ギプス・猫・将棋盤

文字数 4,115文字

あのとき維は右腕をやられていた。

まだ組員でも何でもないくせに、瀬尾という名の先輩に誘われて出入りするうちに、不良の吹き溜まりみたいなここは居心地が良くて、維は松岡組事務所にある、組員たちの詰所に入り浸っている。日雇いのバイトがある日は働いて、なければここに出入りして仲間内でつるんでいる、その日数のバランスが、次第に後者の方が増えてきたことに気付いてはいたが、それをどうするつもりも起きないでいる。しかも数日前にこんな格好になってからは尚更だ。

ケンカでもなんでもない、バイクで横転した自損だから、誰を恨むでも恨まれるでもない。ギプスで固められていつもより重くなった腕を、吊り下げている肩が凝るのがひたすら難儀で、利き手を封じられて何をするにもいつもの倍時間がかかった。左手に持ったレンゲでのろのろと夕食の中華丼を食べて、事務所の1階にある詰所に戻ると、数名の若衆が座敷に胡座をかいて花札に興じている。お前も入るかと誘われたが片手で札を繰るのも面倒で、やんわりと断って座敷に背を向け、座面が凹んだソファに腰を下ろした。事務所の電話が鳴って当番が出ると、近所のスナックで客同士のトラブルだと言って数名が出かけて行き、残る数名がまた博打の座に戻る。いつもだったら自分も兄貴分たちと一緒に事務所を出るところだが、こんな(なり)では出来の悪い冗談にしかならないだろう。

ふと維の視界の縁で何かがひらひらと動いた。見ると事務所のいちばん隅に置かれた古い木製の机から、組員が小さく手招きして維を呼んでいる。挨拶程度の内容以外口をきいたこともない、保科と呼ばれている男だ。



事務所内での保科の評判は、お世辞にも良いものではなかった。
単純に言えば誰からも嫌われていたし、正確にいうなら得体の知れない気味悪さが、他の組員を遠ざけていた。ある兄貴分曰く「触らぬ神に祟りなし」ということらしい。
賭場で三(※1)をしていた保科を気に入った組長が、引き抜き同然の体で松岡組に連れてきたという出自が他の組員たちから妬まれるには十分な理由になったし、他ならぬ親父の見立てだという畏怖にも似たものがそこに加わった。

おまけに保科は他の組員たちのように酒やタバコを口にせず、博打に誘っても乗ってこない。それも飲めない体質だとか、そういう不可抗力があるわけでもないらしく、宴席で幹部に勧められた時にだけ顔色一つ変えず浴びるように呑んで、酔態の片鱗も晒さずに平然としている。タバコに至ってはそれらしく上着のポケットから取り出してみせるのはキャラメルの箱で、一粒つまみ出しては茶色の立方体を口に入れる姿を最初は馬鹿にしていた組員も、次第に自分たちの方がバカにされている気分になってくるらしい。
何から何まで「らしさ」というものがない毛色の違いが不気味さを増し、そのくせ(※2)には明るくて親父のお気に入りときているからあまり邪険にもできない。結果みんなが遠巻きにして当たらず障らずをきめこむ事になる。

当人も周囲に迎合するような素振りを寸分も見せないために、他の兄貴分たちからの評判はもっぱら『可愛げがない』の一言で、親父から保科を任されて渋々ながら面倒を見ていた唯一の組員が賭博場開帳図利罪で4年の懲役(つとめ)に出てしまってからは、孤立無援という有様だ。
保科の方もそれでどうということもないように振る舞って、事務所にいても誰とも絡まず、花札の輪に加わりもせず、本を読んだり新聞を眺めたり、気まぐれに幹部連中が声をかければお供として賭場について行くような様子だ。維から見た保科は『事務所には居着いても誰にも懐かない猫』という表現が一番しっくりくる。

その猫のような先輩が、珍しく声をかけてきたのを訝りながらもそばに行くと、机の上には二つ折りの将棋盤が乗っている。椅子から維を見上げながら、保科がその腕どうしたのと訊ねてきた。バイクでコケたんですと言うと保科は間延びした声でそりゃあ災難だったなぁと言ってから机の上を指し、ちょっと付き合わないかと維の機嫌を伺うような声を出した。

「俺、知らないんです」
「教えるよ。簡単だから相手してくれ」

そう言うと側に置いてあった木箱からじゃらじゃらと音をたてて駒を盤の上に広げる。それを指先で並べながら、それぞれの駒の動きと基本のルールを維に説明する。な、これだったら片手でできるだろと言われて初めて、片腕を拘束された自分を気遣って誘ってくれたのだと気がついた。



誰にも懐かない猫先輩が、しかし片腕で済んだのは幸運だったねと言いながら、つらつらと駒を動かし、維もそれに応じるようにぎこちなく駒を動かして、ふとあの時バイクの前に飛び出してきたのも猫だったなと思い当たる。ケンカで負けたのか、他の猫の縄張りにうっかり入り込んだのか、追い回されて必死に走って逃げるところらしかった。降り出した雨にうっすら濡れた路面という悪条件下で、ハンドルワークで躱せると思って減速が遅れたのが失敗の元だったという分析まで含めてぽつりぽつりと話す維に相槌を打ちながら、保科はゆっくりと一手を打って、それにまた維が応じる。繰り返すうちに地回りをしていた数名の組員たちが詰所へ戻ってきた。

