第38話 婚姻①
文字数 4,838文字
目の前に積 まれた紙の束 が山を作っている。電子化すれば端末 一つで事足りる時代 になっても、ある種 の手続 きには未 だに紙が使われている。
一つ取って並んでいる文字の量に辟易 し、読まずに捲 って現 れた署名欄 に名前を書いた。
手を乗せると生体情報 が転写 され、紙が薄紫色 に変わる。義肢 でもこれができるのは生体情報 すら再現しているからだそうだ。
「ちゃんと読んでる?」
部屋の中を横切 っていく紫依華 が、此方 を見もせずに聞いた。
「読んでるよ」
署名 し終わった紙の束 を右側に積 んで、別の束 を取りながら答える。
「嘘ばっかり」
呆 れたような声が返ってくるが、どうせ読んでも良く分からないし、そもそも意味が無い。
書いてある事は全部、今度行われる施術 に対 しての説明だが、どれも要約 すれば悪くすると命を落としますと書いてあって、ただその旨 に同意しなければ結局命を落とすのだ。どんな解説がなされていても最終的に署名 するのなら読んでも読まなくても一緒で、ましてこれは紫依華 が決めた施術 の同意書で、施術 するのも紫依華 だった。だから何も問題はない。
新しい束 を取り署名 と生体認証 を行う。紙の山が低くなる。そしてまた手を伸ばす。掴 んだ束 は今迄 にない程 薄く、それを不思議に思ったが、手は止まる事なく紙をめくった。
現 れた書名欄 に違和感。幾 つもの欄 があって施術者 である紫依華 の名前はともかく何故か住所 まで書いてある。一瞬迷ってから隣の空欄 に同じように自分の名前と住所 を書こうとして手が止まった。署名欄 の上に施術説明書 にはあり得ない文字が並んでいる。一度顔を上げ目頭 をほぐし、もう一度目を移 す。見直しても同じ文字が並んでいた。
「あー」
何と言ったらいいか分からないまま口から洩 れた声は、言葉を作りはしなかった。間違って婚姻 届 けが混ざってたよ。脳裏 に浮かんだ言葉は奇妙 で、胡散臭 い語学教本 の例文みたいだと思った。
「何か言った?」
洩 らしてしまった声を聞いて戻ってきた紫依華 が、言うべき言葉を決める前に俺の前に立った。
「いや……なんていうか、間違って、違う書類が混ざってたよ」
右手で婚姻届 けを押し出すと紫依華 の視線がそれに向けられた。
「ああ、気付いちゃったか、そのまま署名 してくれるかと思ったんだけどな」
驚くでもなく平然 と紫依華 は言った。意味が分からない。
「いや、そんな事をしたら、俺が……」
「俺が?」
口籠 った俺に首を傾 げた紫依華 が続きを促 す。
「夫になってしまう」
「私と兄 さんの婚姻届 けだもの、当たり前でしょう?」
混乱 したまま告 げると、紫依華 は何を言っているの?というような顔をした。
「……なんで?」
思考が追いつかないまま、そう問いかける。
「なんで?って、結婚できるようになったのに、いつまでたっても兄 さんが何も言ってこないから私から動いてみたの。ほら、約束したでしょ。大きくなったら結婚してあげるねって、あの時、兄 さん喜んでた」
一瞬で記憶が呼び起される。確かにそう言われて、嬉しいよと返した。けれどそんなものは幼 さ故 の戯 れだと思っていた。いつかお父さんと結婚してあげるみたいな、そんな言葉。
「ああ大丈夫。書類上は叔父 と姪 だけど、血が繋がっていない私達は普通に結婚できるよ」
「いや、そういうことじゃなくて……」
見当違 いの言葉と共に向けられた微笑 み。それに戸惑 いながらそう言うと、紫依華 の表情が曇った。
「もしかして兄 さんは私の事、嫌い?」
「そんな事あるわけがない」
不安そうな言葉を即座に否定する。
「紫依華 のことは大切だと思ってる。でもそれは結婚に結 びつくようなものではなくて、血は繋 がっていなくても俺たちは家族で、俺にとって紫依華 は本当の妹みたいな……」
