維・三矢・カンタ

文字数 3,936文字

(たもつ)はとにかく疲れていた。
体に疲労がたまるのは仕方がない。そのまま休息もせずにいると、次第にその状況に慣れてくるのが人体だということを知ってはいたが、脳の奥からくるような精神的な疲れはどうやらその限りではないらしい。元気な頃の親父は今よりもっと放埒で、あの頃よりは楽なんだろうと思って自分を納得させる。苦労させられている兄貴分たちの姿が今でも目に浮かんで、そのフォローに入らなければならない維のことを、兄貴たちは「振り回され役の孫請け」だと言って笑い、同時に労った。その元請けたる兄貴たちはいつの間にか一人、また一人と数を減らしていった。

昔話に耳にしたような、威勢のいいものではない。かつてなら組織同士の対立があり、時には警察を相手にしてその先端に身を投げ出して、火花でも散らすように表舞台から消えてゆく者たちもいた。中には人生まるごとそっくり退場し、親父の本宅で姐さんが管理している仏壇の、過去帳に名前だけを残して消えてしまった者もいる。だが今はそうしたわかりやすい消息を持つ者は少数派だ。

いつの間にか。本当にいつの間にか、という表現がぴったりくる。親父でさえ全部を知っているわけではないだろう。きっちり話をつけて組を抜けた者は半数もいない。幸運にしてどこか帰る場所のある者はひっそりといなくなる。取るに足らない些細な罪で服役し、刑期を終えてそのまま戻らない者や、誰にも知られたくないとばかりに全てを置いて夜逃げする者、どこぞへと鞍替えしたのか、風の噂に対立関係にある組の、地回りに紛れ込んでいるのを見かけたと噂される者もいる。昔だったら追いかけて、こちらの面子を立てるのが仕事のような時もあったが、そんなことに人手を割けるほど構成員がいるわけでもない今となっては野放途になっている。年嵩の者たちは若い頃の無理が祟って身体を壊し、通院投薬は当たり前。その筆頭格が他ならぬ親父自身ということだ。

今や松岡組にまともに足腰が立つ者は維を含めたった四名しかいない。そのうちの最年長である組員が不動産がらみのトラブルで、業者を相手に小さな掛け合いをした、そのあげ足を取られて脅迫罪が成立し、懲役を喰らうことになったのが先月末のことだった。ションベン刑だと鼻で嗤っていられるのは若く体力のあるうちだけのことだ。残されたのはたった三人、維とほとんど同時に組員になった三矢、その後輩で弟分であるカンタ。収監される兄貴の方がよっぽど俺たちのことを心配しているだろう。七十の声を聞いた頃から徐々に言動が怪しくなり、その頻度が増してきた親父のことを姐さん一人で支えるのはもう無理だからだ。晴れてこのたび、と言うのもおかしいが認知症であると医師の診断を受け、寂しげながらもどこかほっとした表情の姐さんが、これでようやっとうちの人も他所様も、納得して看板下ろせるわと言い、維と三矢、カンタを本宅へ呼び集めた。



「松岡組は解散します。届は私が書きますから、維、あんたが署に持って行きなさい」

姐さんの後ろには広い仏間と仏壇があって、やたらと多くの遺影が飾られている。紋付袴と合成された葬儀用の古めかしい写真から、余白がマーカーやシールでデコられたチェキを収めた、およそ遺影らしくもないフォトスタンドまで、そのまま松岡組の歴史とも言える。その前に全員を揃えての宣言だということは、公式なものだと受け止めざるを得ない。それでも三矢は渋い表情で、姐さんを疑うわけじゃないですが、俺は親父の口から聞かないと納得できませんと抵抗した。

「形だけでもそうしたいのは山々なのよ。でもね、あの人が自分から口に出すのを待ってたらもう間に合わないの」

体力残して終わりにするのよ。これから先だって生きていかなきゃなんないし、カタギになったからってすぐに世間様並みに扱ってもらえるわけじゃないんだから。解散するにもしなきゃいけない段取りってものがあるの。ぐずぐずと崩れ落ちるのを待ってはだめ。解散と崩壊では意味が違うのよ。そう言われてもシュンとするのはカンタだけで、三矢は何か言いたげに維の方を覗き込む。『何黙ってんだよ』そう言いたげな視線に押されて、これから親父を説得するってことですかと尋ねると、姐さんは黙って立ち上がり、仏壇の脇に立てかけられた、緞子でできた拵袋(こしらえぶくろ)を抱え上げた。皆びくりとして息を呑む。姐さんは房紐には指先ひとつ触れないが、中身は全員が知っている。ずっと本宅の床の間に飾られていた親父の長ドスだ。……これを出されては異議を唱える舌鋒も鈍る。

