西ヶ浦・維・賽ヶ浦

文字数 4,461文字

緑の生い茂る斜面からは小鳥の囀りが、遥か高い空からは長く尾を引いて、鳶の鳴く声が響く。

千切れ雲ひとつかかって日差しが遮られればまだ春の陽気だったが、直射を浴びれば初夏と呼ぶに相応しかった。タクシーの乗務員は運転席から降りると、維が後部座席から降りるのに手を貸してくれる。折りたたみ式のクラッチ杖を伸ばして道路へ降りると、運転手は斜面を見渡して、あんまりいい道じゃないが、大丈夫ですかと気遣ってくれた。斜面にある墓地へと繋がる車道は砂利を敷いた駐車場で途切れ、あとは細く伸びる石段を上がってゆくしかない。リハビリがてらのんびり行きますよと応じると、運転手は今時めずらしくなった制帽を脱いで、こりゃあもうエアコン入れてもいい陽気だね。どうぞごゆっくりと言って帽子を被り直す。維は杖と仏花を手に歩きだした。

実際事故から五年が過ぎて、もう回復できるところは回復し切っている。医療刑務所での規則正しい生活とリハビリが功を奏して、杖さえあれば以前と変わらずに好きな場所へ行けた。稀に思い出したように事故で潰れた右足がしくしく痛むことがあるが、今日は痛みがないということは、気圧配置が出所したばかりの維に少しばかりサービスしてくれた、ということらしい。なだらかに日本海へと入り込む斜面の向こうには、青々とした海原に波が白く光っている。角の削れた石段を登り、途中で立ち止まって息を吐く。腹筋を使い肺がカラになるまで吐き出し切ったところでそれを緩め、海を渡ってきた風を肚に満たす。景に教えられたステロイド剤の使い方と同じ方法で深呼吸すれば、空気ばかりか解放感まで五体に満ちてくる。出所して半月は過ぎているものの、街中では得られなかったそれを、維は腹一杯に吸い込んだ。



あの日カーナビに入力した「賽ヶ浦」の地名はまるで検索にかからず、モニターは「該当住所地域不明」の文字を表示するばかりだった。路肩に付けた車の中で息苦しさを堪えて、せめて保科の故郷であろう奥能登の海を目指そうとして、ウインカーに指を掛け路側から本線に出ようとした、そこまでで記憶は途切れた。
次に意識が繋がった時は病院の中で、対向車線を走っていたトラックがセンターラインを越えて、あなたの車に衝突したんですよと看護師が教えてくれた。維の右半身は潰れ、特に右膝から下は重複骨折のために数回にわたる手術に耐えなければならなかった。数日後に県警からやってきた組対の刑事はベッドに固定された維を見ると「逃亡及び証拠隠滅の恐れなし」として在宅捜査に切り替えた。
そこから先は粛々としたものだった。被告人が偶然にも交通事故の被害者として療養が必要な状態であること以外は、いつも通りの手続きで維は医療刑務所に送致され、治療が一段落つくまでの間はそこで眠りながら過ごした。心配したのは景のことで、余計な罪を被されたりしてないかと気を揉んだが、姐さんが差配してくれた松岡組お抱えの弁護士が良くしてくれたようで、大事には至らなかったと聞いて安心できた。

傷ついた身体は自己修復のためによく働き、何はさておいて眠りを欲しがった。両手に傷を負っていた保科がとにかくよく眠ったのと同じように、維もふとした隙によく眠りに落ちた。夢に見るのは景の運転で走る車内から眺めた日本海の景色で、休耕畑に植えられたコスモスがふわりふわりと揺らぎ波打つ向こうに、白くさざなみの立つ海が光っている。ふとソレイユで幸田と話した「親父に言い付けられて、孫の絵に描かれたお花畑の向こうに海が見えるところを探した」という昔話を思い出した。その絵の風景が現実にあるとすれば、きっとあんな感じの所なんだろう。
ずっと封印されたままだった保科の死をいい加減認めるために、出所したらきちんと仕切り直して墓地を訪ねよう。そのついでにもう一度あそこにも寄ってみようかと思いながら、常習賭博と公文書偽造の罪で5年の刑期を過ごし、ようやく迎えた今日という日だった。電車を乗り継いで能登半島に辿り着き、維は3本の足で駅前に降り立った。

あらかじめ調べてあった、地元で一番古いタクシー業者の事務所に向かい、目的地周辺の地理に詳しい運転手をお願いしたいと言うと、受付の奥にある詰所でテレビを眺めていた老人が、スタッフの男性に声をかけられて、すっくと立ち上がり壁に掛けてあった制帽をかぶる。勤続40年になるというロートルの運転手に一瞬不安は感じたものの、乗ってみればハンドル捌きもアクセルワークも若い運転手より練れていて、何より土地の情報に詳しかった。賽ヶ浦、という集落を探しているんですと維が問いかけると、あぁ、お客さんも墓参りですかと応じる。何せあの辺りはもう、平成の市町村合併とかがあって行政区分もあれこれ変わって、鉄道も廃線になってしまったから、すっかり寂れてしまってね。今は廃村になって、人の往来も盆暮の墓参りくらいですわと説明してくれた。運転手は「あの辺りは迷うほど道もないですから」と言って、無線の横に付けられたカーナビには手を触れる様子もないまま出発する。墓参りに行くなら途中にあるホームセンターに寄った方がいいと言われ、アドバイスに従って売り場へ入ると仏花一対と線香2束を手に取った。刑期の間に喘息の療養も同時進行して、今やすっかりライターを携行する習慣もなくなった維は、線香用のターボライターもまとめてレジに持ち込んだ。



