ミニパト・パトカー・救急車

文字数 4,219文字

謹啓 時下御尊家御一統様におかれましては益々ご清勝の事と存じお慶び申し上げます

今般
当組一門郎党相集い熟慮の末満場一致にて松岡組を解散することに決議いたしました
明治後期の結成以来百三十余年に亘り御指導御支援御厚誼を賜りました事厚く御礼申し上げます
尚末尾ではございますが御尊家御一統様の今後の更なるご発展と弥栄をご祈念申し上げます

松岡組七代目組長 高木壮太郎

御賢台



姐さんが書いた挨拶状が関係各位に送付され、松岡組の解散が公になった翌日、維が所轄の警察署へ出向き、松岡組解散と親父の引退を届け出た。だからと言って国家権力とすっぱり縁が切れるわけでもなく、本当に活動の実態がないかどうかを確認するために、当分の間は陰に陽につけ回されることになるのだろう。だから終わったわけではなく、新たな局面に移行しただけとも言える。
詰所を片付け、カンタを探し出し、最後に残った仕事は姐さんから託された件の日本刀を、親父の兄弟分がいる北陸の関係団体まで届けに行くことで、しかしこればかりは宅急便で送ればいい、というわけにはいかない。登録証のない刀剣をゆうパックで送ることに難色を示したのは、姐さんよりもむしろ維の方だった。この世界で他組織の者と兄弟盃を結ぶということは、かつてはよくある話だったが、今となってはしがらみにしかならないと言ってむしろ避ける者も多い。そんな中で渡世終えるまで伴走してくれたことへの恩義を感じながらも、自身はもはや遠出もままならなくなったことを、誰よりも親父自身が無念でいるに違いない。挨拶方々自分が直接届けに行くと維が言うと、親父も姐さんもそうしてくれるかと言って維の厚意を受け入れた。

「刀と一緒でよければついでにお前も乗せてってやる。だが1分でも遅れたら置いていくからな」

ヤクザは時間に正確だ。自身の優位性を保つには、まず相手に先んじてその場に着いていることが最低条件、ましてや遅刻など論外で、それだけで揚げ足を取られる理由のひとつを与えることになる。6時には出るからそのつもりで詰所に来いと景に伝え、維は朝5時過ぎの、酒席の気配がようやく消えた有楽街を通り抜けてビルの扉を開く。

がらんとしたコンクリートの箱の中に足を踏み入れると、維を出迎えたのは靴底からの摩擦音だけだった。まだ早朝の弱い光が、天井近くに造られた窓から降ってくる。打ちっぱなしのグレーの床に白い四角がいくつか映し出されて、その中のひとつが僅かにくすんだ床の一部を額縁みたいに囲み、維に「ここだ」と教えてくれている。今日はスーツじゃないから、着ているものに頓着する必要はない。元はブラックジーンズだったはずの、もう着古してグレーになったデニムのボトムで、維はその四角い額縁の横に腰を下ろした。

三矢と景が片付けた1階の部屋、かつて詰所だったこの場所は今やすっかり物がなくなり、ただ四角いだけのがらんどうだ。その片隅で床に座った維は、ゆっくりと身体を傾げて横倒しに寝そべってみる。そのまま仰向けになってみると天井は高く遠く、内装材の無機質な模様が空から降り注いでくるようだ。
あの時兄貴もこんな風景を見上げていたのだろうか。それともいつもそうしていたように横向きだったのかもしれない。兄貴はいつだって右肩を下に横臥して、猫のように背中を丸めて眠るのが癖だった。

躰の奥底で滾る欲を御しきれずにいる維を見ると、保科は少し困ったような眉で微笑みながら呼び寄せて、自分の身体を維の気が済むまで好きなようにさせた。いつもならくだらないことで臍を曲げて機嫌を悪くするのに、その時だけは荒れ狂うような維の欲を全て受け容れ、何ひとつ拒絶しなかった。忘我の獣になって奥へと押し入る維に身を裂かれ、血を流しても保科は痛みを訴えることもせず、果てれば互いの体液が絡みついてべとつく体を洗おうともしないまま、魚籃観音の裳裾を歪めて横になり、朝が来るまで眠り続けた。
漁に出ていた事もあったという話が俄に信じられないほど、薄い身体を手荒く扱い、皮膚を裂いた後ろめたさを償うように維が身体を拭い毛布で包んでも、保科はほんの一瞬薄く瞼を開くだけで、それもまたすぐに閉じて眠りに落ちてしまう。脇腹を小さく上下させてすうすうと寝息をたてる猫のような姿が、維の記憶に焼き付いている保科の寝姿だ。
この部屋に駆け込んできた救急隊と、警官が作った人垣の向こうで、兄貴はどんな姿勢をしていただろう。いつものように横倒しになって背を丸めていたのか。それとも今維がそうしているように、すべてを手放して仰向けになり、同じ天井を眺めていたのか。そんなことを知っても今さら何が変わるでもない。細かい記憶はもう抜け落ちて、斑に白い映像にしかなりようもない。それでもここにいれば溢れるように思い出すのは保科のことばかりだ。