忘れようもない、あれはまだ兄貴が逮捕される前のことだった。ついでに言えばあの時にはまだもう二人、親父の下に付き従って身の回りを世話する組員がいたはずだ。
昼寝をしていたはずの親父が突然身を起こして玄関へと走り出て、大声で若衆を呼んだ。寝ぼけていたのは確かだろう。松岡組が縄張りにしている盛場の、とうの昔にカラオケボックスに様変わりしたはずのダンスホールの名前を叫んで、揉め事の加勢にそこへ今すぐ向かうと言い、長ドスを持ってこいと喚き散らした。応じない姐さんを蹴倒す勢いで床の間に飾られていたそれを手にして、たまさか本宅を訪れていた兄貴が止めに入るも鞘を抜いて暴れ、柱にさっくりと刃が喰い込んだ隙にどうにか親父を押さえ込んだという、聞くも恐ろしい顛末があった。それから三日後に組員が一人、さらにその翌々日にもう一人が姿を消した。実子のいない親父からすれば身内同様だと思っていた二人に去られ、それからはこの家で付きっきりの世話をするのは姐さん一人になった。幸運にも現場に居合わせる事はなかった三人だが、本宅の柱に深々と残された刀疵を前に、姐さんから事情を聞いて震えあがったのは、それほど前の話ではない。

「堅真会の荏原さんに電話して相談したのよ。そうしたら、これは引き取ってくれるって」

北陸の雄と呼ばれる堅真会に、その人ありと謳われた荏原会長と親父との間には、兄弟の盃を交わした縁がある。形見という扱いでそこに譲り渡す算段がついたのだ。それは親父が了承済みなのですかと維が問うと、姐さんは黙って首を横に振った。あの人には悪いけれど、事後承諾してもらうしかないわと言って、ちらりと刀疵のついた柱を見られては、誰も止めることができない。
この間は武闘派で鳴らした兄貴が偶然居合わせて事なきを得た。次も柱で済むとは限らない。人に喰い込む、ということだけは避けなければならないのだ。尤も、もうとっくに事は進んでいて、床の間には件の刀によく似た白鞘が鎮座している。中はもちろん模造刀だ。愛蔵品がいきなり無くなれば親父は怒り狂うだろう。だか偽物とすり替えられたことがバレれば、血は見ずともひと騒動起きることは、ここにいる四人全員が予測できるわかりやすい未来だ。



「バレたらどうするんです」
「抜きさえしなきゃわからないわ。突然花瓶に置き換えたらすぐに気づくでしょう」
「抜かなくても立派な凶器になりますよ」
「多少のアザなら覚悟の上です。いきなり血が出るよりマシでしょうが」

ケンケンとやり合う姐さんと、維と三矢の後ろから、カンタの細い声がする。

「あの…… 親父が……」

言い終わるより前に三人が座った後ろの襖が滑り開いた。

もとより小柄な背丈がさらに縮んだように見えるほど、ちんまりと身を屈めた親父が立っている。手にはたった今まで「凶器」だと話していた模造刀が握られていて、咄嗟に腰を上げた維は姐さんを、三矢はカンタを庇うようにして身構える。だが親父の身体から漲るものはなく、畳を摺り足で鳴らして維の前まで来ると、お前ら、黙って陶子の言うことを聞けと言った。
あんた、それ持ってまたどこかへ行く気なのと姐さんが言うと、フン、竹光なんぞに用はないわいと言って、ぽいと畳の上へと放り出して言った。

「わざわざ抜かんでも、重さで分かろうが」

のう、神崎よ。ワシはいよいよ拙いことになってきたわ。見るもの聞くものモヤがかかって、初めのうちは妙な雲が稀に流れてきよると思ったが、今は雲の晴れる時の方が少ない。いずれすっかり覆われてしまって、何が何やら分からないようになるやろう。そうしたら陶子の言うこと聞きい。あれはお前のことも、保科や瀬尾や熊田のことも、ようわかっとる。どう身を振ればいいか、皆姐さんの見立てに任せぇよ。

維に向かってそう言い、それから仏壇に向かって座り直すと、歳の割に張りのある声でご先祖様、と呼びかけた。

「松岡組が解散致しますことをどうかお許しください」

一緒になって頭をたれる姐さんに、つられるように三人も後に続いた。
今日ここでこう宣言した、ということを親父はいつまで覚えていられるのだろう。今見た限りでは弱りはしたものの、松岡組七代目、高木壮太郎が健在であることは間違いない。しかし親父が言うところの雲が、確実にこの一家を覆い隠そうとしている。小さく身を屈めた三人の一番端で、カンタが三矢に小声で話しかけた。

「……俺、神崎さんしか知らないっす」

無理もない、というより知らないのが道理というもので、親父が口に出した保科も瀬尾も熊田も、カンタが事務所に出入りするはるか前にいなくなった組員の名前だ。
さらに神崎は維の苗字ではない。親父の暴走を食い止めた、今は刑務所にいる兄貴の名だ。どれをとっても今この場にいない、姿を消した組員の名ばかりで、もはや誰が誰なのか、今が何年の何月なのかも分からなくなりながらも、姐さんの意を汲み取った親父の、これも器量ということなのだろうかと維は思う。

親父の後ろで小さく肩を震わせている姐さんの、伸ばした腕の先で小さく一つ鈴が鳴り、仏間の四角の隅にまで金色の音が満ちた。

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