地回りは自他とも認める腕っ節を持った『主戦力』というべき組員が中心となって、松岡組のシマを歩いて流す言わばパトロールであり示威行為だ。維はその一騎当千の兄貴分たちが詰所のソファに座って一息つきながら、遠巻きにこちらを伺っている視線を感じる。見える位置に座ってはいてもまるで気にしていない様子の保科が、ふと「あと三手で詰むよ」と言ったその言葉通り、維の王将は右にも左にも動けない状態になった。

「ね、こんな感じ。簡単だろ? ……迷惑だろうからこんくらいにしとくか」
「はい?」
「いや、俺嫌われ者だからさ。相手してるとまずいんじゃないの」

維の向こうに座ってタバコを吸っている兄貴分たちの方へ、保科がほんの一瞬だけ視線を投げた。この男にも嫌われているという自覚くらいはあるらしい。

「……『嫌い』っていうんじゃないですよ。どっちかって言うと、たぶん『怖い』です」
「俺が? 何で」
「保科さん、組長のお気に入りだから」

有名ですよ、花(※3)で組長が直々に引き抜いたって。そう話す維の声に「へぇ、そういう触れ込みになってんのかぁ」と保科は呆れた様子で言ってから、咳き込むみたいにくつくつと笑った。引き抜きねぇ。誰が言ったか知らないけど、とんでもねぇヨタ話だなぁ。そう言って微笑む顎には小さな笑窪が浮かんでいる。それから、本当のところを教えてやろうか、と言った。

「……俺がここに来る前にいた組は本当に小さな所帯でね。親父はその界隈では名の知れた博徒だったけど、いかんせん歳には勝てなくてさ。がんを患って組は解散、組員たちはそれぞれ他所へ移ったりカタギになったりしたんだけど、俺だけはどうにも行き場がなくて。まあ、仕方ないよな。俺にできることなんて何もないからね。腕っ節が強いわけでもなけりゃうまい商売(シノギ)があるわけでもない、盆中でうろちょろするのが精一杯だから。見かねた親父が遺言がわりに五分の兄弟分だった高木の親父さんに泣きついて、こいつをどうにかしてやってくれって松岡組に捩じ込んでくれたんだ。そういうのは『引き抜き』って言わないだろ。どっちかって言うとお情けで拾ってもらった、の方が正しいな」



電話が鳴った。受けた電話番の声の調子から察するに、幹部からの連絡らしい。こっちの方を見ながら何か話している。保科は長い指で器用に駒を少し動かして、数手前の局面を再現する。しばらく眺めてからお前本当に初めてなのと維に訊ねた。

「盤があるのは知ってましたけど、誰も使ってませんし。掃除の時に触るくらいでした」
「じゃあさっきのは偶然かぁ。それにしてもセンスいいね」

この時にこう指してたらもっと続いたし、ここを突かれたらヤバかったと独り言みたいに呟いて、それから駒を並べ直し、今度は自分の駒から飛車と角行を除けて維の方を見た。ふわふわとした前髪の向こうから覗く、少し潤んだような保科の視線が維を捕らえた。

「やる?」

兄貴分の命令には従うことが絶対の世界に、それほど長く居続けたわけでもない。しかも相手は自分に命じたわけでもない。もう一度対局するかと尋ねただけだ。それを拒否しなかったのは単純に将棋が面白かったことと、保科の熱を帯びた視線と声に絡め取られて、席を離れるタイミングを失っただけだ。
先手、指していいよと言われるままに、左手で静かに駒を滑らせる。真似るように保科も音をたてずに指先だけで駒を動かしてゆく。やがて佳境に入ったところで、維が次の一手に悩んでいると、部屋中の組員たちが一斉に立ち上がった。幹部の一人が顔を出したからだ。皆と同じように立ち上がり『お疲れ様です』と言って頭を下げる維の方へ向かってくると、幹部は座ったままの保科に声をかけ、親父が呼んでるから一緒に来い、と言った。

「……ションベン行くんでちょっと待ってもらえますか」

保科は立ち上がると「あと五手で詰みだ。お前の勝ちだぞ」と言ってからトイレに向かう。だが維にはその筋道がわからない。そのあと五手をどこにどう指すのか、盤を見つめて悩むうちに戻ってきた保科が詰将棋でも解くみたいに、こうして、こうして、こうだよと言いながら駒を動かす。

「ほら、これでお前の勝ちだろ?」

保科自身の指先で、王将は駒に囲まれて固められた。入口近くでタバコを吸いながら待っていた幹部の、早くしろと急かす声がする。盤を片付けようとする保科を慌てて制止して、自分がやりますから行ってくださいと維が声をかけた。片手なのに悪いね、お疲れさん。保科はそう言ってソファに置いてあった上着を持って事務所を出て行く。
勝った、と言うより勝たされたその盤面を、維はどういうわけか崩し難くて、いつまでも駒の並びを眺めていた。





※1三下…盆中(賭場)でのお茶出しや灰皿交換などの雑用全般を請け負う見習い。
※2盆に明るい…賭場で計算が早く目端の効く博徒の様子を指す。ボンクラ(盆に暗い)の対義語。
※3花会…不定期で開催される博打の集まり。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み