メンチ・コロッケ・チキンカツ

文字数 3,529文字

「なあ、(けい)。お前この店継ぐ気はないか」

店を譲ろうということは、叔父は自分を嫌っているわけではないのだろう。
しかし好意的な内容のはずが叔父の声色はどうにも威圧的で、厄介事をなんとか片付けたいという気配ばかりが先立って聞こえる。まだ二十歳にもなっていない景のこれからについて考えてくれるような、親身なものは微塵も感じられない。フライヤーから油を抜いて厨房を片付けているその横で「美代子もあんな調子だから引退させて、それでお前が店を回すんだよ。経理(ソロバン)については俺が見るから心配は要らないよ」と小声で打診されても、二つ返事で受けるほど景はこの毎日が気に入っているわけでもない。

高校に行かなくなってから何をするあてもなく、手伝いをしていた叔母の営む惣菜店の厨房に朝から入るようになってどのくらい過ぎただろう。一通りの作業がこなせるようになり、目算通りの時間に店を開けはするものの、この店が連なる商店街も昨今のご多聞にもれず、櫛の歯が欠けたようにシャッターを閉じたままの店が増えた。そして国道沿いに大型ショッピングモールが開店したことを機に、とどめを刺されたように客足が途絶えた。五人いたパート従業員は皆辞めて、景と叔母だけが二人で細々と、最盛期よりはだいぶ減った品目を作って並べ、二列並んだシャッターの片方だけを上げてどうにか回しているような店だ。なぜいっそのこと閉店しないのかと思う反面、祖母の代から続いた惣菜店駿河屋を、どうにか継いでくれた叔母の気持ちを考えては少し切なくなる。その叔母も持病の腰痛が酷くなり、もう厨房に立つのは無理じゃなかろうかと叔父や従兄弟たちが気を揉んでいる。店を切り盛りしてくれるのなら景にも経営権を持たせようと言ってくれるのはそれなりの配慮だとわかってはいても、同時に負わされる荷物の重さを考えて、背負う前から気分が塞ぐ。「なあ、少し考えておいてくれよ」と言い残して、叔父は今にも降り出しそうな灰色の空に腕を広げる店先のテントを出て行った。

『考えてみてくれないか』

夏休みや冬休みに入れる単発のアルバイト先でも、何度かそう声を掛けられたことがある。ビル清掃の、警備員の、引越し業者の、建築現場の資材運搬の、ライブハウスのスタッフの、その向かいにあるピザ屋の配達係の、新聞チラシの折り込み作業の、とにかくどこであっても従業員たちが休憩するバックヤードでは、いつでも人手不足だというぼやきがとぐろを巻き、景に「社員にならないか」と持ちかけてくる。そのくせ聞こえよがしに業界の不況と低賃金を嘆き、楽ではない暮らしぶりを他ならぬ景に見られたとしても、そのことをまるで気にかけていなかった。彼ら自身がここで働くということのモデルケースとして見られている、ということにまで意識が及ばないのだ。

その点あの人は、何もかもがまるで違っていた。



いつもは厨房の片付けが終われば、あとは叔母が閉店までの店番をしてくれていたのだが、数日前から腰痛が悪化して、そこまで含めて景の仕事になった。台風が近づいているのだろう。気圧配置という奴は地表の遥か上空から、人間の身体にも何がしかのメッセージを伝えようとしているらしい。腰に受信機を持っている叔母は申し訳なさそうに、土間に置いたストーブの前で椅子に座って腰をさすっている。

ぱらぱらとやってくる客をあしらっているうちに雲はどんどん低く黒くなり、もとより惣菜を美味しそうに見せるための照明は、夕刻のように暗くなった店の軒下を眩しいほどに照らしている。紅白マダラの派手なテントにぼつりとひとつ、またひとつ大粒が音をたて始めたその時、駿河屋の斜め前にあるもう5年前からシャッターを下ろしたままの鮮魚店、その店先に黒いワンボックスが停まった。後部座席の扉が静かに開いて、スーツ姿の男性が一人、小走りにこちらに向かってくる。その人が店の軒下に収まった途端に、テントを突き破りそうな勢いの雨粒が降り始めた。

