トラ・ライオン・剣闘士

文字数 4,055文字

すっかり日が暮れた吹富町はいよいよネオンも眩しく、黒服たちの呼び込みの声があちこちから湧き上がってくる。お兄さん、決まったとこあんの。うちはいい子たくさん揃ってるよと声をかけられるのを躱しながら歩くうちに、他所に比べると控えめな看板がついた店の前を通りかかった。
写真見学無料の文字を取り囲むようにバストショットの女性の写真が並べられ、みんな揃って維の方に視線を送ってくる。たいして似てもいないのに、いやそれどころかすれ違いに見ただけの顔を覚えているはずもないのに、並んだ写真の女たちがついさっきエレベーターホールで行き違った女に見えて、咄嗟に顔を背けて店の軒を離れようとしたが、ちょっとばかり遅かったらしい。店の入り口から出てきたのはやたらと威勢よく呼び込みする黒服で、捕まって何やかやと絡まれるうちにもう一人、奥から出てきた男が維を見るや声をかけてきた。

「何してんの」
「江崎さんこそどうしたんですか」
「どうって、自分の店の様子見に来ちゃ悪いのか」

フラッと出てきた様子が事務所で見かける時よりはラフな服装でいるからか、いつもよりも若く見えて、江崎の弟だと自己紹介されたら疑いもなく信じそうなくらいだった。



いいよ俺の知り合いだからと江崎が言うと、今までの猛烈な勧誘がウソみたいに黒服がスッと身を引き、通り掛かる他の客にターゲットを変更する。ちょっとこっちぃ来なよと言った江崎に誘われるまま店のバックヤードに入り込むと、肌が透けるほど薄いピンク色のケープを羽織っただけの女が、折りたたみ椅子の上で片膝を抱えてタバコを吸っていた。オーナーが連れてきた客が気になったのか、維をチラリと横目で見ると同時に奥からスタッフに呼ばれ、ハァ〜いと間伸びした返事をして部屋を出ていく。揺れながら目の前を横切っていく乳房に視線を奪われはするが、それ以上の感慨も反応も自分の身からは何も湧いてこない。

一角に置かれた冷蔵ケースから、江崎が茶色い瓶に入ったドリンク剤を出し、ホラこれ効くよと言って維に差し出した。いきなりこんなものを渡されるほど疲れた顔をしていたのかと思ったが、なるほど入り口近くの壁に据え付けられた姿見に写る自分は、確かにいつもと違う気がする。俺そんなに疲れて見えますかと訊ねてみると、うんまあねえ。目の前のおっぱいにあれしきの反応しかできない20代って、よっぽど疲れてるか、女に興味がないかどっちかだねと江崎が言った。維はぱりっと音を立てて瓶の封を切ると、人工的な甘みと苦味が混じり合った液体を一息に飲み干し「よっぽど疲れてて、女に愛想尽かされて、兄貴に追い払われたっていうのが本当のとこです」と言った。江崎は「コンボかぁ。そりゃキツいな」と言ってポケットから出したタバコを咥えると、もう一本を振り出して維にも差し向ける。ドリンク剤よりもこっちの方が嬉しくて、火まで貰って吸いつくと、普段使いの慣れたものより強い洋モクの煙が肺に染み込んだ。

熊田から聞いてる。お前ホントによくやってるってあいつ感心してたよと江崎が言ってくれるのもどこか他人事のようで、はぁ、はぃという程度の返事をするので精一杯だ。保科どうしてると訊ねられ、療養に関しては順調ですと応じる。それが証拠におねえさん呼んでお楽しみの最中なわけだから、指はどうあれ少なくとも腰が動く程度には元気で健康ってことになる。



「お盛んだねぇ。そいでもって追い出されちゃったのか」
「まあ、他にも顔を見たくない理由はあると思うんですが」
「それ以上深追いしない方がいいんじゃねぇの。時間と小遣いくれたんだから、兄貴の温情だと思ってありがたく受け取っておいたら」

冷蔵ケースの上に置かれたラジオから、低い音量で金管の奏でるメロディーが響いてくる。ビタースウィート・サンバを時報がわりにしているのだろう江崎は、折りたたみ椅子から身体を反らせて、奥の方へとあとは頼むよと声をかけて、維を伴って店を出る。お前メシまだなんだろうと言うと寂れたような裏通りで小さく灯をともしている寿司屋の暖簾を捲って中を覗き込み、それからウンウンとうなづいて引き戸を開けた。年嵩の大将と維と同じくらいの年頃の二人に迎えられて、カウンター席の奥へと陣取る。瓶ちょうだいと言っただけで数種類あるはずの銘柄から、何も言わずとも黒い星のついたビールが出てくるところを見れば、ここは江崎の行きつけらしい。目の前に緑に濡れた葉蘭が敷かれて、その鮮やかさに目を焼かれている維を、ケースの中から牡丹海老が見つめている。好きなもん頼みなよと言われてどうしていいかわからずにいると、じゃあ大将、俺は刺盛と、こいつにお決まりで握ってやってよと声をかけた。

