ロース・カルビ・ハラミ

文字数 4,069文字

数日ぶりに顔を出した有楽街が、やけに雑然とした印象なのは気のせいだろうか。
何がどうと説明できるほどの違いも見つけられないが、些細な違和感を持て余したままいつものように詰所のガラス扉を開けようとして、鍵がかかっていることに気づく。ということは、今日はまだ三矢も景も来ていないということだ。景が掃除をしていないので、なんとなく街頭に散っているゴミや吹き込んできた街路樹の枯葉が、この荒んだような印象の原因らしい。

鍵を開けて玄関ロビーに足を踏み入れると、今度は逆にスッキリと物がなくなった一階の室内が目について、そのコントラストに酔いそうになる。廃品で塞がれていたはずの窓から入る日差しが床で跳ねて、部屋そのものが光っているようにさえ見える。間違えて隣のビルに入り込んだかと思うような変わりっぷりをしばし立ち止まって眺め、記憶が過去を探りはじめる前に二階へと続く階段を上がった。

「んんあぁ、おかえり」

誰もいないかと思った部屋から声がして、見れば三矢がソファーの上から寝ぼけた様子で気怠げに腕を振っている。そのままパッタリと手のひらを下に落として、眩しそうに目元を覆い隠した。部屋は熟柿の匂いに満ちて、机の上には手脂で白く汚れたロックグラスが2個、つまみにしたらしいピスタチオの殻が、飲んだ証拠のように灰皿に積み上がっている。窓を開けて換気扇をつけようと給湯室に入り、とりあえずコーヒーを淹れるつもりでヤカンに3人分の水を入れて火にかけていると、ヨロヨロと体を起こした三矢が入ってきて、シンクに首を突っ込んで蛇口から水を飲み、そのまま顔を洗った。

「お疲れさん。すっかり片付いたな」
「ああ。一年分働いた気がする」
「景は?」
「ちょっと遅れるとさ」
「飲んでたのか」
「あいつ強いのな。潰れそうで潰れんのよ」

そう言って三矢が視線で示した先にあるのは、デキャンターを模した派手なボトルのウイスキーで、もうほとんどカラになっている。数年前にどこかの慶事で贈られてきて以来、2階のキャビネットに飾られていたものだ。とっくに味も変わってしまっているだろうが、排水口に流して捨てるよりは誰かが飲んでくれた方が贈った人も浮かばれる気がする。だが三矢はともかく景については、こんな稼業の維でも多少は気が咎めるというものだ。

「飲ませたのかよ」
「俺はコーラにしとけって言ったんだ」



それは確かに本当のことで、一階の片付けを終わらせて、やれやれこれで事務所の整理も目処がついたと、慰労のつもりで景を連れて入った焼肉屋での、最初の乾杯は生ビールとコーラだった。水気はそこそこにロース・カルビ・ハラミ・タン塩と、はじめのうちは食い気に走っていた景の箸が、ふと『これでお前もようやくお役御免だなぁ』と言った三矢の声を聞いた途端にぱたりと止まり、そこから先は俺もそっちがいいですと言って三矢のジョッキを手にとって一息に飲み干した。その一杯で早くも酔った素振りで『自分はもうお払い箱か』とクダを巻いて三矢に絡み、焼き網は炭火に炙られたまま放ったらかしになった。店で騒がれるのも面倒で、事務所に戻って数杯つきあってやればそのうち酔い潰れるだろうと踏んだ、その読みが見事にはずれて、先にソファーに沈んだのは三矢の方だった。

「……やだねえ。泣かれるってのは」
「誰に」
「景だよ。維さんはいつ戻るんですか、三矢さんはどこ行く気なんですか、ってさ。半ベソかいてゴネてたよ」
「最初からここの片付けが終わるまで、って話だっただろ」
「景に言えよ。お前の口から言ってやらないと聞かないぞ」
「雇ったのはお前じゃなかったっけ」
「あいつにだって誰がボスかぐらいわかってんだよ」

三矢はふらふらと窓際へと向かい、細く開いた窓を全開にして、身を乗り出してポケットを探る。健気だねえ。上官殿の命令でなければ武装解除はできんとさ。そう言いながらタバコに火を着けて煙を窓の外へと吹き出し、俺の口からは言えないからとにかくお前からちゃんと説明してやってくれと三矢が言った。やれやれ、随分と懐かれたもんだ。

ヤクザ稼業に身を窶すつもりなら、せめてもうちょっとマシなところへ行くべきだ。
認知症でイカれてない親がドンと構えたその下で、代貸しが目配りを効かせ、若衆頭が下っ端をまとめ上げ、準構どもに睨みを効かせながら、目端が効きそうなのを拾い上げて目に掛ける。……今時そんな組が何処にあるというのか。思い描くもバカバカしい程の懐古趣味に、我ながら呆れかえる維が続けざまに思い返す景の姿は、コーヒーを注いだカップを片手にエビカツサンドに齧り付いている。まだ殻をケツにくっつけたままちょろちょろと歩き回るヒヨコと同じだ。極道稼業に良い目を見たこともないだろうが、痛い目に遭ったこともない。だから自分や三矢の側にいることに何の畏れも感じないのだろう。



