松・躑躅・刀

文字数 4,001文字

東海北陸自動車道は太平洋側から山脈を回り込み、日本海を目指して北へと走る。
出発直後に寝落ちをかまし、郡上を過ぎたあたりでようやく目を覚ました景に、維はパーキングでの休憩の後、スーツに着替えて運転を交代するように言いつけた。日本海にイルカの背鰭みたいに突き出した半島の、その付け根辺り一帯は親父と五分の兄弟が総領を務める堅真会荏原会長のお膝元だ。今は辺りを見回しても樹木ばかりが生い茂る山中を走るだけだが、どこに誰の目があるか分からない以上、備えは早くしておく方がいい。

移動のルートを決めるにあたり、まずは景を送り届ける算段でいた維に、どうしても自分も一緒に行きたいと言ったのは景の方からで、お前堅真会に潜り込んで部屋住みなんぞやろうと思ってないだろうなと維が釘を刺すと、景は心外とばかりに「俺は前川先生と三矢さんから維さんを預かってるんです」と反論する。どうやら是が非でも番犬としての任務を遂行するつもりらしい。行程に迷っていた維もそれで連れて行く踏ん切りがついた。

歴史の古さは幕末からと言われる松岡組にさほど引けを取らない堅真会だが、都市部に割拠している松岡組と違い、土木建築に始まり不動産まで扱うような稼業は地方豪族さながらで、町議会はもとより市議会県議会にも太いパイプが食い込んでいると聞くから恐れ入る。一度も顔を合わせたことはなくとも噂に聞いた叔父貴が維の前に大きく聳え、博徒として最後の最後でお目通りの機会が訪れたことに、好奇心よりも畏怖が先に立つ。何より親父の名代として、いくらかでも面子を立てたい維としては、たとえチンピラでも副使と正使とを揃えることで、一応の体裁だけは整えた気分になれる。そう考えたら景を連れて行く方が正解だと思えた。

若衆として最低限の礼節を道中で叩き込み、組のことについて尋ねられたら『若輩ですので存じません』とだけ答えておけと言い含めると、景は神妙な顔つきで承諾し、維さんのことはアニキって呼んだ方がいいですかと尋ねてくる。景を連れて公式の場に出ることになるとは思ってもみなかった維だが、確かに景の言う通り、名前で兄貴分に声をかけるというのもしっくりこない気もしながら、今日を限りの博徒渡世に今さら兄貴も何もあるかと思う。好きなようにしろと言うと、景は面白がっているのか『わかりましたアニキ』と言って笑っている。

「そんなにヤクザやりたいのか」
「この間『佐々木幸弘』になった、あれと同じことじゃないですか。俺は今日一日限りの松岡組構成員で、アニキの運転手をしている駆け出しです」

三矢とカンタを見送って、たった一匹残った最後の組員が自分になるとは、薄々予感はしていたものの、想像以上の薄ら寒い景色に暗然とする。そうなるとたとえガキでも景一人横にいるのといないとでは心持ちが違う気がして、自分の肝の小ささに呆れて維は思わず苦笑いする。
素人の、それも高校生活をドロップアウトしたガキ一匹に支えられてようやく心落ち着くような、その程度の渡世しか知らずに来たことが幸運と言えば幸運で、身の不幸と言えば不幸だと言える。渡世に殉じて仏壇の過去帳に名前を残して消えることと、吐いた血反吐の代わりに泥水を啜るような思いで世間に戻ること、どちらが幸せなのかがもう維には解らない。結局最後に残ったのは自分の臆病さだけだったと思えば、苦笑いの頬がさらにもう少し吊り上がる。景の運転する車の座席で、維はやけに広い将棋盤に歩兵が二枚並んでいる絵面を思い浮かべた。



カーナビが案内したその屋敷の横にある、駐車場に入る前から待ち構えていた若衆に誘導され、ルームミラーで身形を確認する暇もなく玄関へと案内された。その屋敷は門構えも堂々とした日本家屋で、玄関の松が寸分の狂いもなく、植木職人の狙い通りと言わんばかりの枝を伸ばし常盤の緑を茂らせている。門柱に堅真会の文字はないものの、墨文字も黒々と「荏原」とだけ記された表札がむしろ重々しい。ずらりと塀に並んだ防犯カメラの大仰さは、その建物が目的地であることを強烈に印象付けている。どこの寺かと思うような唐破風の軒下で、俺が合図するまで頭上げるなよと言いつけた通りに、景は錦糸銀糸で織り上げられた拵袋を抱き抱えたまま90度に腰を折り、自分の履いた靴の爪先をひたすら見つめている。耳だけはこっちに集中してるんだろう気配を感じながら、維は玄関先に出てきて応接する男性とのやり取りに言葉を選んだ。

