失われたものの目録として

文字数 2,670文字

本作はすでに失われた(とされている)日本の風物を意識的に取り入れています。

Extinct(EX) 絶滅
失われたものの目録として

艀[はしけ]
『運河に架かる橋の袂まで行けば、まだじいちゃんの暮らしていた艀が浮かんでいる。いざとなればあそこへ潜り込めばいい』
景が押しかけた松岡組の詰所で、維に雇ってほしいと食い下がるところの一文ですが、艀による水上風景はおそらく70年代初頭には消えてしまっただろう港の風物のひとつです。本作では景のおじいさんがかつて艀で水上生活をしていた、という裏設定になっております。
港湾の歴史については本編でも超ざっくりとご説明しておりますが、かつて大型船が港に直接接岸できなかった時代に、沖に停泊した本船と陸を往来して人や物資を運んだのが艀と呼ばれる小型船です。船倉の隅に座敷が作られており、そこで寝起きができるようになっていました。
昭和30年〜40年代初頭にかけて、積荷を陸揚げする沖仲仕と呼ばれる男たちは、これに乗って働きながら家族一緒に船内で寝起きする水上生活をしていました。艀で暮らす人たちのために食品や日用品を販売する船もあり、そうした船が運河にずらりと並んだ様子は水上の街さながらで、中には仕事用と居住用の艀を使い分ける人もいたそうです。子供たちは通学するにも艀の屋根を伝って陸にある学校へと通うので、誤って海に転落して命を落としてしまう子供も多く、そうした港湾労働人口の増加とともに、港町には寄宿舎付きの学校が開設されました。小学校に上がると親元を離れ、平日は宿舎で寝起きして、週末だけ艀に戻って家族で過ごすというライフスタイル。それも親の艀が仕事で別の港へ行ったりしていると戻れないまま宿舎で週末を過ごすことになります。1965年に港湾労働法で水上生活が禁止されるまで、港町にはそうした学校が存続しました。

手本引き[てほんびき]
手札を使い胴師の選ぶ数字を当てるものを手本引き、サイコロを振って出目を当てるものを賽本引き、と呼びます。本作の中心的舞台装置のひとつで、かつて本引きは任侠の人たちの本業とも呼べる賭博でした。
とはいえヤクザ界隈だけでいくら賭場を設けても、結局は狭い世界でお金が巡るだけになるので、ヤクザは遊びの好きそうなカタギの旦那衆を見つけて賭場に誘います。で、盆茣蓙に座らせたその隣について、張り方を指南したり勝負の出所を見極めてアドバイスしたりします。そうやって適当に遊ばせて、時にはイカサマでひっかけて有り金を巻き上げるわけです。ここが匙加減の難しいところで、あまりえげつない巻き上げ方をすると、噂が広まって客が近寄らなくなってしまう。下手を打てば警察にタレ込みされるリスクもある。だから巻き上げるばかりじゃなく、時には勝たせたりして『ああ面白かった、また来よう』と思わせなければいけないのが興行師としての腕の見せ所になります。所謂ヤクザのキメ台詞『カタギさんを大事にしなよ』とは、うっかり勘違いしそうですが、弱きを助ける侠気云々ではないんですよ。要するに『裏社会にお金を運んでくれるパイプ役を大切にしろ』という意味を持つ博奕用語です。
博奕の世界で賞賛されるのは「たくさん勝った人」ではなく「たくさん溶かした人」つまり負けの額が大きい程伝説のギャンブラーとして称賛されるような側面があるのですが、そりゃ胴(ヤクザ)に巧いこと乗せられてるだけなんじゃ……と流矢は密かに思っております。ハイ。
70年代をピークに流行は終焉し、遊技人口の減少とともに現在は絶滅、以降の非公営ギャンブルは闇カジノに取って代わられた様子です。手本引きはゲーム内容としては単純明快ですが、賭金の付け方が複雑で、計算もややこしい。胴師の指先ひとつで出目が決まるため賭博としての偶発性が低く、胴師と張子が組んだイカサマが横行しやすいことなどが人気の薄れた理由のようです。本作品は「盆がどこかでひっそり続けられていると面白いんだけどな…」という不謹慎な妄想から生まれています。

モヤ返し[もやがえし]
通称キャラメル賭博。タバコやキャラメルの箱3つをシャッフルし、特定の箱がどれかを当てる単純な博打です。作品中では一つだけ中にキャラメルを入れる、という手法で描いていますが、実際には箱の裏に直接シールや油性ペンなどで印をつけて、それを当てさせます。かつて開催日の競馬場や場外馬券売り場付近の路上でよく見られたようです。手品半分インチキ半分で、主にギャラリーにサクラを仕込む手法で、田舎から出てきたばっかりの、世間知らずのお兄ちゃんたちを引っ掛けます。昔見た韓国映画に、ひっくり返した茶碗を3つ用意して、そのどこかに碁石を入れて入れ替え、石がどこに入っているかを賭ける路上賭博の様子が描かれていたので、アジアではわりとポピュラーな賭博行為だったのかも。1990年代までは場外馬券場や競馬場の付近でよく見られた光景らしいのですが、さすがに今は見かけません。路上賭博、通称デンスケには他にもたくさんバリエーションがあり、その中でも技術の習得が難しい割に、引っかかる人が減ったことが廃れた理由じゃないかと思います。

真剣師[しんけんし]
将棋やチェスで賭け勝負をして、その上がりで生計を立てる人のこと。その昔横浜でアルバイトをしていたとき、昼休みはもっぱら店舗が入っているテナントビルの、屋上にあるベンチでお弁当を食べて過ごしておりました。当時としては珍しく芝生や樹木の植え込みがあり、その間にベンチを配したいわゆる屋上庭園だったのですが、ちょっと奥まった木陰のベンチにおじちゃんたちが群がっておりまして、よく見るとどうやら将棋を指してるご様子。所謂青空将棋とはちょっと違ったムードだったのは、おそらく賭け将棋だったのではと思います。見かけたのはあの1回だけだなあ。作中の保科がしていたように、明らかに自分より格下の相手にも、わざと競り勝ったように見せたり、時には負けてあげたりする手練手管が客を捕まえておくためのキモになります。そういう意味ではプロ棋士よりも難しいかもしれません。これも違法行為として刑事罰の対象になり得るため、現在では廃れてしまった職業です。

どれをとっても昭和の中頃から後半にかけて最盛期を迎えた事象ばかりなので、本作の時代考証ということを考え始めると、実に時間的整合性の低いストーリーです。しかしノンフィクションの正確さよりも、「今はもう消えてしまった風物」を物語の糖衣で包んで記録することを優先させました。

流矢アタル


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