消灯時間を
過ぎ、誰も居なくなった暗い病室。視線で天井にある
斑模様を
追う。耳の奥に今も響いているのは「ありがとう」という幻聴。
気が付いたら
此処にいて、体中にある痛みと、自分の腕から伸びた
点滴用の
管を見て、自分が死ななかった事を知った。
白衣を着たお医者さんや、制服姿の看護師さんが来て「大丈夫だよ」とか「安心して」とかそんな事を
優し気に言いながら笑いかけてくれたけど、それにどんな顔をしたらいいか分からなくて、ただ何となく
頷いて過ごした。
黒い服を着た女が
訪れたのは、部屋に時計がないから正確には分からないけれど、窓の外の景色からたぶん夕方の事だったと思う。
女は、椅子に座って僕と視線の高さを合わせた後で、まず
名刺を見せてから、質問を始めた。
名刺に書かれた
肩書と質問の内容から僕は女がどういう
存在であるかを知って、今回の事が
疑われているのだと
悟った。だからこの部屋には、新しい父さんも弟も、あの人も来ないのだ……。
あの人が今回の事を事故だったと証言していると知って、僕もそれを
肯定した。けれど、女がそれを信じてくれることは無かった。
もしも信じてくれていたなら、去り際に、僕の未来、その為の力に成りたい。だから本当の事を教えて欲しいとは言わなかっただろう。
何か思い出したらいつでも連絡して欲しいと言いながら、女が置いていった
名刺は今もベッド横の机の上にある。
女は質問の大半をはぐらかした僕に怒る事もせず、ずっと優しい顔をしていた。お医者さんや、看護師さんが僕に向けたのと同じ顔。いつかのあの人が僕に向けてくれたのと同じ顔。
「……未来」
薄闇の中で女が言った言葉を口にしてみると、それは酷く
滑稽に響いた。
それは少なくとも僕には存在しないものだ。最初からそんなものは僕には無く、それを与えられるべき人達はきっと別にいる。
弟にとってあの人は間違いなく優しい母親になる。弟の父親は僕とは他人で、あの人は手に入れた生活がまた壊れてしまうんじゃないかと恐ろしくて仕方がなかっただけだ。
きっと幸せの
総量は決まっていて誰かが
諦めないと誰も幸せにはなれない。それならそれは初めから未来の無い僕の役目だった。僕が死んでいれば、みんな幸せになれていた。
もしも崖下に生えていた木が僕を受け止めなかったら、もしも左眼を
潰した枝が脳を
貫いていてくれたら、こんな事にはなっていなかった。
僕は死んでいるべきだった。死んでいなければならなかった。けれど
此処で目を覚ました時。
咄嗟に良かったと思ってしまった。生きているという
落胆が頭の中を埋め尽くす前に、確かにそう思ってしまった。
なんて
浅ましいのだろう。あの人から幸せを奪った僕に、そんな事を思う資格なんてないのに……。
だからせめて早く手を打たなければならなかった。女が
真実を
暴いてしまう前に、あの人が
嘘を
吐き続けていられる間に、全てを
葬って、あの人の望みを叶える。その為に机の上に置いてあった人形を手に取った。
転落した時にポケットに入れていたヒーローの人形。唯一残った僕の持ち物。これで
枝がしてくれなかった事をする。ヒーローが高く
掲げた
剣はそれをするのに十分なものに思える。これを無くなった左目に突き立てて脳まで届かせる事が出来たなら、きっと全てが上手くいく……。
そう思っているのに人形の
掲げる
剣を包帯で
覆われた左目にあてがった所で手は止まってしまった。
何故だか
溢れ始めた涙が落ちてシーツを
濡らしていく。僕が死ねば皆幸せになれると分かっているのに、僕は死ななきゃならないのに、この腕を止めてしまう感情が消えてくれない。
押し殺せなくなった
嗚咽が室内に
響く。助けて欲しかった。でもそんなものが
訪れない事は知っていて、だから
震える手に力を込めた。
ヒーローが僕を救って、あの人を、皆を幸せにしてくれる。何も恐れる必要はないのだと言い聞かせる。