21世紀になってはや二十年あまりが過ぎ、さすがに軒先で仁義を切るようなことは起きないが、何事も最初が肝心なのはヤクザもカタギも同じ事だ。維は礼を尽くしながらも卑屈さを感じさせず、自分を使者として送り出した親父の意向を伝えることに砕心した。遠路ご苦労様ですどうぞお上がりくださいと言われ、下足番のいるような場所に初めて上がる景は自分で靴を直そうとして、そのままにしとけと小声で維に窘められる。長い廊下の先にある広間に通されて、そこから先はかねて教えられた通り、景は維の左後ろに、座布団を固辞して正座した。奥から出てきたのは壮年を過ぎたくらいの男で、大沢と申しますと挨拶をして慇懃に名刺を差し出してくる。箔押しされた代紋も鮮やかな一枚をおし頂いて、維が今度こそ本物の名刺を渡すのを、景は左後ろからそれとなく確認した。

「会長から話伺っております。しばらくこちらでお待ちいただけますか」

そう言って男が部屋を出ると、維と景は取り残されてすることもなく、雪見障子のガラス越しに見える庭を眺めるくらいのことしかできない。
塀の外からも見えるような大きな松の枝振りは整えられているものの、池の周囲に配置された低木は剪定もされていない様子で思い思いに枝を伸ばしはじめている。見たことのない珍しい灌木をよく見れば、どうやら枯れてしまった躑躅の枝に野生の蔓草が這い上がって、葉を茂らせているようだ。先に躑躅が枯れたのか、蔓草に覆われ陽光が当たらずに枯れてしまったのか。いずれにせよこうなってしまった以上、根こそぎ植え替えるしかないのだろう。

庭や軒先を掃くくらいのことはできても、その先が続かず整わないでいるこの屋敷が、維の目には急に色褪せて映る。足の先をモゾモゾと動かしながら、景が「何だか遅いですね」と小声で訴えた。座布団を使わずにいるのだから足が痺れてくるのはまず景の方だ。若衆が正座で控えるときは、どちらか片足の爪先は寝かせずに立てておくものだと保科から教わったことを思い出すが、これも生活から和室の消えた今、いずれ消え去る作法だろう。
雫を溜めた湯呑みの蓋を慎重にずらしながら、ひと口啜る茶はすっかり生ぬるくなっている。確かに景の言う通り待たされすぎだと思ううちに、すたすたと廊下を歩く音がして、ようやく大沢が戻ってきた。



「大変お待たせして申し訳ありません。……実は会長は先日まで入院しておりまして。今は離れで療養しているんですが、どうにも体調がすぐれませんで」

動脈硬化症で闘病中だということは親父と姐さんから聞いて知っていたが、手術をする程進行しているとは知らされていなかった。尤も親父よりも年上だという話だから、持病のひとつあっても何も不思議はない。その存在は知っていても、結局最後まで顔を合わせることは叶わなかった叔父貴だったと、自分との縁の薄さを思って維はため息を噛み殺す。

「お加減よろしくない様でしたら、どうぞご無理なさいませんように。件の刀を持参しております。代わりにお受け取り願えませんか」

維の視線を受けて景が横に置いた拵え袋を抱え上げて維に渡す。確かにお預かりしましたと言って大沢が恭しく刀を受け取るのを見て、やっとのことで正座から解放される景としては安堵の息をつく。暇乞いをする維に大沢が、急ぎ戻られるのですかと声をかけた。特別急ぐ用事はないが、景を家まで送り届けてやらなければならない。こいつの縁者の元へ行くつもりです。そう言って景の方へ顔を向けると、大沢は「お若い方、急がれますか」と景に尋ねた。いえ、あの、自分はアニキに従うだけですからと景が言えば、大沢は声を落として維に持ちかけた。

「今夜、少し寄って行かれませんか。会長が盆の手配をする様にと」



盆は博徒社会の集金システムだ。慶弔の際はもちろん、古くは寺社の修繕や橋の掛け替え等、まとまった金が必要になれば、博徒は昔から大きな賭場を設け、そのテラ銭を元手にした。仲間が死ねばその家族たちに見舞金を渡すための盆を敷き、所帯を持つ者がいれば祝儀博奕をしてテラ銭を新郎へと渡した。博徒社会を誰かが去るとなれば、仲間内で集まって博奕を打ち、上がりを餞別として持たせることが慣例とされており、その古い習わしを守るのも今や堅真会だけだ。もし兄さんのところで盆の話があったら、お前に任せるから代打ちを務めておくれ。姐さんにそう言われて送り出された時には、今時そんなことがあるわけもないとタカを括っていた維だったが、あの人の代打ちが務まるのは、もうあなたしかいないのよと言った姐さんの声を思い出せば、今更ながらその読みの深さに舌を巻くしかない。

「こちらでは今も盆が立つことがあるんですか」
「西も東も廃れてしまったようですが、ここには少数ながら手本引きの作法を心得た者がいます。高木組長と面識のある者も多いですから、皆に声をかけました。荏原会長の肝入りで立てる盆は久しぶりです。どうかおいでくださいませんか」
「もしものときは代打ちを務めるように言われて来ました。親父の名代としてお許しいただけるなら伺います」
「勿論それで構いません。会長も喜んでくださるでしょう」

盆茣蓙の前に座ったのは、いつが最後だっただろうかと思い返す。夢の中で自分と並んで胡座をかいていた保科の姿が瞼の裏で蘇り、維はその顎に浮いているはずの窪みを探した。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み