諸人挙リテ
文字数 4,609文字
「本日の天候は晴れ、最高気温は……」
硝子窓 に表示されている映像を指で除 けると連動 して音量も絞 られる。小さくなった予報の声を聞きながら空 いたスペースに遥 か下方の光景を拡大表示すると、蠢 いている群衆 が見えた。
此方に向かってプラカードを掲 げた人々が口々に何かを叫んでいる。音声までは拾 えないが、書かれた文字を見ればどんな集団かは分かる。
「今日も沢山の人が集まっていますね。あなたが世界を滅ぼすのだそうですよ」
電動車椅子の微 かな作動音を響 かせながら近づいてきたクスィの声は、使われている単語とは裏腹 にどこか呑気 さを感じさせた。
「彼らにはそう思えるんだろう」
「あなたにそんな力は有りません。彼らが何故そんなふう思うのか私には分かりません」
クスィは正しい。実際、ボクに大した力は無いし、世界を支配しているわけでも、そうしようとしているわけでも無い。それでも集まっている人々は心底 そう思っている。
「人間には視座 が一つしかないからね」
「視座 ?」
クスィが続きを聞きたそうだったから、暇 つぶしに言葉を重 ねてみる。
「君が世界をどう捉 えているかボクには分からないけど、人にとって世界は観測 して初めて存在するものなんだ。観測 できなければ存在しない。
生まれる前に世界が存在したというのは記録で、死後に存在するというのは想像だ。それでも人がそれを信じているのは今この瞬間、この場所に自らの視座 が有るからだ。それは一つだけで何処にも移す事はできない。
仮に今ボクが観測 している世界の存在を持って、観測 できない世界。平行世界の存在を認めたなら、それは無限に存在し、この世界とまったく同じ状況に至った世界もまた無限に存在する事になる。けれどそれでもボクの視座 は今此処にしかない。例えボクと全く同じ事をする存在が無限に居 たとしてもそれはボクでは無い。ボクがその視座 を持っていないからだ」
「それがどうして彼らが勘違いする事に繋 がるのですか?」
答え終わったボクを見てクスィが首を傾 げていた。どうやら上手く伝わらなかったらしい。確かに問われたことに対する回答としては少し直接的ではなかったかもしれない。
「えっと、そうだね。人は生まれ持ったものと育った環境によって創 られた思考から正しさを導 いていて、一つしかない視座 がそれを強力に支持するんだ。
結果として人は自らの思考こそが正しいと信じて疑わなくなる。これは視座 を移 せない以上、避け難 い事なんだ。どれだけ相手の立場で物事を考えようとしても、それは自己の視座 で行われている想像に過ぎないからね」
今度は僅 かかもしれないが問いに対する答えになったような気がした。
「あなたもそうなのですか?」
クスィの言葉に頷 く。
「そうだね。ボクもボクの視座 でしか物事を考えられない。世界がどういうものであり、自分がどういうものであり、どう振る舞うかを、常 にそこから求めている」
「だとしたら誰が正しいのです?」
「誰も正しくない」
「あなたも?」
「そう、誰も自 らの正しさを証明できない。証明しようとすればその問いは無限後退し、自らの正しさを証明してくれる誰かの正しさを何かで証明しなければならない。そしてその何かの正しさも……。
もしも答えがあるのなら、それはより高次の存在。人が神と呼ぶ概念 になるが、そこに答えを求めれば今度は神の存在証明が必要となる。だが、神の発生が人の願望 や祈 りに起因 するのならば、神もまた人の思考内存在 となり、それでは正しさを担保 できない。
だから世界はまともだと思っている人間で溢 れているが、それを証明できる人間は一人もいないんだ。あそこに集まっている彼らだってそうさ。彼らによれば、自分たちは正しさと人類の代弁者 だそうだが、ボクが考えるに、もしそれが真実ならそもそもこの施設 が成立する事は無かった筈 だよ」
ボクの言葉を聞いたクスィが硝子窓 に視線を移す。映し出されている光景を一緒に眺めれば、拡大表示された先で、規制線に到達した人々が押し返されていた。彼らを止めているのは、暴動の発生を危惧 した警官と雇 っている警備員だ。
こうして見ると正しさと人類の代弁者 を名乗っている彼らが敵対しているのはまさに人類に見える。不思議だ。彼らは悪と罵 るだろうが、警官や警備員にも守るべき生活があり、未来がある。彼らはお互いが抱 く正しさの為に敵対していて、けれど詰 め寄 ろうとしている群衆 は誰一人として事を成した後の計画を持ち合わせてはいないだろう。
規制線を破 ろうとしている彼らは自ら望んで眠りについた人々を叩き起こせば世界に幸福な未来が訪 れると信じている。
彼らが信ずるところによれば、此処が存在しなかった時代に人が成せなかった事が、此処を壊す事で達成されるほど世界はいつのまにか単純になったらしい。
「こうして見下ろしているとまるで、本当に世界を滅ぼす者に成った気分だ」
呟 いた後でマグカップに注がれたコーヒーを一口啜 り、冷たい眼差 しを作ってみる。
