酢豚・エビチリ・レタスチャーハン

文字数 4,107文字

夢の中で維はまだバカラテーブルに座っていた。緑色の卓の上に散らばるチップとカードの鮮やかさの向こう側で、客が喚いている声がする。当たりに興奮してのことか、はずして落胆してのことか、イカサマを告発するつもりなのかもしれないその声色が、次第に怒声に変わり、どういうわけか前川の声と、その相の手を取るような細い三矢の声に代わる。自分を呼ぶ声と妙な姿勢に捩れたままでシクシク首が痛む刺激で目が覚める。……真っ先に視界に入ったのは景の不安げな顔で、その後ろで前川が三矢を怒鳴りつけるのを止めて、こっちを見たのを低い位置から見上げて声を出した。

「おや、みなさんお揃いで」

もうちょっとマシな挨拶はなかったのかと、口に出してから後悔したのは、いつになくあからさまに不機嫌になった三矢の顔を見たからだ。それさえなければ口が滑ったとは思えなかった。表情通りの辛口が三矢の口から飛び出して、責めるように尋問してくる。

「で、何してたんだよ」
「ちょっと打ちに行ってただけだ」



頻回に場所を変えながら営業を続ける闇カジノの、今度のショバは半地下にあるフィットネスジムの跡地だった。以前はルームランナーが並んでいるのが見えた大きな窓ガラスは、反射フィルムですっかり覆われて、バカラテーブルが据え置かれている。その一角で維はゲームに興じていた。興じた、と言うよりは稼業に勤しんでいたと言う方が相応しいかもしれない。スロットだ何だよりも、丁半にも似たこの勝負の方が自分に合っている気がするから、とりあえずそこに座り続けていたとも言える。
慣れているはずの賭場だったが昨夜はしくじった。ツキがなかったわけじゃない。その逆だ。調子が良いとかえって切り上げる時期を見失う。自分の呼吸がだんだんと浅くなっているのに気づいてはいたが、昨日はとてもじゃないが今降りるとは言えないほどの昇り調子だった。やっとのことで切り上げて、立ち上がったまでは良かったが、半地下から地上へ出る階段を昇っただけで息苦しくなり、通りを歩いただけで息切れした。這々の体で前川の診療所に辿り着き、その結果として自分の代わりに三矢が前川の怒声を浴びることになってしまったのだ。

三矢が自分の目下であることを普段は意識したことがないが、案外三矢は気にしているのかもしれない。たった五厘でも貫目が勝る自分に気を遣って、三矢はいつも維に対して強く物言いすることはない。だが今日に限ってはさすがに口説に険がある。

「カジノの空気がお前の肺にいいとは思えないんだが」
「俺もそう思う」
「だったらもう少し自制しろ」
「もう時間がない。察してくれ」

維の声に混じった悲壮感にも似たものを、三矢は拾い上げてくれたらしい。シノギじゃ仕方ねえのはわかるけどさ。頼むよと言われてさすがの維もしおらしくするしかない。競馬や闇カジノを主戦場にする三矢に倣って、維もバカラや麻雀につきあうけれど、それは「もののついで」でしかない。所詮自分は古いタイプで、シーラカンスの水槽に何故だか紛れ込んだ泥鰌のようなものだ。他の魚たちが死に絶えて、一匹だけ水槽に残された自分は隣の水槽に飛び移る訳にもいかず、水底で息を潜めている。
組が解散して渡世から身を引いたことを周囲に知られたら、今まで通りに賭場に出入りすることもままならなくなるだろう。今のうちに稼げるだけ稼いでおきたい。どこで何をするにも先立つものは金だ。松岡の身代を清算するための資金はもちろん、自身の今後のこともある。だからタバコの煙がこもったカジノでも、発作が起きない方に賭けるしかなかった。そういう意味では昨夜は大敗を喫したことになる。

とりなすように三矢が、首尾はどうだったと聞くからまずまず良かったねと答えれば、じゃあ明日は俺が稼いでくるから、あいつに将棋教えてやってくれと言って景を呼ぶ。維を家まで送るように言い、車を停めた場所とは逆の方向へ歩き去った。



運転席に座った景は相変わらずどこか不安げな声で、維さんの家までナビしてくださいと言う。維はああそうだ、お前に伝えとくの忘れてたと言って、助手席の目の前にあるグローブボックスを開く。パスケースに入ったそれをポンと渡すと、受け取った景の困惑した様子を見た維は、黙って手のひらを重ねて作った二つ折りを開く仕草をして「開いてみろ」と指示した。言われるままにした景が、中に入っている自分名義の免許証を手にして、これ、どうしてここにあるんですかと言いながらポケットを探った。財布を取り出すと、もう一枚の免許証を抜き出して左右に並べる。
同じ名前と顔写真の、同じ有効期限が書かれた免許証が2枚手元にあることに混乱している景に、維は「間違い探ししてみな」と言った。

名前、住所、交付年月日、有効期限、免許条件。少し落ち着いて見ればすぐにわかる。生年月日は1年早く生まれたことになっており、免許の種類に「普通」の文字が書き足されていた。

「親父からだ。これでちょっとは落ち着いて運転できるだろ」

あくまでも保険としての切り札だからな。捕まるような運転はしないことだ。検問とか、万一の時はこれを使えと言うと、ポケットに入れようとする景の手からパスケースを抜き取る。持ち歩くな。ここに入れておけ。そう言ってグローブボックスにしまい蓋を閉じると、景は少々気を引かれながらも素直に頷いた。

