第33話 英雄⑨
文字数 3,061文字
視線の先で振り抜かれた黒 い刃 が、クスィの胸から首を通り、左目を裂 いて頭部を割 った。
青 い血を噴 きながらクスィが倒れていく、それを合図 にしたように形を保 っていた槍 が崩落 し、クチナワにぶつかって飛沫 を上げると周囲を漂 っていた黒 い霧 までもが滴 になって降 り始めた。世界が崩壊 し始めたかのような光景。
倒れたクスィの身体から漏 れる青 が降 り注 ぐ黒 と混ざり合っていく、黒 い雨 に打 たれた僕の身体も真 っ黒 に染まっていく。それはまるでクスィの血を浴 びているみたいで、気持ちは嘘 だと叫んでいるのに、目に映る光景がそれを否定していく、何度も繰り返した先で、灼熱感 が湧 いた。感じていた恐怖すら払いのけ、頭の中を怒りが埋 め尽くす。
僅 かに動かした足が何かを弾いた。見れば、そこにあったのは黒 い短刀 。クスィの雷球 が弾き飛ばした男の短刀 だ。
拾 い上げたその短刀 の柄 を痛みを感じるほど強く握 りしめる。視線を戻せば男が纏 っていた鎧 は剥 がれ、左腕 も失われ、刀を突き立ててようやく立っているようにしか見えない。今なら殺せる。背後からこの刃 を突き立てる。あの時と同じ様に……。
……あの時?思考が到達した言葉に訳 も解らないまま戦慄 した。刃 が皮膚を食い破り、肉を裂く感触。何度も見た悪夢とも違う強烈な既視感 に、口の中に酸味が広がった。胃の内容物が喉 をせり上がり、口内 に溢 れる。耐えられなくなって吐 いた。平衡感覚 が失われ視界がまわる。気が付けば倒れていた。
意志に反して痙攣 を始める身体。耳の奥で呼び鈴が響 き、強い痛みと共に頭の中で何かが爆 ぜた。
「こんにちは、お届け物です」
女の声。そうだ。あれを聞いて僕は玄関に行った。覗 き穴 からは何故か何も見えなかったけど、女の声だったから安心して鍵を回した。
でも開いた扉の先で待っていたのは想像したような配達員さんじゃ無かった。僕を見て哂 ったあいつが手に持った端末 から、さっきと同じ女の声が流れ、身体が硬直 している間に扉が掴 まれた。
痛みを感じた時には床 に倒れていて、反射的に縮込 めた身体が踏 みつけられて、ようやく蹴 られたのだと気付いた。
そのまま奥に歩いて行こうとしたあいつの足を掴 めたのは奇跡で、けれど出来たのはそれだけで、もう一度蹴り飛ばされて壁に背中を打ちつけられながら叫んだ時。唐突 に世界が揺 れた。
身体が跳ねあがりそうな振動の中で、棚から投げ出された食器が次々に割れ、大きなものが倒れる音がした。まるで僕が叫んだ事で世界が崩れ始めたみたいだった。
頭を抱えながら耐え、揺 れが治 まってから視線を上げると、目の前であいつが倒れた食器棚に足を挟 まれて呻 き声をあげていた。
恐ろしさから少しだけ後退 った時、床 の上に転がっている包丁に気付いた。拾い上げるとそれを見たあいつが怒号 を上げたから、注意深く背後に回り込み、僕を捉 えようとする腕を避けながら、その背中に包丁を振り下ろした。
包丁の刃 がシャツを食い破って肉に突き立つ。奇妙な感覚。同時に大きな悲鳴 が上がって傷口から滲 んだ血が白いシャツを赤 く染めた。
苦痛の中に確かな怒りを込めて叫んだあいつが動いたから、慌 てて包丁を引き抜こうとして、でも抜けなかったから仕方なく前に押した。
あいつの声が悲鳴に変わり動きが鈍 ったのを見て、今度は手前に引いた。それがまた同じ効果を生んだのを見て、僕はそれを繰り返した。反撃されるのが怖くて必死に揺 すった。
手が血に塗 れ、柄 を握 ろうとしても滑 ってしまうようになった頃 。微 かな声も聞こえなくなっている事に気付き、そっと離れてあいつの顔を見た。しっかり動かなくなった事を確認しなければ、ヒーローは何度でも立ち上がるからだ。
血溜 まりの中心にいるあいつは苦しそうに顔を歪 めたまま固 まっていて、足で軽く蹴飛 ばしても、頭が揺れるだけで少しも動かなかった。良く見ると開いた口からは唾液 が垂 れていて、目には涙を流した後があった。
「……はっ、は、ははは、ははははははははははは」
室内に響 いた乾 いた哂 い声の出所 を探して自分が哂 っている事に気付いた。恐怖が消えて、愉 しくなってきて哂 い続けた。
割れた窓から差し込む光は僕を祝福 しているようで、その向こうに覗 く崩れた建物も、遠くで輝 いている炎も、立ち上 る黒煙 も、沢山の悲鳴もきっと僕がやった事だった。
街を破壊して、ヒーローを倒した。一刻 も早くこの事を母さんに伝 えたくて奥の部屋に向かった。体調を崩して伏 せっている母さんもこの事を知ればきっと、お昼にお粥 を作ってあげた時よりも喜んで、元気になってくれるに違いない。そう思って……。
「母さん。やったよ。あいつを倒した。倒したんだ。もう立ち上がらない」
僕の声を聞いて、喜んで迎 えてくれると思った母さんは、開けた扉のすぐ前で、崩れた天井の下敷 きになっていた。
「怪我、は?」
理解できなくて立ち尽くした僕の耳に母さんの声が届いた。
「……無い。無いよ」
蹴られたところはまだ痛かったけど、安心させたくてそう答えた。
