佐々木幸弘・19歳・会社員

文字数 3,880文字

夜9時を過ぎたファミリーレストラン「ソレイユ」はディナータイムに一区切りがついて、グループ客が減り空席が目立つ頃合いになっている。店の入り口で店員に人数を尋ねられた景が、待ち合わせなんです。ボックス席がいいんですけどと言うと、お好きな席へどうぞと言われてフロアの一番奥にある4人掛けのシートに陣取った。壁を背に腰掛けて、窓際まで詰めて座る。できればここに座れという維の指示がとりあえず実行できたことに安堵して、ドリンクバーカウンターに向かった。緊張しているのか喉が渇いて、まずオレンジジュースを一息に飲み干し、落ち着いたところでブレンドを満たしたカップを手に席へ戻る。いい大人のテーブルに乗った飲み物がオレンジジュースではあまりに浮かれ過ぎだろう。景なりに考えた小道具が揃い、いよいよ維の言う「くたびれ果てたサラリーマン」を演じる準備が整った。

なるほどこの席はエントランスからの導線の一番奥ではあるが、入り口付近がよく見える。店に入ってくる人物にすぐ気づくことができるから、誰かと待ち合わせするにはいい席だ。維がここを選んだ理由を自分なりに納得しながら、右手にある窓から国道を走る車のライトが流れてゆく様を眺める。街路樹を並べた道路と、植え込みで車道から隔てられた歩道、マンションや飲食店、量販店の看板が無秩序に並ぶ混雑ぶりが、ロードサイドの手本とも思えるありふれた市街地の風景。それでもただの壁よりはよっぽど気が紛れるというものだ。



作り込まれたキャラクターの説明を終えると、三矢は「ムダに長ぇだろ」と苦言を呈し、維はそれを意にも介さず『某映画監督が撮影の際にセットに置かれたタンスの引き出しの中に、フィルムには一コマも写らないにも関わらず物を入れさせた』というエピソードを、もっともらしい顔をして講釈した。詐欺とはつまり芝居であり、舞台である。ひとつの世界観を持ったストーリーでなければならないというのが維の持論らしいが、要するに自分がサラリーマンのふりをして薬物の売人と接触すればいいんですよねと言うと、そうそう、そこまでやってくれたら、あとは俺と維で話をまとめるから安心しろと三矢が請け合った。

待ち合わせるのはこいつだと言って三矢が提示したスマホの画面には、景の知っている顔が映し出されている。一度めは駿河屋の店先で、揚げ物の詰まった袋を提げて一緒に車に積み込んだし、二度目はここで働かせてくれと頼み込んだ。膝の抜けそうなジーパンで走り寄った自分に、ここは会社じゃないと言ったあの運転手だ。そういえばあれっきり、あの人とは顔を合わせていない。俺と三矢は面が割れてるから逃げられる可能性もある。だからお前が誘い出したところを囲い込むんだよと維は言うが、自分が覚えているということは、相手も自分を覚えているかもしれない。目端が利く相手なら異変に気づくだろう。景がそう言うと維は顎で壁のほうを指し「あれ見てみな」と言って笑った。事務所の壁に据え付けになっている鏡を見れば、維と三矢に挟まれるようにスーツを着た自分が映っている。

「『ヤクザ三匹ワルだくみの図』だろ? お前はもう3カ月前の自分とは別物だ。あとは自分で自分を騙せ。そうすりゃ誰もあの時のガキだとは気付かない」

自分は生活に疲れたサラリーマンで、今日も残業を終えてようやく帰宅できた。それでも10時前に自宅近くまで戻って来られたのだから早い方だ。ファミレスで夕食を摂るついでに売人と合流し、自分の稼いだ金を払って粉を買い、それを使えば気分が晴れて、また仕事をする気になる。そうしてまた稼いだ金で粉を買う無限ループの中にいる会社員。終わりのない螺旋を思い描くうちに、モスグリーンのエアフォースジャケットを着た男が、入り口あたりから店内を見回しているのに気づいた。あの時の運転手は記憶の中の印象よりも年嵩に見える。
見た目や印象くらいなら、環境を変える程度のことで人は簡単に変わる。3カ月もあれば充分だ。自分がそうなのだからこの人もきっとそうなのだろう。目印として三矢に持たされた、水色のブックカバーの文庫本を小さく持ち上げて合図を送った。

男は景に「ササキさん?」と声をかける。小さく頷くと、どうも、と言って軽く頭を下げ、ボックスの向かいに座った。景はずり下がった眼鏡のブリッジを指で押し上げて、チラリと窓ガラスに反射した自分の顔を見る。佐々木幸弘19歳会社員。それが維の作り上げたキャラクターだ。