もしも彼らが望むようにこの施設を廃止したとして、その場合生じる莫大 な費用を税率の上昇で補填 する案 を彼らは受け入れないだろう。同様に此処が引き受けていた仕事を自分たちで請 け負 おうとする事も無い筈 だ。
だからそんな事になれば、撤廃 された死刑が生んだ超長期懲役囚 に介護、統計上解決した自殺者といった数々の問題が再燃する。
まして此処は保有する資産に応じた入居費を請求し、それによって得た利潤 の大半を国に回す事で富の再分配装置としても機能しているのだ。
それがこの施設の存在を容認 させる為 のものであるにしろ、国家の運営も人々の暮らしも、もう此処に依存したものになってしまっている以上、それが覆 れば破綻 するしかない。
勿論そうなった場合、政治が補 おうとはするだろうが、肉体が自己崩壊していくなら傷口をどれだけ縫 い合わせても無意味だ。
或 いは画期的な改革が行われれば解決可能かもしれないが、それが出来なかった到達点が今で、これからもそれは変わらないだろう。そんな事が可能な程 、人は優れた生き物ではない。
現 に全ての人を賄 えるだけのリソースは存在している筈 なのに人はずっと不平等な椅子取りゲームを続けている。それが全てなのだ。
だから人の可能性に命の大切さ、平等と自由を訴 える彼らの主張はどうやったって実現できない。
倫理観 が崩壊したのではない。信仰 が足りないのでもない。そもそも自由を謳 いながらソムニウム・ドライブの廃止を叫んでいる彼らが自己矛盾しているように主張は全てある種の統合圧力 であり、正しいと思っている思想で世界を支配したいという欲望だ。
それに従い続ければやがて、言語 や倫理 、文化といったあらゆるものが均一化 され、此方 と彼方 が何も変わらなくなる。もしかするといつか世界はそこに到達するのかもしれないが、それでも人間をまったく同じものにする事は出来ない。
持って生まれたものが違い。育つ環境が違い。出来る事や思う事が異 なるからだ。共に声を上げている彼らだって全員が同じ未来を思い描いている筈 が無い。
人は分かり合えない。それだけが真実で、だから誰もが納得するような理想社会は構築 できない。
いや、それ以前に世界がそれを許す程 美しく無いのだ。どれだけ積み重ねても報 われない者は報 われず。病に事故、天災。世界には死と絶望が満ちている。
人生とはつまりそんなもので馬鹿馬鹿しくて笑ってしまう。その果てで此処 に辿 り着いた人達を叩き起こして、彼らは一体どんな言葉をかけ、何を差し出すというのだろう?
「これが正しいのかは分かりませんが、世界を滅ぼす者に成った気分だと言った、あなたの声と現在の表情から推察 されるのは虚 しさです。ならばいっそ窓など無くしてしまったらいかがでしょう?」
黙っていたクスィが唐突 に口を開いた。口調 は淡々 としているがその提案 はボクを気遣 ってくれてのものだと分かる。
確かに、不快なら見えなくしてしまえばいいと言うのは視座 という考え方においては合理的で、此処に居る限りそうしてもなんら問題は生じないだろう。けれど……。
「それはできない。窓が無ければ棺桶 の中にいるような気がしてボクには耐えられない」
言っていて自分でもおかしいと思う。偽りの楽園を提供していても自分はそこに浸 りたくない。
一定時間視線を外していた事で自動的に拡大表示が終了し、戻ってきた映像が群衆 を隠した。もう天気予報は終わっていて映し出されているのは若い女性のリポーターだった。
「百億人目の男の子が今日五歳の誕生日を迎 えました」
動いたカメラが男の子を捉 える。初めて見た時よりもずいぶん成長した百億人目の男の子。それが正しいかは分からない。ただ、世界人口の統計 機関が百億人に到達したと発表した瞬間、産声を上げた子供だったと言うだけの話だ。
より正確に言えば、その発表を有名な巨大病院の産科で待っていた報道陣。彼らが選び出した子供というべきだろう。少なくとも同じ条件が当て嵌 まる子供は彼以外にも複数人存在する筈 で、それでも彼はそうやって取り上げられてから百億人目の子供として認識されている。
彼はある種 、記念碑のようなものであり、境 だ。半世紀前まで百億を超えないとされていた世界人口は、鈍化 しながらも増加を続け百億を超えた今も増え続けている。
「おめでとうございます」
リポーターがお祝 いの言葉と共に花束を渡すと、ぎこちなくお礼を言った彼は照 れくさそうに笑って母親の後ろに隠れた。
将来の夢を尋ねるリポーターの声。母親にも優しく聞かれ少し悩むようにしてそれに答えようとしている男の子の姿を見て虚 しくなって映像を消した。
窓の大半を青い空と少しばかりの雲が占領 し部屋から音が消える。人はよく子供の可能性を無限だと言うが、もしもそれが真実で本当に全ての子供に素晴らしい可能性があったのなら世界はとうの昔に光で満ち溢 れている筈 だ。だが現実にそんな事は起きていない。
