ろうとして手元を凝視するが、誰一人見破ることはできないまま、積もり積もった賭け金の束が動くたびに、詰所が興奮に沸き返った。

今日本宅で明らかにされた話に基づいて、組長が選んだ采配が明日には正式に周知されるだろう。諍い相手との手打ちが叶った今、余計な揉め事は誰も望んでいない。少なくとも保科がそう言ったのだ。明日になれば玉音放送が流れ、全てが終わる。せめて今夜一晩暴発から目を逸らすことさえできれば、たとえ手元に何も残らなくても、今日自分が仕掛けた勝負は勝ちと言える。維は大勝利を確信し、ポケットから一枚のカードを出して賭け金の札束に重ねた。せっかくここまできたのだから火に油を注いでやろう。夜が更けて東の空が白むまで消えないほどの業火にしてやるのだ。チンピラは暴動よりも、博奕で騒いでいるのが一番よく似合う。

「さあ、次の勝負にはこれもつけてやる。江崎の兄貴んとこの店、これ出せば半額にしてくれるってよ」

維と三矢の周囲を取り囲んだ男たちから、どっと歓声が上がった。

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