そうだ。そうしてくれる
筈だ。ヒーローは人々を救う為に戦い。そして
必ず勝つのだから。
決意を
固めようやく剣を突き刺そうとした
瞬間、引き戸の車輪が転がる音を聞いた。驚いて手放してしまった人形がベッドの下に消える。
自分がしようとしていた事を
咎められたくなくて、眠っているふりをする
為に身を
縮こまらせ、
嗚咽が
漏れないように口を
固く
結んだ。
薄く開けた目を動かすと
滲んだ視界の中には想像と違う小さな人影が
映っていて、それは軽い足音と共に近くまでやって来るとしゃがみこんで消えた。
一瞬後、立ち上がった影が僕を
覗き込んだからその正体が十歳ぐらいの女の子だったと分かった。持ち上げられた手が
此方に何かを差し出している。
「落としたよ?」
響いたのは
澄んだ声。深夜の病室に似つかわしくないその姿に恐ろしさは消えていて、でも
嗚咽が
漏れそうだったからお礼も言う事が出来ず。ただ
頷いて、差し出された人形を受け取った。
「痛いの?」
隠そうとしたのに、上手くいかなかったのだろう。女の子の顔が心配そうに
傾げられる。
「……そんな、こと、無いよ」
辛うじて吐き出した言葉はやはり
嗚咽が交じっていて、取り
繕う為の笑顔を見せる事もできなかった。
だから顔を
背けると、動作したベッドが上体を持ち上げ始め、
僅かに
軋んだ。その音に視線を向けるとベッドに
這い上がった女の子がこちらに向けて両手を伸ばしていて、そのまま僕の頭を
抱いた。
押し当てられた
薄い胸から規則正しい
鼓動の音が伝わる。
「大丈夫だよ。おじいちゃんがきっとなおしてくれるから」
小さな手が僕の頭を優しく
撫でる。
「死んじゃったお父さんとお母さんはなおせなかったけど、あなたは生きてるから、大丈夫」
優しい声と
温もりに、
堪えていた涙と
嗚咽が
溢れ、けれどそれが女の子の服を汚してしまっている事に気付いて慌てて身体を離すと、女の子は不安そうな顔をした。
「嫌だった?私が泣いてたとき、お母さんはよくこうしてくれたから」
「君の服が、汚れちゃうから」
「そんな事気にしないで、泣きたい時は思いっきり泣いた方がいいって、お母さんが言ってた」
そう言って女の子は表情を和らげた。
「そう、だね。でも、僕はそういうわけにもいかないんだ」
涙を拭いながらそう言うと、女の子は良く分からないという顔をした。
「どうして?」
「……君よりも、大きいからね」
自分は生きていちゃいけない存在で、そんな資格が無いからだとは言えず、代わりになんとなくもっともらしい言い
訳を口にする。
「私よりも大きいと泣いちゃいけないの?」
「僕の、場合はね。でも大丈夫。君のおかげで涙は止まったから。ありがとう」
笑みを作る事はできなかったけど、涙を止める事はできた。包帯で
覆われていない僕の右目をしっかりと確認してから「なら、良かった」と女の子は
微笑んだ。
鼻をすすりながら、ずっと気になっていた事を聞く。
「君はどうしてこんな時間に此処にいるの?」
「あー、それはね。おじいちゃんに連れられて、
しゅっちょう
、した時はたまにこうやって抜け出して散歩してるんだけど、秘密なの。怒られちゃうから、だから、誰にも言わないでね」
女の子のおじいちゃんはお医者さんか何かなのだろうか?いまいち事情は分からなかったけれど、不安そうな顔に真剣な表情で
頷くと、笑顔を見せた女の子が僕の小指に自分の小指を
絡めた。
「約束」
そう言いながら大きく
振られた指が離され、それから女の子はベッドから
跳ねるように降りると窓まで
駆けていって
閉められていたカーテンを開け放った。
一気に開かれたそこには今まで見た事も無い
程の
光点。
「
綺麗でしょ?この病院からは星が良く見える事にさっき気付いたんだ」
振り返った女の子が星空を背景にして、
