エピローグ 残花

文字数 1,636文字

 何本もの円柱(えんちゅう)(ささ)えるエントランスを抜けて坂を(くだ)っていく。寒さはもう遠くなった。
 水平線の向こうに沈んでいく太陽が空を(あか)く染めていて、巨大な(とう)が天に向かって伸びている。
 あの日と同じ景色(けしき)。違うのは、それを一人で(なが)めているという事。(ほお)にはあの時と同じように涙が(つた)っているのに、抱き寄せてそれを(ぬぐ)ってくれた人はもういない。だから(しずく)となって()ち続けている。
 あとどれだけ直してあげられるだろう。
 あとどれだけ笑ってくれるだろう。
 あとどれだけ()きしめてくれるだろう。
 あとどれだけ名前を呼んでくれるだろう。
 あとどれだけ……。
 頭の片隅(かたすみ)にずっとあったその日が来てしまったという、ただそれだけの事。解っていた。できる事は全てやった。何度も感謝を(つた)えて、何度も抱きしめた。思い出話で笑い合って、最後までそうしていた。あの人はそれに(こた)えるみたいに生きて、こんなふうに花が()りはじめるまで頑張ってくれた。
 初めて会った時あの人は泣いていたから、少しでも元気付けてあげたくて私はそばに行ったのだ。一緒に暮らす事になるのは知っていたし、私と同じ悲しみを(いだ)いているような気がしたから。
 話しかけて、笑ってくれたのが嬉しかった。名前を考えるのを頼まれて、いつかのお父さんの言葉を思い出した。人の名前には願いがあると。人は思惟(しい)するが(ゆえ)に人()りえる。だから私の名前は紫依華(しいか)なのだと。言われた時はよくわかっていなかったけれど思考(しこう)する(はな)のようであれという願いが私に込められているのなら、私はあの人にこれ以上悲しみが降りかからないようにと願ったのだ。
 結局、あの人はそれを自らの手で払いのけようとする人になってしまったけれど……。
 でもそれは仕方が無かったのかもしれない。あの人がそうなったのはヒーローに(あこが)れていたという所為(せい)だけじゃなく、自らの命を軽視(けいし)していたからだ。命は大切で、だから誰も彼もを守りたいと思っているのに、自分のそれだけはそこに(くわ)えていなかった。私はあの人のそんなところが(ゆる)せなくて、でも、だからこそ放っておけなかった。(いだ)いていた(した)しみが、もっと特別なものに変わる(ほど)に……。
 そんなふうにしか生きられない酷く不器用な人だったから、いつもボロボロになって帰ってきて、作ってくる傷とそれを直す事が私達にとって(きずな)を確かめ合う代替行為(だいたいこうい)になって、それは普通ではなかったけれど、ほかの誰とも実現できないかけがえのない日々だった。
 勿論(もちろん)、良い事ばかりじゃなかった。喧嘩だって何度もした。でも思い返せば楽しい事ばかりな気がして、だから私は笑いたかった。そんな事もあったねと笑いあったついこの間みたいに、なのに視界は(にじ)んでしまって、あの人がいた時に浮かべていた笑顔を今は作る事ができない。胸を切り裂くような悲しみが(おさ)まらない。もう一度会いたいと、言葉を()わしたいと、何もかもが足りないと()れる嗚咽(おえつ)を止められない。
 理解していた(はず)なのに……。
 覚悟していた(はず)なのに……。
 不意に背後から(ほお)()でた風に慣れ親しんだ気配を感じて、けれどそれが感傷(かんしょう)の生み出した幻想だとわかっているから振り返らなかった。
 目の前で()れた枝から(うす)い色の花片(かべん)が舞う。辺り一面に咲き(ほこ)った花が一斉(いっせい)()り、音もたてずに()もっていく。
 もう私は一人で立てるのだと、口に出さずに(つぶや)いた。(つた)える(ため)(いの)りではなく、自分を(ふる)い立たせる(ため)の言葉。
 日が(しず)み、次第(しだい)(くら)くなっていく空。(あふ)れる涙をそのままに顔を上げると視界の(はし)に小さな女の子が()る事に気付いた。その表情は不安げで、何かを探すように視線を彷徨(さまよ)わせている。迷子かもしれない。この(あた)りの路地(ろじ)は入り組んでいて、それが子供の好奇心(こうきしん)をくすぐるから。
 足を止めて涙を(ぬぐ)う。呼吸を(ととの)えながら表情を作り、進む方向を変える。()めようのない欠落(けつらく)(かか)えても世界は続いていく。全ては無常(むじょう)無慈悲(むじひ)無意味(むいみ)だとしても、それでも……。
 だから私はできるだけ(おだ)やかに呼びかけた。きっと今、世界で一番心細いだろう女の子に……。
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