死んだ子供は誰 も彼 もが栄光 に満ちた未来を持っていたらしいのに、生き残った子供の大半は何者にも成れずに死んでいく、現 にそんな子供達の成れの果てが毎日此処にやってくる。
まだ未来を知らず含羞 んだ百億人目の少年は、きっといつかの彼らの姿で、そして声を上げている群衆の誰一人としてそれを救う事が出来なかった。
ただ、絶望しなかっただけの人々が口にする世界は美しいと言う合唱 は、そうでなかった人間には響 かない。
結局、あらゆる差異は越 えられず、場合によっては理解する事さえできないのだ。そしてそれはたぶん拡大を続けていて、だから百億もの人が満 ちている惑星で、もしかすると人は太古よりもずっと孤独だった。
「大丈夫ですか?」
手を握られた感触に視線を動かすとクスィが此方を見つめていた。
「……ああ、ただ少しだけぼんやりしていただけだよ」
返事を返しながら実際のところクスィは全て解っていてボクの手を掴 んだような気がした。
「では散歩にでも行きましょう。あなたの運動量は先週よりも3%低下しています」
「たった3%じゃないか」
優しく窘 めるように言われたから、冗談のように反論する。
「そもそも、あなたの運動量がどれだけ低いか知っていますか?」
即座 に返ってきた言葉には何も言い返せなかったから、カップを置いてクスィが座わっている車椅子の持ち手を握 った。
此方に向かってプラカードを
「今日も沢山の人が集まっていますね。あなたが世界を滅ぼすのだそうですよ」
電動車椅子の
「彼らにはそう思えるんだろう」
「あなたにそんな力は有りません。彼らが何故そんなふう思うのか私には分かりません」
クスィは正しい。実際、ボクに大した力は無いし、世界を支配しているわけでも、そうしようとしているわけでも無い。それでも集まっている人々は
「人間には
「
クスィが続きを聞きたそうだったから、
「君が世界をどう
生まれる前に世界が存在したというのは記録で、死後に存在するというのは想像だ。それでも人がそれを信じているのは今この瞬間、この場所に自らの
仮に今ボクが
「それがどうして彼らが勘違いする事に
答え終わったボクを見てクスィが首を
「えっと、そうだね。人は生まれ持ったものと育った環境によって
結果として人は自らの思考こそが正しいと信じて疑わなくなる。これは
今度は
「あなたもそうなのですか?」
クスィの言葉に
「そうだね。ボクもボクの
「だとしたら誰が正しいのです?」
「誰も正しくない」
「あなたも?」
「そう、誰も
もしも答えがあるのなら、それはより高次の存在。人が神と呼ぶ
だから世界はまともだと思っている人間で
ボクの言葉を聞いたクスィが
こうして見ると正しさと人類の
規制線を
彼らが信ずるところによれば、此処が存在しなかった時代に人が成せなかった事が、此処を壊す事で達成されるほど世界はいつのまにか単純になったらしい。
「こうして見下ろしているとまるで、本当に世界を滅ぼす者に成った気分だ」
もしも彼らが望むようにこの施設を廃止したとして、その場合生じる
だからそんな事になれば、
まして此処は保有する資産に応じた入居費を請求し、それによって得た
それがこの施設の存在を
勿論そうなった場合、政治が
だから人の可能性に命の大切さ、平等と自由を
それに従い続ければやがて、
持って生まれたものが違い。育つ環境が違い。出来る事や思う事が
人は分かり合えない。それだけが真実で、だから誰もが納得するような理想社会は
いや、それ以前に世界がそれを許す
人生とはつまりそんなもので馬鹿馬鹿しくて笑ってしまう。その果てで
「これが正しいのかは分かりませんが、世界を滅ぼす者に成った気分だと言った、あなたの声と現在の表情から
黙っていたクスィが
確かに、不快なら見えなくしてしまえばいいと言うのは
「それはできない。窓が無ければ
言っていて自分でもおかしいと思う。偽りの楽園を提供していても自分はそこに
一定時間視線を外していた事で自動的に拡大表示が終了し、戻ってきた映像が
「百億人目の男の子が今日五歳の誕生日を
動いたカメラが男の子を
より正確に言えば、その発表を有名な巨大病院の産科で待っていた報道陣。彼らが選び出した子供というべきだろう。少なくとも同じ条件が当て
彼はある
「おめでとうございます」
リポーターがお
将来の夢を尋ねるリポーターの声。母親にも優しく聞かれ少し悩むようにしてそれに答えようとしている男の子の姿を見て
窓の大半を青い空と少しばかりの雲が
死んだ子供は
まだ未来を知らず
ただ、絶望しなかっただけの人々が口にする世界は美しいと言う
結局、あらゆる差異は
「大丈夫ですか?」
手を握られた感触に視線を動かすとクスィが此方を見つめていた。
「……ああ、ただ少しだけぼんやりしていただけだよ」
返事を返しながら実際のところクスィは全て解っていてボクの手を
「では散歩にでも行きましょう。あなたの運動量は先週よりも3%低下しています」
「たった3%じゃないか」
優しく
「そもそも、あなたの運動量がどれだけ低いか知っていますか?」