自慢げに胸を張った。
揺れた髪が
僅かな光を反射して
煌めき、体の動きに
追随して
翻った服が星明りを
透過してまるで
羽衣のように見える。
「あれ?もしかして知ってた?」
その姿に
見惚れ、言葉を返せなかった僕を見て女の子はガッカリしたような顔をした。
「いや、初めて知ったよ。
綺麗だ。うん。本当に……少し驚いてしまって」
取り
繕うように言った答えを聞いて、女の子は笑った。
「やっと少し笑ってくれた。そのほうがいい」
そう言われて、自分がいま
僅かでも笑えていることを知った。けれど、笑顔で
駆け寄ってくる女の子を見ながら一度は止まった
筈の涙がまた
溢れてくるのを
抑えることができなかった。
「やっぱりどこか痛いの?」
女の子の表情はころころと変わる。
「……違うよ。これは嬉しくて泣いてるんだ。
綺麗な星空を君が見せてくれたから」
咄嗟にそう言ったけれど、星空では無く彼女を見て泣いていた。その
温もりと
優しさが、星よりもずっと
輝いて見えた。
「そっか、じゃあ良い涙だね。あの星とおんなじ
綺麗な涙」
嬉しそうにそう言うと女の子は再びベッドに上ってきた。追いやられるように横にずれた僕の隣に女の子が座る。その小さな肩が触れるのを感じながら一緒に星を
眺め、話をした。
◆◆◆
目を開けて、見ていた記憶を
懐かしく思った。あの頃よりもずっと大きくなった
紫依華はまだ俺を
抱いていて、その寝息を聞いて身を起こすのを
諦める。
伝わる
温もり。あの日、
幻かと思った
紫依華は確かに存在していて、その祖父である博士に出会った。
人形義躯の実験へ協力する見返りに博士はあれを本当に事故にしてくれて、記録上死んだ事になった俺に自らの養子という新しい身分もくれた。
得しかない取引。
関係上、
紫依華は
姪という事になったけれど「
兄さんって呼んでもいい?」と聞かれてそれを受け入れた。
そもそも
紫依華は、僕が家族になると知っていて、あの日どんな人かを確かめに来たらしい。
初めて会った時からどこか
浮世離れしているように感じた
紫依華は本当にそういう存在で、生まれ持った高すぎる
知性ゆえの
孤独を
抱えていた。
交通事故で両親を失ってからその
傾向は加速したと博士は
憂いていた。きっと両親の存在が
紫依華と社会を
繋ぐ
楔だったのだろう。
紫依華を引き取った博士は同世代の子達と上手く
馴染む事が出来ないそんな
紫依華の事を
案じていて、だから俺の事を知った時、研究の為だけではなく俺が
紫依華の力になってくれればとも思ったらしい。その期待に今
応えられているかどうかは分からない。
博士が予想していたように優れた
人形技術の研究者になった
紫依華と、博士みたいに議論を
交わす事は俺にはできないし、初めて会った時から支えてもらってばかりな気がする。
まず命を助けられて、
久那戸という名前も
貰った。あの人がくれた名前を持っていてはいけないと思って、けれど博士はネーミングセンスがないからと名付けてくれなかったから……。
眉間にしわを寄せるぐらい真剣に考えてから
提案された
久那戸という名前を聞いて、
紫依華のネーミングセンスは博士
譲りのものだと思ったけれど、その由来が
災いを
退ける神様の名前だと博士に教えてもらった時に、
紫依華が見せなかった悲しみに
触れたような気がした。
だからそれを知った時、
憧れたヒーローのような存在になるのと同時に、なにより
紫依華から
災いを
払いのける存在になろうと
誓ったのだ。どちらもとても実現できているとは言えないけれど……。
情けなさから
溜息をつきながら視線を動かすと、閉じられたカーテンの
隙間から薄明かりが差し込んでいるのに気付いて、思い出に
浸るのを止めた。
けれど、
紫依華はまだ起きそうになかったから、自然に目を覚ますまでじっとしている事にした。