「ハラ、減ってないか」
「メシに関して言えば俺はいつでも臨戦体制です」

おぉ、頼もしいな。そいじゃ、駅前のロータリーから港の方に行ってと指示を出す。相変わらず柔らかい動きをする景の運転で、黒いセダンが菜香飯店と書かれた赤い看板の駐車場に停車した。夕食にはまだ早いくらいの時間だが、赤い窓枠の向こうに見える店内には、もう数組の客が入っているのが見える。店に入ると、維は大きな卓を避けるようにしてフロアを移動して、壁際にある二人がけの小さな卓につく。店員の差し出す水と茶色い表紙の菜譜を受け取って、好きなもん頼みなよと言って景の前で開いて見せた。

「エビチリは頼まなくていいよ」
「嫌いなんですか?」

頼まなくても出てくるからだよと維の言う通り、やがて景の頼んだ酢豚と維の頼んだレタスチャーハン、玉蜀黍(とうもろこし)のスープ、その間にエビチリの大皿が卓に並んだ。三矢とカンタの好物で、毎回注文してるうちに黙っていても出てくるようになったのだ。維は取り皿も使わずにレンゲで掬ったエビチリをチャーハンにかけて食べた。

「今日は将棋指してたのか」
「4階の掃除もしましたよ」
「勝てたか」
「まさか。飛車角香車桂馬落ちでもダメでした」

ずいぶん気前良く落としたもんだな。そう言って笑う維に景は、明日は維さんから将棋習えって言われましたと言うと、ああ、あいつには気ぃ使わせてるなあとぼやく。

「ダメなんだ。埃っぽい場所に長居すると喘息の発作が出るみたいで。だからあいつ俺が片付けしてると邪魔して部屋から追い出そうとすんだよ」
「……前から不思議だったんですけど、三矢さんて維さんの後輩なんですか」
「俺は呑み分()だと思ってるんだけどな。三矢が五厘下りってことになってる」

維は三矢よりも少し前に組に出入りし始めたが、盃は同じ日にもらった。だから世間様で言うところの同期だと言える。だが維の兄貴分の方が三矢の兄貴分よりも貫目が上だったことを理由に、三矢が自分から維の五厘下りを自称するようになったのだ。「あの、何ですかゴリンクダリって」と言う景に、ほんのちょっとだけ遠慮します、ってことだよと説明する。だから普段は貫目を意識することもない間柄でも、序列としては維の方が上位ということになる。だがそれももうじき終わる。組が消えてしまえばもう親も兄弟もない、ただの他人だ。



いつの間にか厨房の奥から染みだらけのコックコートを着た男性が出てきて、景と維のいる卓へとやってきた。維が立ち上がって挨拶すると、男性はいいから座りなよと言って席をすすめた。

「大変だろう、裕二から聞いたよ」

力不足で、本当に申し訳ありません。維は深々と頭を下げる。本当にもうそれしか言葉が出せずにいる維に、コックコートはお前のせいじゃない、むしろ今までよくやったよと労った。親父もちゃんとわかってくれてるさと言いながら、小指の欠けていない方の手で、景の目の前に点心の入った小さな蒸籠を置いて蓋を外す。艶やかなグリーンピースを頂いた焼売が、湯気の向こうに並んでいた。

「まだ食えるか、若いの」

口の中に頬返しもつかない程詰め込んだ飯を咀嚼しながら、景は頷いて返事する。
いいねぇ、食いっぷりがいいっていうのは見てるこっちも元気が出て。元兄貴分にそう言われて、確かにそうだと維も思う。景の素直がすぎるほどの屈託のなさが、何をするにも後先ばかりを考えて自重するしかない自分が失ったものを照らし出して眩しい。もう何年も前に組を抜け、今は中華料理店の厨房に立っているこの兄貴分も、きっと同じものを景の薄汚れたスカジャンの襟や、もぐもぐと上下する顎の動きに見ているのだろう。笑い皺とシミの浮かんだ目尻が景に向かってぐっと垂れ下がった。
兄貴すみませんと改めて立ち上がり、頭を下げた維に「もう兄貴も何もないだろう。それよりさ、みんな連れてまた来てくれよ」と言って、コックコートは厨房へと戻っていった。

フロアの奥に据え置かれたテレビが、明日の天気を知らせている。
………ここ数日の好天は続き、明後日の午後までは安定して広い範囲で晴れるでしょう。お洗濯物もよく乾きます。紫外線は十分に対策を………

それならきっと良馬場も期待できる。三矢もそれなりの戦果を挙げてくるだろう。そうすれば景にも薄謝くらい包んでやれる。
万事が終わりに向けて滑らかに進んでゆくことに安堵しながら、いつもの習慣で食後の一服に手を出せば、三矢の代わりとばかりに景がダメですと言って灰皿を手で塞ぐ。維はそうだなと言って素直に従い、煙草の代わりに湯呑みを手にする。ポットから紛れ込んだらしい茉莉花茶の、茶葉を避けながら啜ることに集中して気を紛らわせた。



※呑み分け…呑み分けの兄弟。上下のない同格の兄弟関係を指す。
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