注文を受けた店員が去ると、男は「早速だけど、どのくらい要るの」と尋ねてくる。景は封筒に入れた現金をテーブルに乗せて前へと押し出す。それで買える分だけお願いしますと言うと、中を覗き込んで入った札の枚数を数え始めた。それから手にしたクラッチバックを開き、ひと回り小さいピンクのビニールポーチの中から、じゃあこれねと言って小さな包みを摘み出して見せた。景はその指先にある白い四角を凝視して、本当に簡単に買えるんだなと奇妙な感慨に耽る。出来るだけ視線を動かさないようにしたのは、油断すると男の後ろから静かに近づいてくる人影に気付かれてしまいそうだからだ。せっかくここまで詰めたのに自分の挙動で計画が露見してしまったら、維と三矢に申し訳が立たない。だがもう安心しても良さそうだ。念のためあとわずかの間でも、男の気を自分に引きつけておきたかったのと、本当に自分はもう3カ月前の自分と違って見えるのか知りたくて、景は男に声をかけた。

「……あの、俺のこと覚えてませんか。 以前、会ってるんです。あなたと」

そう言って思わせぶりに眼鏡を外してみせる景の顔を、怪訝な顔で男が凝視したその瞬間、背後から近づいた三矢が素早く男の横に座り、退路を塞ぐ。男は跳ね上がるように腰を浮かせ身を捩り、背もたれ越しにフロアを見渡せば、出入口に立ち塞がっている維に気付いた。視線が合うと小さく手を振って微笑む維の顔を見て、男の動きがぱたりと止まった。

「久しぶりだなぁ、カンタ。コーヒー持ってきてやろうか」

そう言いながら景の隣に維が腰を下ろし、窓際に座ったチンピラ2人を、ヤクザ2人が通路側に座って封じ込める。合皮張りのボックスシートは4人の無頼で隙間なく埋め尽くされた。観念したのか、諦めたように再び座り直した男は向かいに座った景の顔を睨みつける。思い出した様子で「……駿河屋の」と声を出してため息をついた。
維にコーヒー入れてきてと言われて、景がドリンクバーカウンターへと移動すると、後を追うようにやってきた維が、2つでいいよと言って運ぶのを手伝ってくれた。バツの悪そうな顔をした男と、いつになく神妙な顔つきの三矢の前に一つずつカップを置くと、維は席に着かずにそのまま景を連れて駐車場に停めた車に戻る。助手席に座った景に、お疲れさんと言って労った。



「あの人、どうなるんですか」
「どうなると思う?」
「どっかに売り飛ばすとか、落とし前つけさせるとか?」

お前何か勘違いしてる? そこまでやらせる理由はないなと言って維は笑う。

「あれは三矢の弟分でね。ふいっといなくなっちゃったから、ちょっと心配してただけ」
「それで今はクスリの売人ですか」
「そうらしいね。モノもちゃんと持ってたし」
「……放っとくんですか? そういうの」

シートを倒して天井を仰ぎながら、まぁ元気そうでよかったよと言った維が大きく伸びをする。

「弟分のすることに介入できるのは兄分だけだ。俺からは口出しできない。あいつの人生はあいつのもんだしな。でもまあ、組も消えることだし、この際だから奴もちょっと身の振り方を考えたらいいと思ってさ」
「組が消える、って」
「解散する、ってこと」

黙りこくった景に、「薄々気づいてるとは思うけど、ついでにお前にも説明しておくか」と維が切り出した。

「松岡組は解散する。今日までお前に手伝わせたのは引っ越しじゃなくて、つまり事業精算ってことだ。詰所をひとつふたつと引き払って、最後に2つ残った事務所、それが港湾組合の事務所と、俺らがいつもいる詰所。これを手放して関係各位に通達したらそれでおしまい。終わりだよ」
「終わりって、……維さんはどうするんですか」
「さあねぇ。どうしたもんかな」
「あの、……俺」
「お前はママに頭下げに行くんだろ? お勉強もしないダメな息子でごめんなさいって」

いいねえ。叱ってくれる相手がいるうちが花だぞ。そう言ってシートを起こし、維がダッシュボードに置かれていたL字型を咥えてステロイド剤を吸い込む。10秒の沈黙を破ったのはカンタを連れた三矢がサイドガラスを指で叩く音だった。乗り込んできた二人を後部座席に収めて、どんな感じ?と維が声をかけた。

「銀天街の柳小路にあるカワダっていう雀荘。そこの『シンジ』って奴だとさ」
「カンタ、案内して。それともお前自分で運転するか?」

維の問いかけに案外と素直に応じたカンタが運転席に座る。チンピラ二人を前に、ヤクザ二人を後部に乗せたセダンが、ゆっくりとソレイユの駐車場を滑り出て行く。えっと、これで終わりじゃないんですかと尋ねる景に、ここまでで半分だなと維が答える。
これ持ったままサヨウナラ、ってわけに行かないでしょ。要らん追手を掛けられたら面倒だからね。うちの若いもんがご厄介おかけしました、って仁義は切っておかないと。そう言った三矢の手には、ピンクのポーチが収まっている。カンタの「商品」と「幾らかの売上」が入ったそれを額の上に掲げた三矢が、今検問に引っ掛かったら俺たち4人一発アウトだなぁ、と言って笑った。

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