「やっとこさ親父んとこまで出向いたらしいから、これでちょっとは動きも出るだろ」

やっぱりその話になるのかと思うと気が重い。そこで得た情報の対価としてのお決まりなんだろうと思うと、ケースに並んだ寿司ネタが突如色褪せて見える。出されるまま迂闊に口に入れたら後でどうなるかわからない。だが逃げ出すには遅すぎた。維は観念して、あの、俺は本宅まで付き添いしただけで、詳しいことは何も知らないんですと言って頭を下げる。ビールを手酌しながら江崎は笑い、どうせ明日になれば上から通達なり何なりあるだろうと言った。

「さっきの女の子、最近入ったばっかりなんだけどさ。前の店があんまり酷かったからうちに移ってきたって言うんだよ。まあ、たまにはああやって愚痴聞いてあげたりしないとね。この業界も狭いから、良くも悪くもすぐに噂が広がる。売上に影響が出てから慌てても遅いからさ。……お前もたまにはいい思いしないと、やってらんないだろ」

実際維が松岡組の詰所に居着くようになったのは、瀬尾や他の兄貴分たちの手伝いをすると、気まぐれに小遣いをくれたり食事を奢ってくれたりするからだ。金のない同年輩の友人たちとつるんでいるよりも、美味しい目に遭う確率は格段に高くなる。シノギを持ち羽振りの良い兄貴分の周囲はいつも、おこぼれにあずかろうとする準構たちで混み合っていて、維も三矢もその中のひとりだ。どの組員が今昇り調子なのかは周囲に群がるチンピラの数である程度の予測はつく。江崎も熊田を筆頭に数人の手下を従えているところを見れば、稼業ますますご盛業といったところか。

「しかし随分古典的な兄貴だよなあ。保科っていうのも」
「古典、ですか」
「俺はとっくに絶滅したと思ってた」

博徒っていうのは元々博奕だけで生計立てるもんだったんだがな。今でもそれで食えるのは極々少数だけだ。俺だってこうしてシノギを持ってるし、他の奴らも似たり寄ったり。博奕で食ってるって意味では瀬尾も保科もご同様だけどな。瀬尾は公営に乗っかってるわけだから上手くすれば続くだろうが、保科はどうだろうねぇ。盆は手間がかかるしなぁ、そう遠くない将来消滅するだろう。そしたら奴さんも身の振り方を考えるんだろうけど。
しかし競馬はどうなるだろ。ありゃ元々は強い馬を作るっていうのが国策だった頃の名残りだからな。まだ動力が馬頼みで、軍隊の良し悪しが馬で決まっていた頃の話さ。大義名分の消えた今や、単なる趣味としては莫大な金を動かすお金持ちの道楽だ。俺らの生きてるうちくらいはなんとでもなるだろうけど、数百年後はどうなってるかなあ。
昔ローマはコロッセオで、ライオンとトラを闘わせたり、剣闘士が殺しあったり、時には獣に人を食わせたりして、それを見せものにしてたんだろ? 今じゃ考えられない内容だけど、あの頃は当たり前の娯楽だったんだろうなあ。もしかしたら競馬も同じ運命を辿るかもねえ。今の俺らがコロッセオの見せものに感じるものと同じように、数百年後の人間の目には信じられない蛮行に写るのかもしれんし。『人間の都合で他種族を支配し賭博として供される娯楽』とか言って根絶されてたりしてな。



江崎の話をなんとなく聞きいていると、カウンターの向こうから伸びてきた手が、葉蘭に次々と寿司を乗せてゆく。それを維は黙々と舌の上に乗せる。ネタの脂にほぐれたシャリを混ぜて喉へと流し込みながら、保科はちゃんと食べてるだろうかと思う。誰かが側にいるならそれが自分以外の人間でも、頼めば大抵のことはやってもらえるだろう。そんなに心配することなんて何もないはずなのに、自分の指で口へ寿司を運びながら、キャラメルを受け取ろうとして寄ってくる保科の唇を思い出すと、急に生唾が湧いて喉が鳴った。

煮付けられた干瓢の甘辛さをカッパ巻きの水気で押し流していると、江崎は決まってるとこあんのと維に訊ねてくる。何の話かわからずにいると、俺んところのサービス券くれてやると言って、角の丸く切られた派手なピンク色のショップカードを渡してくれたから、それでようやくソープの話かと気がついた。裏に江崎の印が押されていて、これを店に渡せば半額になるらしい。
ポケットには保科から貰った札が折り畳まれていて、維はそのうちの一枚を抜くと、大将に海苔巻きの折が欲しいんですと頼む。程なくして若い職人がカウンターから出てくると、緑色の掛け紙で包み紙紐で括ったお土産を手渡してくれた。受け取ってそのまま立ち上がり、頭を下げると江崎がもう行くのかとほんの少しだけ寂しそうに眉をへし曲げる。

「ちょっと詰所寄ってみます」
「期限とか、そういうの特にないから」
「何の話ですか」

サービス券の有効期限だよという声に被って、カラカラと音を立てて引き戸が開いた。江崎の知り合いらしくて親しげに挨拶をしてくるから、ご馳走様でしたと礼を言って早々に店を後にする。
春も極まり初夏に近くなっても、宵はまだ少しひんやりとした空気が吹富町のネオンを透かしている。
行き場を失くしてあてもなく彷徨うにはいい季節だと思う。詰所にでも顔を出して、そこに三矢がいたらいい。久しぶりに三矢と指したいと思った。
維は指先で紙紐をつまんでぶら下げ、靴の先端を詰所の方へと向けた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み