言葉の途中で突然紫依華 が俺を抱きしめた。柔 らかな感触と石鹸の匂 いに心臓が跳 ねた。
「何を」
慌 てて肩を押して引き剥 がすと紫依華 はじっとこっちを見た。火照 っているだろう顔を逸 らす。
「本当の妹だと思ってる人の反応じゃないと思うけど、昔は抱きしめてもそんな反応しなかったよ」
「ずっと昔の話だ。今は状況が違う」
「どう違うの?」
「もう子供じゃない」
久しぶりに抱きしめられただけで、何年もかけて作り上げた欺瞞 は崩れ落ちそうになっていた。
「そうだよ。もう子供じゃない。そこから目を逸 らそうとしてるのはどっち?」
不誠実 だと言われている気がした。そしてそれは事実だ。けれどその気持ちは退 けなければならない。だから問いに対する答えではなく、さっき口にできなかった言葉を選ぶ。
「俺はもう何年も生きられない。そうじゃなくても戦いで明日 にも死ぬかもしれない」
それは絶対的な事実で、両親と博士を見送り俺さえも送る事になるだろう紫依華 だからこそ、その隣 には紫依華 よりも長く生きて紫依華 を送ってくれる誰かが居るべきだった。
「そんな事分かってる。だからこそだよ」
語気 を強めた後、紫依華 は指で俺の左腕を撫 でるように示 した。
「ここは、このあいだ直したところ」
義躯 とはいえ毎回全てを取り替えるには手間と費用がかかりすぎる為 、擬似皮膚組織 の表面には古傷のように補修跡 が残っている。指が違う場所に移動して、同じように示 す。
「ここは、その前に直したところ。こっちはそれよりも前。……続けたら何時間もかかっちゃう。いつも自分を犠牲にしようとするところ、出会った頃から変わらないね」
紫衣華 の目には憂 い。
「別に戦わなくたって、開発中だった義躯 の実験に協力するだけでも良かったのに、戦う事を選んで、今でも続けてる。投げ出したっていいのにそうしない。なんでなのかは分かってる。だからね兄 さんが自分を優先しないなら、私が兄 さんを優先しようって思ったんだ。勿論 、嫌ならそう言ってくれて構わない。私と兄さんの関係は何も変わらないから……いや、それは嘘だね。きっと意識しちゃう。だから言わないほうが良かったのかもしれない。でも、このままにしておくのは嫌だった」
その声は微 かに震 えていて、冗談 のようだった言動 が、ただそう繕 っていただけのものだったのだと気付く。
「だって、このままじゃきっと後悔する。お父さんにも、お母さんにも、おじいちゃんにも、会いたいのにもう会えない。交 わした言葉や記憶はどんどん薄 れていって、届く事のない言葉だけが積 もっていく……。だから全部伝 えたかったんだ」
視線を合わせた紫依華 の目には、強い意志の輝 きがあった。
「それにさ、そもそも兄 さんとの年齢差、性別による平均寿命の違いを考えれば、どうしたって私の方が長く生きる可能性は高いんだよ。例外なく人は死んでしまう。普通はそれがいつか解 らず、兄さんの場合はある程度の予想が付いてしまっているというだけ、でも愛した人が自分よりも先に死んでしまったら、兄 さんは愛した事を後悔する?間違いだったと思う?いつか想像もつかない程 の悲しみに襲われるとしても、人生のほんの一時しか共有できなかったとしても私は間違いだったとは思わない。
一番そばに居たいんだ。一番そばにいて、もう直せなくなるまで兄 さんを直す。今と変わらないように思えてもそうじゃない。今度は成 り行 きじゃなく私の意思で築 く関係。最後の瞬間まで兄 さんの一番近くに居るっていう証 が私は欲しいの」
紫依華 が求めてくれている特別な関係。けれどそれでも、それを悲しいと思った。
「俺は紫依華 には確定した未来じゃ無く、不確定の未来の中で幸せになってほしいんだよ」
「不確定の未来と幸せ?」
