ライダース・革ツナギ・土鳩

文字数 3,984文字

ふと肺が重たくなってきた維が、タバコの代わりみたいにポケットから取り出したステロイド剤のキャップを外して、横になったままで吸い込む。もうすっかり使い慣れて、これがなければ夜も昼も明けぬ愛用ぶりだ。掌の中でしゅっ、と鳴った音の向こう側から、パタパタと足音がする。天井から降るように景の顔が覗き込んできた。

「薬、使い過ぎてませんか」
「早めに使え、って言ってなかったっけ」
「酷くなってからだと使いづらいから、そうなる前に使えっていう意味です」
「はいはい。わかったよセンパイ」

維が時計を見ると、まだ5時半になったばかりだ。随分早いなと維が言うと、緊張して眠れなくて朝になっちゃったからそのまま来たんですと言った景が、肩に担いだボストンバッグを床に置いて維の隣に座った。だらりと床に寝そべった維の脇腹辺りに、三矢と二人でここを片付けたときに見たシミが見える。景は三矢が『単なる内輪揉め』だと言ったその時の、奇妙に歪んだ口角を思い出した。

「……ここで何かあったんですか」

思い切ったように説明を求めてきた景の方をチラリと眺めた維が、三矢から何も聞いてないのかと言うと、景は首を左右に振ってから『内輪揉め』とだけ聞いてます、と言った。確かにそうだ。内輪揉めには違いない。

「俺も三矢も、まだ組員じゃなかった頃のことだよ。お前と同じで、勝手に詰所をうろちょろしてるただのチンピラだ。それで俺は兄貴が独り立ちして組を持ったら、一緒について行くつもりだった。三矢は三矢で、同じような兄貴の下にいたのに、よりによってその兄貴二人が揉めちゃってね」
「兄弟喧嘩、ですか」
「そうだな。兄弟喧嘩にしてはちょっとばかり度が過ぎたけど」

だらりと床に投げ出された腕が、染みの跡に掛かる。もう保科がいたという痕跡はここにしか残っていない。撫でさすってもコンクリートが維の掌を細かく傷つけてゆくだけだ。

「三矢の兄貴分が、俺の兄貴分を撃ち殺して、逃走中に事故を起こして死んだ。俺も三矢も一晩のうちに『父無し子』になった。見かねた親父が拾ってくれて、それから俺と三矢は兄弟ってことだ」



逃走した瀬尾の行方がわからないまま、維と三矢が警察無線のその声を聞いてからいくらも経たないうちに、同じ無線機から応援を求める声が響いた。受信機からの割れるような音声が、国道に繋がるバイパスでの交通事故発生を告げている。それとともに起きた渋滞を解消させるために、付近にいる警察官に応援を求める声がザラザラと周辺に散らばっていった。
救護活動と事故現場の検証が進むと、次第に事故当時の状況が明らかになる。何よりも警察に目撃者が存在するのだから話が早い。一部始終を見ていたのは、飲酒運転撲滅を掲げた取り締まりの検問所に配備されていた、交通機動隊の隊員だ。

当該車両が検問所に差し掛かる前から不安定な動きをしていたので、その隊員も不審に感じていたという。果たして検問所に近づくと誘導する警察官の制止を振り切って逃走し、追跡するパトカーと白バイを振り切ろうとしてスピードを上げていった。バイパスに出たところでさらに加速し、中央分離帯に接触、乗り上げて横転し反対車線へと飛び出たところに、対向車線を走行中のミキサー車の下に潜り込むように衝突したらしい。
その事故車両が、有楽街から逃走していた容疑者の運転する車両であることはすぐに調べがついた。車両ナンバー、運転手の特徴、車内からは実弾入りの拳銃が押収されて、保科の躰を刳った銃弾との線状痕の一致が確認された。

「……たった一晩のことだ。俺がサンドイッチ買いに行ってる間に二人が死んで、あの辺からだろうな。この組がボロボロと崩れだしたのは」

ライバルだった、ってことですかと景は言うが、それだけで同胞を殺せるだろうか。確かに毛色の違いが過ぎる不気味な存在として、他の組員たちからも疎まれていた保科のことを、瀬尾も嫌悪の対象だと公言して憚らなかった。だが利害関係はそれほど拗れてはいないはずだ。二人は同じ博徒でも、片や公営に乗る向こうブチ、もう片方は私設賭博のテラ取りで、それぞれ畑が違う。同じ川の利水を巡る争いにはなり得ない、縄張り争いに絡む理由のない二人だった。あの時事務所で何を話していたのか。どちらもいなくなってしまった今、誰もその内容を知ることはできない。



容疑者死亡の案件ながら、凶器となった拳銃の入手ルート解明がもっぱら警察の関心事で、数ヶ月後に逮捕起訴されたのは仁栄連合関東明誠会西條組の高遠義彦という男だ。瀬尾に改造拳銃を売った銃刀法違反での検挙だった。銃火器の密輸と密売を繰り返していた男で、起訴された時は別件で既に逮捕されていたから、派手な捕物があるわけでもなく、書類のやり取りばかりの粛々としたものだったらしい。