「良かった」
安堵 したようなその声に我に返り、慌 てて母さんの上に載 っている瓦礫 を持ち上げようとしたけど、それは少しも動かなかった。それどころか血に塗 れた手は滑 ってしまった。
「すぐ助けるから」
「危ないから、やめて……」
優しい声と共に身体が引かれたかと思うと抱きしめられていた。母さんの身体は温 かくて、柔 らかくて、そしていつもの石鹸 の匂いがした。血塗 れの僕を抱きしめた母さんも赤 く染まった。
「あいつだって倒せたんだ。きっとできる。今の僕ならきっと……」
そう言って、瓦礫 を持ち上げる為に離れようとしたのに、母さんは離してくれなかった。
「その気持ちだけで十分、だよ」
「嫌だ。嫌だよ。助けるから、僕が絶対助けるから。僕は倒した。倒したんだ」
「……そう、だね」
「なのに、なんで……」
なんで、母さんが死んでしまいそうなのか分からなかった。ヒーローを倒した今、不安の無い穏 やかな日々が訪 れる筈 だった。
「大丈夫、けいとの所為じゃない。……けいとは何も悪くない。大丈夫。大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない。何も大丈夫じゃないよ」
「……約束、守れなくて……ごめん……ね」
母さんは悲しげな顔をした。その頬 には涙が伝 っていて、まるでもう会えなくなるみたいだった。
「約束なんてどうでもいいよ。あいつは倒したから。もう逃げる必要もないんだ。街も人も全部僕が壊した。これからは僕が守るから。だから、だから、だから!」
必死に叫んだのに母さんは何も言ってくれなくて、急に僕を抱きしめていた力が弱まった。だからそっと抜け出してまた瓦礫 を持ち上げようとした。誰かの手に引き剥 がされるまでずっとそうしていた。
口の中に広がった吐瀉物 の匂 いと味にもう一度吐き気がして、けれどもう涙と嗚咽 以外は何も出てこなかった。呼び鈴 に過剰反応 する理由も、見るようになった悪夢の訳 も何もかも全て思い出した。
あの時この手であいつを殺した。病院で目を覚ました時には捻 じ曲げて欠落してしまっていた記憶が頭の中に溢 れかえり破裂しそうだった。
気持ち悪さの中、複数の風切 り音と沢山の足音が近づいてきたかと思うと身体が押さえつけられ、短刀が奪われた。揺 れる視界の中で鎧 達が倒れたクスィを引き摺 っていこうとしているのが見える。
「クスィに、触るな」
藻掻 きながら叫んだ声は無視され、身体が完全に抑 え込まれた。そうしている内に視界からクスィは消えてしまった。
あの時と同じだった。目の前に居るのに何もできない。涙が零 れた。
倒れたクスィの身体から
……あの時?思考が到達した言葉に
意志に反して
「こんにちは、お届け物です」
女の声。そうだ。あれを聞いて僕は玄関に行った。
でも開いた扉の先で待っていたのは想像したような配達員さんじゃ無かった。僕を見て
痛みを感じた時には
そのまま奥に歩いて行こうとしたあいつの足を
身体が跳ねあがりそうな振動の中で、棚から投げ出された食器が次々に割れ、大きなものが倒れる音がした。まるで僕が叫んだ事で世界が崩れ始めたみたいだった。
頭を抱えながら耐え、
恐ろしさから少しだけ
包丁の
苦痛の中に確かな怒りを込めて叫んだあいつが動いたから、
あいつの声が悲鳴に変わり動きが
手が血に
「……はっ、は、ははは、ははははははははははは」
室内に
割れた窓から差し込む光は僕を
街を破壊して、ヒーローを倒した。
「母さん。やったよ。あいつを倒した。倒したんだ。もう立ち上がらない」
僕の声を聞いて、喜んで
「怪我、は?」
理解できなくて立ち尽くした僕の耳に母さんの声が届いた。
「……無い。無いよ」
蹴られたところはまだ痛かったけど、安心させたくてそう答えた。
「良かった」
「すぐ助けるから」
「危ないから、やめて……」
優しい声と共に身体が引かれたかと思うと抱きしめられていた。母さんの身体は
「あいつだって倒せたんだ。きっとできる。今の僕ならきっと……」
そう言って、
「その気持ちだけで十分、だよ」
「嫌だ。嫌だよ。助けるから、僕が絶対助けるから。僕は倒した。倒したんだ」
「……そう、だね」
「なのに、なんで……」
なんで、母さんが死んでしまいそうなのか分からなかった。ヒーローを倒した今、不安の無い
「大丈夫、けいとの所為じゃない。……けいとは何も悪くない。大丈夫。大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない。何も大丈夫じゃないよ」
「……約束、守れなくて……ごめん……ね」
母さんは悲しげな顔をした。その
「約束なんてどうでもいいよ。あいつは倒したから。もう逃げる必要もないんだ。街も人も全部僕が壊した。これからは僕が守るから。だから、だから、だから!」
必死に叫んだのに母さんは何も言ってくれなくて、急に僕を抱きしめていた力が弱まった。だからそっと抜け出してまた
口の中に広がった
あの時この手であいつを殺した。病院で目を覚ました時には
気持ち悪さの中、複数の
「クスィに、触るな」
あの時と同じだった。目の前に居るのに何もできない。涙が