いつの間にか背後に回った三矢の気配を肩越しに感じる。

「一階からこれと、あれが出てきた」

ふわふわと二日酔いの声が浮かび漂って、それから項垂れるように三矢の額が維の肩に着地した。そうしたままでゴソゴソとポケットを探って古びた蛍光マーカーを出し、その先端で机の端に乗った黒い塊を指す。瀬尾が使っていたそのマーカーの、キャップの先が示したのは表面に細かくひびが入った眼鏡ケースだ。誰の手にも取られないまま、静かに分解してゆく途中のそれを維が手に取って開くと、表面に貼られた合革がパラパラと剥がれて落ちる。おさまったシルバーフレームのファッショングラスはフレームもレンズも白く燻んではいるものの、指先で撫でれば光を透過することくらいは思い出したようだった。

気が重い作業を押し付けたことくらい自覚している。景が愚痴りたいのと同じように、三矢にだってやり場のないものが渦巻いているはずだ。記憶に喰い荒らされた穴を酒で満たすことくらいしかできずにいる者を、何ひとつ手助けできなかった自分がどうして咎められるだろう。悪かった。お前だけにやらせるつもりなかったんだけどな。維はそう言って肩に乗った三矢の頭頂に掌を置いた。

「俺はあの棋力に憧れて、お前はあの博才に心酔してた。瀬尾さんが嫉妬するのも無理ないだろう。……結局、俺らみんなあの人に惹かれてんだよ」

三矢のそう言う声に被さるように、玄関ドアの軋る音に続いて階段を足音が上がってくる。維にお帰りなさいを言う景が、すみません、すぐ掃除やりますからと言って玄関へ向かいそうになるのを、それは後でいいから先にメシ買ってきてと財布から札を抜いて手渡す。景がやけに赤く火照るような顔をしているのを、あーあ、まだ抜け切ってねえのかと三矢はぼやきながら、今日はタマゴサンドにしてと注文をつけた。
すぐに戻ってきてコーヒーを淹れ、サンドイッチを食べる間も景は赤ら顔をして、それを見た三矢は「人生初の二日酔いはどうだ」と笑っていたが、次第に維も違和感を覚え始めた。お前熱でもあるんじゃないのと声をかけると、景はいやそんなことないですとかぶりを振る。どことなくぎこちないような動きと、三矢から聞いた昨夜の顛末によもやの思いが維の頭を掠めてゆく。今日はハムカツサンドを選んだ景が早くもそれを平らげて、じゃあ俺外周り掃除してきますと言って事務所を出て行き、維と三矢はその様子を見送ってから顔を見合わせた。

「あれは、つまりアレだろ。お前その辺のこと話したりしなかった?」
「……あぁ、したね。『どこで入れるんですか』ってしつこく聞かれたな」
「話したのか」
「あー、まあ。俺も大概酔ってたし。でもホラ奴はまだ17だしさ。あちらさんもさすがに未成年相手に商売できんだろ」

維は黙って駐車場へ行き、戻ってくると渋い表情でこれはクロだなと言う。グローブボックスに入れてあったはずの景の免許証がない。ということは、本人がそれを持ち歩いている可能性が高い。何に使ったか、もう二人とも察しがついていた。三矢が然るべきところへ電話して裏を取り、眉を顰めながらうなづいている。やっぱりか。ガキのしでかすことに敏いのは、かつての自分達もまた、同じようにガキだったことを忘れていないからだ。

「どっちがやんの」
「お前が余計なこと話すからだろ」
「待て待て。これで決めよう」

100円玉をトスして手の甲に乗せた三矢がどっちだと聞くから、維は「サクラ」と答える。外した掌の下から「100」の文字が出て、胃の下あたりがズンと重くなる。じゃ、俺がやるから戦後処理はお前に頼むわ。維はそう言って肚を決める。どの道ここら辺で一度、目にもの見せてやった方がいいと思っていたところだ。



「景、ちょっと来い」

やおら戻ってきた景を給湯室に呼ぶ。相変わらずののぼせたような表情に、ヒヨコみたいな真っ黒の目がくっついてこっちを見ている。

まずは鳩尾に一撃。突然の衝撃をもろに喰らって景の横隔膜が動きを止める。上体をくの字に折り曲げ俯くと汗ばんだ襟足が晒された。その盆の窪に維は容赦なく組んだ両手の拳を天地に叩き込む。景の身体が一瞬にして床に突っ伏した、その背中に馬乗りになってシャツを捲り上げる。さらけ出された白い背中の肩甲骨は一部を保護材に覆われて、皮膚に貼り付いた手のひらほどの大きさもないそれを一息に剥がすと血の滲んだ筋彫りの線が現われた。それもほんの数センチ、ミミズが這ったような火脹れに黒い筋が弧を描いている。

「何これ」
「……尾、です。虎の」
「へぇ。随分短いな」
「ちょこっとやったら血がすごくて、昨夜遅くまで飲んでたって言ったら今日はもう帰れって」
「追い返されたのか」
「……はい」
「酒も女も断ってから行くとこだって、三矢に教わらなかったか」
「三矢さんは『入れても強くはならない』ってだけ」
「ははっ、そんなん当たり前だろうが」

刺青ひとつで何が変わるでもない。背中が汚れるだけだ。背中が白かろうが黒かろうが、極道者が世間様から煙たがられることに何の変わりがあるものか。
景の背中に乗ったまま、維は腕を伸ばしてヤカンの乗ったコンロに火をつけた。

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