紫依華 の言葉に頷 く。
「俺は不具 だ。子供はおろか、抱 く事すらできない」
終わりが見え、性器まで既 に失ってしまった俺とでは、誰かが語 るような幸せは絶対に訪 れない。
「それは正しくない。先天的な疾患 のある兄さんには遺伝子から配偶子 を作る事が認められる。行為が無い事に違和感を覚えるのなら。そういう機能をつける事もできる。でも私にとっては子供の存在も付随 する行為だって重要じゃない。
どれだけ求めあっても、それは結局のところ感覚器官同士 の接触 でしかないから。物理的には触 れると言う事が人間の限界。だから大切なのは心を繋 ごうとする事、感覚器官 ではない、見る事ができないそれで結 ぶ事。
ついでに言えば兄 さんは身体が完全だったとしてもそもそも子供なんか望んでいないでしょう?」
「子供は嫌いなんだ」
そう答えた俺を紫依華 は睨 みつけるように見た。
「それは嘘。兄 さんは子供が嫌いなんじゃない。誕生と祝福を繋 げられないだけ。世界を守る正義の味方は世界を美しいとは思っていないの」
その指摘 に思わずたじろぐ、ずっと自分の中に隠そうとしていた事を紫依華 は容易 に言語化 してみせた。
「俺が今こうしていられるのは博士や紫依華 のおかげで、それが運 だからだよ。世界は、そんなものなんだ」
「そうかもね。でもそれは兄 さんを愛してはいけない理由にはならないでしょう?誰かに幸せを決めてほしくないし、誰かの語 る幸せを私に勧 めておきながら、そもそもそれを幸せだと思ってもいない兄 さんの提案 は受け入れられない。私の幸せは私が決めていい。そうでしょう?」
反論 を探しても見つからない。自分の中にそれが可能な言葉が無い。正直に言えば、初めて会ったあの時に、たぶん紫依華 に惹 かれてしまったのだ。
けれどこの気持ちが、正しく愛と呼べるものなのかどうかがわからない。差し出された温かな手に縋 り付いているだけではないと、突き放された愛情の代 わりを求めているのではないと断言 できない。
「俺は愛を知らない。正しいそれが分からない。そんな人間にはきっと誰も幸せにできない」
俺の泣き言を聞いた紫依華 が勝ち誇 ったように笑った。
「だったら私が、兄 さんが幸せにする最初の人になってあげる」
全ての言い訳を潰 されて、残ったのは自分の気持ちだけだった。初めて会ったあの時から、いつだって俺を助けてくれたのは、その澄 んだ声と華奢 な身体だった。
「俺は……」
「どうかした?」
呼びかけられて、初めて自分が呆 けていた事に気付いた。
「いや、紫依華 に、見惚 れていた」
俺の言葉を聞いた見慣 れない白無垢姿 の紫衣華 は視線を逸 らして頬 を掻 いた。その頬 に化粧とは違う赤 みがさすのを見て、自分の顔が急速に同じようになっていくのを感じる。
つい口にしてしまった似合わない言葉は、自分が平静 ではないことを表 していると思った。
二人だけの式。流行 は異国風だったから紫依華 もそうしたいのかと思っていたけれど「信じてもない異国の神様に誓 ってもらっても仕方がない」と一蹴 された時、それを紫依華 らしいと思った。
紫依華 の望みは、この国に住 まう神々と法 。俺の心と、そしてなによりも紫依華 に誓 う事だった。だから誓 った。もうそこに迷いはなかった。
そんな事を思い出しながら広げられた真 っ白 な紙に手を乗せると隣 から紫依華 も同じように手を乗せた。二つの生体情報 を取得した誓紙 が薄紫色 に変わる。
「改めて、よろしくね兄 さん」
祝詞 が上げられる最中 、耳元に口を寄 せた紫依華 がそう囁 いて、それは駄目だと思った。
「その呼び方はやめよう。なんていうか、その、禁忌 をおかしているような気がする」
囁 き返した俺を見て一瞬不思議そうな顔をした紫依華 は続きを聞いて吹き出しそうになったのか、口元を抑 えて笑った。
