第37話 人殺し④
文字数 4,162文字
訳も分からないまま連れてこられたのはいつもの劇場だった。こんな事をしている場合じゃないのに逃げたら通報すると言われ、どうする事もできなかった。
受付に座っていた老人は、僕らを見て僅かに視線を止めたが、千歳が言葉を交わすと、困ったような顔をしながらチケットを切ってくれた。
上映室の中に客の姿は無く、いつもの席に座った千歳の隣席に、仕方がないから腰を下ろすと上映開始を知らせるブザーが響いた。暗幕が開いてスクリーンに映像が浮かぶ。
「どこに行こうとしてたの?言っとくけど、私が来なかったら通報しなくても今頃佳都は捕まってたんだからね」
呆れたように言われて、躊躇いながら左手を差し出した。照明の落された上映室の中で指環の放つ微かな青い光は眩く見える。けれど、その光は揺らいでいて今にも消えてしまいそうだった。
「これが灯った。だから、クスィは壊されてしまったと思ったけどそうじゃなかったんだ。きっとまだ」
「だから、助けに行こうとしてたの?」
千歳がクスィの事を何処まで知っているかは分からなかったけれど、頷いて見せると千歳は顔をしかめた。
「何があったのかは特安の人にある程度教えてもらった……クスィは統治人形で世界を支配しようとしてたって、佳都は利用されていたのかもしれないんだよ?」
「僕にはクスィがそんな人形だったとは思えない。僕が連れ出さなかったらクスィは三号墳で壊れていた。再起動にだって反対していたし、千歳だって守ってくれた。あの後、僕は拒んだけど、クスィは自分を壊すようにって言ったんだ。特安と戦った時だって勝ててたのに僕の為に負けた。本当にクスィが僕を利用していたなら、他に方法はいくらでもあった筈だ」
僕の言葉を聞いた千歳は少し考えるような顔をした。
「それは……そうかもしれない」
「それなら」
「でも、もしクスィが佳都を騙してなかったとして、行って何ができるの?きっとまた捕まるだけだよ。そしたらもうこんな風に普通の生活に戻してもらえないかもしれない」
「……そうだね……でも僕には、普通に暮らす資格なんてなかったから」
「そんな事あるわけがない」
強く言い切ってくれたことが嬉しくて、同時にすごく辛かった。
「あったんだよ……」
クスィに渡されたアクセサリーをポケットの中で握りしめる。言葉にするだけの勇気が欲しかった。それで千歳が離れてしまうのだとしても。それこそが正しい事だから……。
「僕は……人殺しだったんだ」
「ひと、ごろし?」
冗談を聞かされたような顔をした千歳に僕はあの日の事を全て話した。
「僕には……、千歳がそばにいてくれるような価値はなかったんだ」
「そう……そうだったんだ」
話している間ずっと何も言わなかった千歳が漏らしたその茫然とした声に寂しさを覚える。けれどそれは当然で、そんなふうに感じる資格は僕には無くて、だから立ち上がろうとした。
「でも、でもさ……私の知ってる佳都は悪い人間じゃないよ。それに記憶をなくしてしまうほど苦しんだって事でしょう?」
僕の腕を掴んで引き留めた千歳は、何故だかそんな事を言ってくれた。でも嘘を吐く訳にはいかないから首を横に振った。
「違うよ。僕は殺したかったんだ。あの時の僕は、あいつが動けない事を知っていて、それでも殺した。殺したかったから殺したんだ。忘れてしまったのはきっと、殺したのに何も解決しなかったから。殺していないから、母さんが救えなかったんだと思い込んだんだ」
「そうだったとしても」
千歳は少しだけ声を荒げた。千歳の顔は薄明りの中で悲し気だった。
「佳都は悪い人間じゃない」
「そんなのは嘘だよ。千歳がそう思いたいだけで……」
「嘘じゃない。だって佳都は、本当はそんな事したくなかった筈だから」
「違う。僕は殺したかったんだ。だからこの手で」
あの時、握っていた包丁の感覚を思い出して手が震えた。
「じゃあ佳都はなんでそれを打ち明けて、私から離れようとしたの?自分のした事が間違っていると、罪だと思っているからでしょう?」
「そんな当たり前な事……」
「それを当たり前だと思えるなら違うんだよ。その選択肢が当然のように有る人とは違う。本当にそうしたいと思う人とも違う。それを嫌だと感じているし、駄目だと分かっている。だからきっとそれを引き摺って正しい道を選んでいける。足りないかもしれないけど私はそばにいるから」
向けられた強い眼差しに戸惑う。
「……そんなのおかしいよ。僕は人殺しだったのに、それでもそばにいてくれるなんて……」
「もし佳都の事を良く知らなかったらこんなふうに思わなかったかもしれない。でも四年も一緒にいたから……分かるでしょう?」
「分からない。分からないよ。なんで千歳は、いつもそんなふうに僕のそばにいてくれるんだ。手を差し伸べてくれた時からずっとだ。それが憐れみならもういいんだ。もういいんだよ」
僕には何もない。千歳に相応しくない。僕がクラスでやっていけてるのだって千歳のおかげだ。話しかけてもらっても上手く返せなかったから、すぐ誰にも相手にされなくなったのに千歳だけは離れていかなかった。ずっと助けられてきた。だからこそ、もう巻き込みたくなかった。千歳にはもっと良い選択肢があって、僕なんか足元にも及ばない相応しい誰かがいる筈だった。