「あぁ、間に合った」

ばらばらという雨音にかき消されそうな小声で、そう言って微笑んだ男性は景よりもひとまわりほど歳上の様子で、しかも不思議と落ち着いて見えるところを考えれば、見た目よりももう少し年嵩なのかもしれない。惣菜屋の軒先に立つにはキマり過ぎるほどにきまっているスーツ姿は、法廷もののドラマから抜け出たようで、ここまでくるともはや滑稽さの方が先に立っている。それなのに眼を釘付けにされた景には、黙って息を呑むしかやれることがない。
辛うじて喉から搾り出した「いらっしゃいませ」が思わず裏返ってあまりにもマヌケに聞こえたけれど、雨音が自分の声を上手く誤魔化してくれたらしく、客は平然とガラスケースの中を覗いている。

掃き溜めに鶴という言葉は古臭いが、それより丁度いい言葉を景には思い浮かべることができない。だいたいが賑わいの失せた冴えない商店街で、油物の匂いが満ちた軒先に立つには、この人が纏う空気ははあまりに場違いだ。本人はそんなことを全く気にも留めない素振りで、青く剃り上げた襟足を晒し身をかがめて、ケースの中の売り物を物色すると、やおら「メンチカツと、コロッケと、チキンカツ」と景に告げる。ケースの中のトレーには、さっき揚げたばかりのメンチカツが12個、コロッケが18個、チキンカツが8個積み上がっている。閉店時間も近いというのにこれでは、今日は売れ残りが多く出てしまうだろう。
耐油袋の口をトングで開きながら、おひとつずつでよろしいですかと尋ねる景に、男性は長い指でぐるっとその三種類をマルで囲んで「全部ください」と言った。

えっ、全部ってこれ全部ですか? そう言った景に頷くだけで返事をする男性の後ろから、ビニール傘をさした作業服姿の男性が走り込んできた。あの車から降りてきた運転手らしい。自分が持ちますから戻ってくださいと言って紳士用の黒い長傘を差し出している。メンチカツが4枚も入れば一杯になってしまう耐油袋に次々と揚げ物を詰めて、その小袋をビニールの手提げに分けて、どうにか納め切ることに一生懸命な景の後ろから、足を引きずった叔母が出てレジに立ってくれた。

「いつもありがとうございます。社長さん、お変わりありませんか」
「ええ。おかげさまで」

よろしくお伝えくださいという叔母の挨拶に応じながら、黒いカーフの札入れから出した手の切れそうな新券で支払いを済ませ、運転手に「釣り、受け取っておいて」と言って傘を手に取ると、男性はテントを出てゆく。景はようやくビニールの手提げ4つに収めた揚げ物を持って、運転手と一緒に車まで運ぶのを手伝う。あの人は後部座席に乗っているのだろうか。スモークで黒いサイドガラスからは、中の様子はまるで掴めない。きっと中からはこっちがよく見えているんだろうと気がつくと妙に気恥ずかしくなって、景は頭を下げて車から離れる。慎重すぎるほど慎重な走り出しで、車はゆっくりと商店街を抜けて走り去った。



店に戻ると叔母は、もう売るものないし今日はおしまいでいいかしらねと言って、テントをたたむための長い棒を景に差し出した。テントのたわみを下から2、3度棒で突き上げると、溜まった雨水が流れ落ちる。あのお客さん、よく来るんですかと尋ねると、そうね、ずいぶん久しぶりだけど、前はよく社長さんが来てくれたのよ。おじいちゃんが勤めてたとこの、関連の社長さんですって。最近はあの付人さんがたまにああして来てくれるの。そう説明して、そこから唐突に話題が変わったが、それ自体は叔母の癖みたいなものだから、気にするほどのことではない。問題は話の内容だ。

「ねぇ、景。考えなくてもいいわよ、あれ」
「あれ、って」
「店のことよ。たたむことにしたから」

虚を突かれた景がずいぶん急に決まるんだねと言うと、そうでもないわよ、ずっと考えてたもの。でもちゃんと口に出したのは初めてだけどと言って、叔母はケースを照らしつけていた照明器具のスイッチを指で探った。ぱちり、と音がして軒先が暗転する。

「時間ていうのは過ぎてゆくもんだし、時が変われば場も変わって当たり前でしょう。お婆ちゃんも許してくれるわよ、きっと」

叔母の母親、つまり景の祖母が始めた駿河屋だ。そうしてもいいという祖母の囁きが聞こえた気がするのよと叔母は言って、店のレジから売上と釣り銭を引き抜く。小銭を数える金属音に混じって叔父から言われた「考えておいてくれ」が、耳の奥で再生されて、それから急速に遠ざかって消えてゆく。その代わりみたいに稲光が白く明滅しはじめた空の下で、景がくるくると棒を回す。派手なテントを支えたアームがゆっくりと店に近づいて、やがてぴったりと建物に寄り添った。
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