「そうか、そうだね。これからは対等な関係として生きていくのだもんね。じゃあ、これからは久那戸 って呼ぶ。よろしくね久那戸 」
紫衣華 が付けてくれた名前。それで初めて呼ばれて何処かこそばゆい気がした。
「もし裏切ったなら、その時はこれで刺し殺すから」
再び口を耳に寄せた紫衣華 が言った。その指先は懐剣 に触 れている。物騒 な言葉とは裏腹 に口調 は愉 し気で、微笑 む紫衣華 を愛 おしいと思った。
「そんなことしなくても、紫依華 に見捨てられただけで俺は死ぬよ」
紫依華 の冗談に事実を呟 きながら笑い返す。外からは穏 やかな日差しが差し込んでいて、柔らかい風が身体を撫 でていった。
一つ取って並んでいる文字の量に
手を乗せると
「ちゃんと読んでる?」
部屋の中を
「読んでるよ」
「嘘ばっかり」
書いてある事は全部、今度行われる
新しい
「あー」
何と言ったらいいか分からないまま口から
「何か言った?」
「いや……なんていうか、間違って、違う書類が混ざってたよ」
右手で
「ああ、気付いちゃったか、そのまま
驚くでもなく
「いや、そんな事をしたら、俺が……」
「俺が?」
「夫になってしまう」
「私と
「……なんで?」
思考が追いつかないまま、そう問いかける。
「なんで?って、結婚できるようになったのに、いつまでたっても
一瞬で記憶が呼び起される。確かにそう言われて、嬉しいよと返した。けれどそんなものは
「ああ大丈夫。書類上は
「いや、そういうことじゃなくて……」
「もしかして
「そんな事あるわけがない」
不安そうな言葉を即座に否定する。
「
言葉の途中で突然
「何を」
「本当の妹だと思ってる人の反応じゃないと思うけど、昔は抱きしめてもそんな反応しなかったよ」
「ずっと昔の話だ。今は状況が違う」
「どう違うの?」
「もう子供じゃない」
久しぶりに抱きしめられただけで、何年もかけて作り上げた
「そうだよ。もう子供じゃない。そこから目を
「俺はもう何年も生きられない。そうじゃなくても戦いで
それは絶対的な事実で、両親と博士を見送り俺さえも送る事になるだろう
「そんな事分かってる。だからこそだよ」
「ここは、このあいだ直したところ」
「ここは、その前に直したところ。こっちはそれよりも前。……続けたら何時間もかかっちゃう。いつも自分を犠牲にしようとするところ、出会った頃から変わらないね」
「別に戦わなくたって、開発中だった
その声は
「だって、このままじゃきっと後悔する。お父さんにも、お母さんにも、おじいちゃんにも、会いたいのにもう会えない。
視線を合わせた
「それにさ、そもそも
一番そばに居たいんだ。一番そばにいて、もう直せなくなるまで
「俺は
「不確定の未来と幸せ?」
「俺は
終わりが見え、性器まで
「それは正しくない。先天的な
どれだけ求めあっても、それは結局のところ
ついでに言えば
「子供は嫌いなんだ」
そう答えた俺を
「それは嘘。
その
「俺が今こうしていられるのは博士や
「そうかもね。でもそれは
けれどこの気持ちが、正しく愛と呼べるものなのかどうかがわからない。差し出された温かな手に
「俺は愛を知らない。正しいそれが分からない。そんな人間にはきっと誰も幸せにできない」
俺の泣き言を聞いた
「だったら私が、
全ての言い訳を
「俺は……」
「どうかした?」
呼びかけられて、初めて自分が
「いや、
俺の言葉を聞いた
つい口にしてしまった似合わない言葉は、自分が
二人だけの式。
そんな事を思い出しながら広げられた
「改めて、よろしくね
「その呼び方はやめよう。なんていうか、その、
「そうか、そうだね。これからは対等な関係として生きていくのだもんね。じゃあ、これからは
「もし裏切ったなら、その時はこれで刺し殺すから」
再び口を耳に寄せた
「そんなことしなくても、