あの日維はここにいて、保科とロードマップを見ながら移動の計画を練っていた。遠方の付き合いのある組から開帳の案内状が届き、どのルートで向かうのかを検討する間、詰所に他の人間の気配はなかった。誰を憚ることもなく博打の首尾について話した保科からの「廻り胴らしいから、お前出てみるか」との言葉に、ようやく胴師を務める許しが出たことが、最初はただ晴れがましい気分だった。保科に仕込まれた胴師として、仲間内での常盆で務めることはあっても、組の名を負うような場所に出るのは初めてのことだ。廻り胴は胴師を固定せず、張子が順番に胴を務める略式の盆ではあるが、修行中の身には貴重な修練の場になる。ふと後から追いかけてきた緊張と不安に捕まって、表情が険しくなった維を見ると、保科は「いつもの通りにやればいいだけだ」と言って落ち着かせようとした。

不意に入り口で人の気配がして、立っていたのは瀬尾だ。
それほど寒いわけでもないのに、ピーコートを着たままボタンを留めず前を開いている。

「保科。話がある」

何の用件か気づいたのだろうか。部屋へ入ってきた瀬尾の方を一瞥してから保科がポケットの財布を探り、札を一枚出すと維に押し付けた。

「ちょっとサンドイッチ買ってきてよ。俺はいつものでいいから」

そう言われて時計を見ると、いつも買いに行くサンドイッチスタンドの閉店時間が近い。それなのに保科は「急がなくていい。ゆっくり行ってきな」と言った。今にして思えば瀬尾との話が簡単には終わらないことに気づいていたのかもしれない。
小走りに事務所を出て、通り抜ける夜の有楽社交街は今とは違って夜が更けても人の気配が溢れていた。サンドイッチが深夜まで売れるくらいの賑やかさだ。開けておけば誰かしら客が来て商売になるということだろう。これから訪ねる店への差し入れにするつもりだろうか、スタンドのロゴマークがプリントされた大きな紙袋を提げ、足早に行くスーツ姿の男とすれ違う。もしやと思った予感が的中して、店に着くと棚にはもう商品はほとんど残っておらず、売り子が閉店準備を始めていた。

焦ることはない。ここからそう遠くない本店は24時間営業だ。すぐ近くにあるコンビニでもサンドイッチは買えるだろうが、保科の言う「いつもの」を手に入れるために維は駅裏へと向かう。急がなくていいと言われたことを思い返しながら、駅の構内階段を登って線路の向こうへと渡る。印刷工場へと続く道の途中にある路地を入ればパン工場があって、そこのプレハブが24時間稼働している直売店だ。
保科のお気に入りの、ピーナッツバターとジャムのサンドイッチとレタスサンドを手に取って、夜食を買いに来た印刷工場の職員たちに紛れて会計を済ませ駅へ戻ると、ロータリーにある交番からミニパトが出ていくところだった。赤色灯が通りを照らしながら走り去っていくのを見送る維の足下で、路地から飛び出した三毛猫がすり抜けて通りを走り渡ってゆく。猫に気づいて慌てて減速する車の、ブレーキ音の向こうからまた赤色灯が現れた。今度は救急車だ。サイレンを響かせながらミニパトと同じ方向へと走り去ってゆく。
その赤い光の後をついて行ったわけでもない。ただ詰所へと戻るつもりで歩いただけのことだ。だがようやっと帰り着いた詰所の入口は向こう三軒両隣まで、ミニパトとパトカーと救急車の屋根に載った赤色灯で染め上げられていた。



どこから集まったのか人だかりで玄関が塞がれて、部屋へ戻ろうにも戻れない。後からやってきたもう一台のパトカーから吐き出された警察官たちが、バタバタと自分を追い越して詰所へ入って行った。玄関口を塞ぐ警官に掛け合おうとすると、中から出てきた江崎が維の顔を見るなり腕を取って外へと出ようとする。

「だめだ維、入るな」

制止する江崎と警官の腕を振り切って潜り込んだ先の、床に誰かが倒れている。ぐるりと取り囲んだ救急隊員が壁になったその向こうに、見覚えのある靴だけが見えて、朝な夕なに自分が履かせ、脱がせていたことのあるそれの先端が、蛍光灯の白い光を鈍く反射している。爪先が天井を向いていたなら仰向けだっただろう。横向きに伏せていたら身体も横臥していたはずだ。あの時飛び出した猫は三毛猫だったことは覚えていても、靴の向いた方向が、どっちだったかが思い出せない。救急隊員が呼びかける声が聞こえる。

「聞こえますかー。救急でーす。わかりますかー。聞こえたら手ぇ握ってくださーい。」

担架の後に追いすがり救急車に貼りついた維を引き剥がしたのは江崎で、耳元で『大丈夫だから、あとは医者に任せておけ』とそればかりを繰り返している。維が事務所を離れていた数十分間。その間に何が起きたのか。聞こうとしても割って入った警官が事情聴取したいと言って江崎を事務所の中へと連れてゆく。

「裕二、維を見とけ。目ぇ離すな」

江崎が大声で呼んだ先にいつの間にか三矢が立っている。三矢に呼び寄せられて、大丈夫かと声をかけられて初めて自分の歯がカチカチ鳴っているのに気づく。やっとのことで絞り出した声で尋ねると、俺もよくわからないんだけどと断りを入れてから、保科さんが撃たれて、犯人が逃げてるらしい、と言った。傍のパトカーから警察無線がザラザラと鳴っている。送信機を握った警官の声が、否応もなく三矢と維の耳に刺さった。

『容疑者、瀬尾祥平35歳、伊勢佐木駅前有楽社交街から所有車とみられる白のトヨタAE86トレノで逃走中。身長約175センチ、紺色のコート着用。拳銃所持の可能性あり』
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み