どなたか親類の方のお詣りですかと尋ねられ、世話になった人なんですけど、何となく後回しになっちゃってと言い訳するように返事をする。ルームミラーに映る運転手の目尻が下がり、私なんかもそうですわ。死んだお袋が夢に出てくるから、仕方なく墓参りするんですけどと言って笑う。維にとっては前川診療所でたった一度、夢に保科が出てきてくれたのはあの夜の一度きりだ。

「俺の夢には出てきてくれませんよ」
「その方がいいんですよ。もう安心して向こう岸から見ていられる、ってことでしょうから」

自分の夢には一度しか出て来ずに、景の前に姿を現したという保科の不義理を、あの世で会ったら詰ってやろうと思っていたが、運転手の言葉にそれもそうかと思い直す。見捨てられた気分も少しは晴れて溜飲がる思いがした。
ホームセンターを出た後は、タクシーはひたすら農道を進み、それから林道一つ越えて海沿いの道に出た。海を見ながらしばらく道なりに進むうちに「西ヶ浦」という交差点に差し掛かり、そこから幹線をそれると人の気配のしない家や倉庫が数件並んでいる。小さな十字路の近くにある廃屋には軒に掲げられた板に「賽ヶ浦公民館」と書いてある。どうやらかつて集落があったその跡地らしい。雨戸を閉ざした数件の家屋と、土台だけになった敷地が並んでいた。

細い道ながら人も車も気配がないことを幸いとばかり、運転手はアクセルワークを控えはじめる。「古い集落で『さいがうら』と読むんですが、昔は表記が複数あって、西方浄土のサイと書くものと、賽子(さいころ)のサイと表記するものが混じっていたんです。常用漢字でわかりやすいから、役所は『西ヶ浦』で統一することにしたそうで」と、昔話でも聞かせるように教えてくれた。道理でカーナビが何も教えてくれないわけだと維は改めて納得する。斜面地に開けた集落の中にこんもりと木の茂る一角があり、タクシーがゆっくりと掠めて通る木立の中に、小さな瓦葺きの建物が見えた。

「ここら辺は観音信仰が盛んで、漁師の網に掛かって引き揚げられたっていう由来のある観音像が祀られてました。毎年秋には祭もあったんですよ。私ら子供の時分にはずいぶん賑わったもんですが、祀る人もいないもんですから、今は隣町にある寺に遷座しました。だからもう観音様もお留守です」

運転手に良かったら帰りにお寺へご案内しましょうかと言われて、維は丁寧に断った。
その観音像の姿なら知っている。華奢な背中に描かれた波を分けて泳ぐ、大きな魚の背に乗り魚籠(びく)を手に提げた観音菩薩は、いつだって兄貴の背中で俯き加減に首を傾げていた。あの魚は兄貴を連れて、遠く沖へと泳ぎ去ったのだ。だからもうこれからは海を見れば、彼方からこちらを見守っている保科の気配を感じ取れるだろう。



そうしてやっと運転手の案内でたどり着いた駐車場から、一休みしてはまた石段を登ることを何度か繰り返し、維は少しずつ空へと近づいてゆく。杖は軋りもせずに脚を支え、一段、また一段と維の体を上へと押し上げた。
人里から遠く離れ、高い所から眺める景色が、鳶になったような気分にさせてくれる。真下には維が乗ってきたタクシーと、白い軽ワゴンが停まった駐車場が見えた。タクシーで通ってきた道を遥かに見渡して、集落があった場所の真ん中辺りには、木立ちに埋もれた観音堂の屋根瓦が覗いて、それが随分小さく見える。彼方の空には白く雪を被った山脈が見えて、思ったよりも高いところまで登ったことに少し驚きながら、維は右足をさすった。

大丈夫だ。今からアスリートになることは難しいだろうが、自分の脚を自分の腕で支えてここまで来れたのだから、それ以上何を望むことがあるだろう。思い返せばあの詰所に入り浸り、松岡の構成員になってから過ごした時間の中で、何一つ手元に残るものはなかったが、夢に出てくる人だけはたくさん揃った気がする。あるいは自分も誰かの夢に出て、何か言ったりやらかしたりしてるのかもしれないが、思えばあそこで過ごした時間の結晶が、今の自分の核となっているのだろう。短くて長い時の流れに浸食され、なお残った記憶の結晶。形もなく、誰かに見せることも、譲り渡すこともできないそれが確かに維の身に宿っている。決してきれいなものばかりではないその塊を、降り注ぐ陽光にかざすような気分で、維は潮風を浴びながらまた上へと足を進めてゆく。

数段先の石段が途切れ、ようやく開けた狭い平地と、その横に墓石らしいものが見え始めた。平地の隅にはコンクリートブロックを積み上げて造られた簡易な小屋があり、そこに置かれていた手桶を拝借して、沢から直接引かれているらしい水道の水を満たす。持ってきた仏花をそこに挿して、維は斜面地に並ぶ墓石の林へと向かった。

ふと墓石の向こう側から、カチッ カチッという小さな音が聞こえた。人の気配を感じて墓石を回り込んでみれば、誰かが地面にしゃがみこんでいる。丸めた背中越しに見える手元には百円ライターが握られていて、どうやら線香の束に火をつけようとしているらしい。
ライターで線香に火をつけるのはちょっとしたコツがいる。今時の百円ライターは安全のために炎が大きくならない設計になっているから尚更だ。炙ってはフーフーと息を吹きかけ、煙を吸い込んで咳き込む様子はとても慣れているようには見えない。これじゃあ時間ばかりかかるだろう。

「良かったら火ぃ、貸しましょうか」

買ったばかりのターボライターを手に、維はしゃがんでいる男の背中に声をかけた。





ビター・スウィート・サンバ   ……おしまい……


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