程なくして盛場で縄張りの境界争いが起きた。
松岡組と隣接する縄張りを持った西條組との、いつもなら単なる小競り合いで済んだはずの三下同士の諍いを発端に、小さな火が燃え広がり黒煙が上がっても、松岡も西條も仲介を立てようとさえしなかった。
『抗争は博徒の敵だ』と言ったその人は銃声の向こうに消え、いきり立つ松岡の中にはもう暴走を止める者はいない。そこから先の数年は、西條との間に派手な競り合いと陰湿な謀略が飛び交った。時には血の雨を降らせて身を削り、双方が体力をすり減らしてゆく。数年前に実質の組長だった西條組の代貸しが病に臥し、組員たちは散り散りになって行方をくらました。代貸しの死をもって初めて警察が当該組織の壊滅を宣言し、抗争は終結したものと認めた。勝ち残ったはずの松岡組もこの数年で幹部を含め次々と組員たちが消えていった。最後の最後に三矢と維、カンタの3人を残して。災の種が潰しあって弱体化してくれたならこんなに楽なことはないだろう。最後に笑ったのは警察だけだ。

寝転んで仰向けのまま天井に向かって、お前まだヤクザやりたいと思ってんのかという維の問いかけに、景は困ったような顔で俯いている。

「……やるもんじゃないぞ任侠なんて。どんなに苦心して何か手に入れても、最後には何も残りやしないんだから」



床に染みだけを残して消えてしまった兄貴のことを、振り切るように維が立ち上がる。
景が慌てて後を追い、ちゃんとうがいしてくださいと言い募るところに、覆いかぶさってくるのはエンジンの低い排気音だ。クラクションに呼ばれるように外へ出れば、二台のバイクが駐車場で緩く円を描いている。よく見ればライダースジャケットを着た三矢と、革ツナギのカンタで、それぞれバイクのタンデムには旅装らしいパックが括り付けられていた。スーツ姿以外の三矢を見たことがなかった景は、それが誰なのか気付くまでに少し時間がかかった。

走り寄った景にシールドを上げた三矢が、おお、ちゃんと時間通りに来たのなと言って、うっかり寝過ごさなかった景を誉めた。それから「これ、お前にやるよ」と言ってポケットから水色のブックカバーがついた文庫本を取り出して手渡した。ソレイユで佐々木幸弘という会社員に化けた時、カンタと落ちあうための目印として持たされた本だ。あの時は緊張していて開きもしなかった表紙を捲ると、詰将棋の問題が並んでいる。
結構古い本だけど、これ全部解いた頃には相当腕が上がってるはずだ。お前センスいいから続けろよ。維に見てもらったらいい。そう言った三矢の顔はフルフェイスのヘルメットに覆われて目元だけしか見えず、別れを惜しむには物足りない。

景の後からついてきた維が、行くのかと声をかけると、三矢は「ああ」とだけ答えて握り拳を維に差し出す。維も同じように手を形造って、グローブを嵌めたままの三矢のそれにぶつける。道中気をつけて。維はそれだけ言うとカンタの元へ行き、跨ったままのオフロードバイクを眺め、泥除けについた補修剤の跡を見ると、手入れが行き届いている様子を誉めた。それから「三矢を頼む。あいつもお前次第だからな、よく見張っとけよ」と声をかける。特に指先な。ささくれでボロボロになってたら何かヤバいこと抱えてるサインだから、そうなったら気をつけろと言うと、殊勝にもカンタは「そういう指にさせないように気をつけます」と応じた。数年前まで三矢の後にくっついてウロチョロしていたカンタも、いつの間にか数手の先を見て動くようになっている。只々時が過ぎた訳ではなかったことが維を満足させた。
兄貴、世話になりましたというカンタの声が、語尾に近づくと少しだけ頼りなく震える。その向こうで三矢が足で地面を蹴ってバイクの向きを変えた。まだ眠気を拭いきれずにいるような街を縫う道にスロットルを向けて、景と維の方を振り返える。

「じゃあな」
「おう」

交わした言葉はたったそれだけだが、維と三矢にはそれで充分だった。
共に過ごした時が流れ、撚り合わさった2本の糸がほどける。次はいつ交錯するかわからない二人のはずなのに、なぜかいつものような何気ない別れがしっくりと身に馴染む。
維が軽く手を挙げると、三矢はシールドを下ろした手でスロットルを握り込み、少し長めに空吹かしする。二匹の鉄の馬がゆるりと動き、まだ交通量の少ない公道へと降りると、西を目指して走り出してゆく。

ブレーキランプを点滅させて軽く片手を上げながら交差点へと差し掛かる二人の姿を見届けて、維は大きく伸びをする。ふと見れば景はまだ名残を惜しんでいるのか交差点を見つめていた。
その角からゴミ収集車がゆるゆると曲がって来ると、横について走る作業員が路上のゴミ袋をつかみ上げては車に投げ込んでいる。ガラガラとゴミを圧し潰す音が、騒がしく一日の始まりを告げた。維が腕時計を見ればぴったり6時になったところだ。

さてと。俺たちも行くか。
維の声に振り返った景の頭の上を、二羽の土鳩が掠めて飛び去った。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み