「そうかもね……でも、無理だよ。もうそんな選択肢はないんだ。正直に言えばね。佳都に手を差し伸べたのは初めて見た時。小柴の事を思い出したからだった。捨てられてたあの子はダンボールの中で雨に打たれてた。私に気づいているのに、吠える事もなく、ただじっと耐えてるみたいだった。何もしなければ、そのまま死んでしまうような気がして、だから放っておけなかった。それが憐れみだと言われればその通りかもしれない。だけど、今は一緒に過ごした日々が積み重なってる。佳都が何に喜んで何に悲しむのか知ってる。悪いところも良いところも知ってる。佳都は誰かを傷付ける事を恐れる優しい人間だよ。だから私は今もそばにいたいって思うの。他の誰かじゃなくて佳都のそばに……」
千歳がそう見てくれているだけで、そんな事は無かった。僕はただ臆病で敵を作りたくなくて周りから距離を取っていただけだ。本当に優しいのは千歳だ。だから僕なんかに手を差し伸べてくれて、ずっと助けてくれていた。
「そんなんじゃ千歳は不幸になるよ」
「かもね」
溜息をつくように笑った千歳が僕を引き寄せた。その身体は柔らかくて、温かくて、そして千歳の匂いがした。
「私じゃ駄目かな?」
千歳が泣いているのが解った。駄目な訳が無かった。こんな僕でも良いと言ってくれる事に、言葉にできない程の気持ちが溢れる。けれど頷く事はできなくて、だからそっとその肩を押し返した。
「もしも千歳とクスィが逆だったなら、僕は千歳を助けにいく。千歳が僕に言ってくれたのと同じように、他の選択肢なんかないんだ。今、クスィを助けに行かなかったら、僕はずっと後悔する。千歳のそばにいる事も、きっと許せなくなってしまう。」
「そっか……そうだね……。問題をすり替えようとしちゃった。ごめんね」
初めて見る千歳の涙に戸惑いながら、それを拭おうと手を伸ばすと、僕の指が触れる前に千歳は自分で流れている涙を拭った。
「これは、嘘泣きだよ」
無理やり作られた筈の笑みに罪悪感が湧く。それでも千歳の望んでくれているだろう事を僕は叶える事ができない。
「ごめん」
僕の謝罪に千歳は首を横に振った。
「非常口から出れば、たぶん少しの間は監視の目を避けられる。クスィは塔の中に居るよ。お父さんの端末で搬入される計画を見たんだ。それから、あのアクセサリーは置いていって」
ポケットの中で握りしめているこれを、僕が持っていると知っている事に疑問を覚えながら取り出す。
「それはね。位置情報を発信してるんだ。クスィが本当に安全か不安だったから念の為に持たせたんだけど。それが今は佳都の位置を教えてる。だから私が佳都を追いかけてこられたのは偶然じゃないし、今それを持っていったら監視の目だって欺けなくなる」
「なんで……」
「私がそれの情報を特安に流したから。私は佳都を裏切っていたの……」
それが事実だとしたら、最後の索墳で待ち伏せされていたのはこれの所為だった。驚いて見つめていたアクセサリーの紐を千歳が掴み上げると中央の石がスクリーンの光を反射して輝いた。
「そんな私を信じられる?今だって佳都を罠に嵌めようとしているかもしれないよ」
そう言った千歳の目をまっすぐに見つめる。もしも、クスィを助けられるかもしれないと思ってる今みたいな状況になければ、それを許せなかったかもしれない。でも、千歳が僕の為にそうしたのだという事は痛いほどわかる。逆の立場なら僕だってそうした。
「信じるよ。だって千歳はいつも僕を助けてくれたから」
そう言うと千歳は力無く笑った。
「馬鹿だね佳都は……」
「知ってる」
答えながら笑って見せると千歳は鞄から回転式弾倉の銃を取り出して、僕に差し出した。
「持ってたんだ」
クスィが千歳に渡したその拳銃の事を僕は忘れかけていた。受け取った手に冷たい金属の重み。
「クスィが私の鞄に入れていたみたい。だからやっぱりクスィは佳都を騙していなかったのかもしれない。それが分からなかったから特安には渡さなかったんだ。佳都たちがいる場所は分かっていてこの銃でクスィを壊す事だってできたのに、私は自分の手を汚さずに解決しようとした。佳都には偉そうな事を言ったのにね。だからもう私には何が正しいかを決める資格はない。でも、これを渡すのは戦いに使って欲しいからじゃないよ」
回転弾倉を開けば三発しか残っていない銃弾は、クスィが居ない今、補充する事もできないし、どちらにしてもあの男が出てきたら構える前に無力化されてしまうだろう。だから千歳が、何の為にこの銃を僕に渡したのかは分かっていた。
「もしもクスィの元にたどり着けても、クスィが佳都を騙していたら、それで壊して……何が正しいのかもう分からないけど。私も佳都の事を信じてる」
真剣な表情で付け加えられた言葉には頷く事しかできなかった。何か口にすればきっと泣いてしまうから、だからそれを振り切るように立ち上がった。
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