痛みに
堪えて目を開けると視界の中にはさっきまで無かった巨大な黒い物体。
天井を
這っていた柱。崩落したそれが床に突き立っていた。
此方に向けて手を伸ばした人形が、その
瓦礫の一部に
脇腹を
貫かれて
縫い
留められている。
人形の手に
捉えられず突き飛ばされただけで
済んだのは、そのおかげだった。
「a……、ア……、……あっ」
動けなくなった人形の口が
開き
苦鳴のような電子音を上げた。その身体から青い液体が
洩れ始める。
後退りながら
安堵の息を
吐いた。
握ったライトは割れていたが、身体は少し痛むだけだ。
「良かった」
突然
響いた声の
出所を探した視線が、目の前の人形に
辿り着く。
「
言語設定が間に合わず
恐れを与えてしまった
様である事をお
詫びいたします」
そう続けた人形は無表情で声すらも
淡々としたものだったが、それで気付いた。僕はこの人形に助けられたのだ。落ちてきた
瓦礫は、あのままなら僕を
貫いていた。
「
貴方が私を目覚めさせたのですか?」
「……違う」
反射的に答えた目の前で、人形の身体から
漏れ出ている
青い液体が広がっていく。それがいつかの光景と
重なる。あの時もこうだった。
瓦礫に
埋もれた身体から血が広がっていって、そして……。
「そうですか、では
早急に
避難を、現在この場所は危険です。また見える
範囲での異常は
検出されませんが、
念のため避難後に医療機関の
受診をお
勧め
致します」
人形の言葉で意識が現実へと引き戻される。手も服もあの時みたいに
赤く染まってはおらず血の匂いもしない。けれど、いま
代わりに広がっている
青は、色は違ってもきっと存在を
保つ為に必要なもので、
漏れてしまってはいけないもので、気が付けば身体が動いていた。
あの時そうしたように、
瓦礫に手をかけて持ち上げようと力を込める。このままなら何が起きるかを知っている。
「何をしているのですか?早く避難してください」
冷静に
促す声。そんな事は言われなくても分かっている。それでも……。
「君を助けたいんだ。このままなら君は……死んでしまうんじゃないのか?」
口にした単語に身体が震えた。
「いいえ、人形である私に死という
定義は当てはまりません。ただ壊れてしまうだけです」
「それを、死というんだよ!」
返された言葉はある意味ではきっと正しくて、でもそれが許せなくて気が付けば声を
荒げていた。
「何か方法は……そこから抜け出せないのか?」
必死に力を込めても
瓦礫は少しも動かず。あの時と同じ絶望が
脳裏を
埋め尽くす。
「その必要はありません。私が人を
模している為、
貴方は考え違いをしているのです。私は人形、人の為に存在する道具です。人である
貴方が自らを危険に
晒す価値はありません。
加えて」
「方法はないのか聞いてるんだ」
まるで
噛み合わない会話に
焦燥感が
募る。こうしている間にも
青い液体は広がり続けている。
「此処から抜け出す方法ならあります。ですがそれだけの出力を
発揮するには人命の危機と認識される
程の事態か、
管理者の
承認が必要です。
貴方には現状即座に命を落とす
程の危険は認められず。また現在の私には
管理者が存在しない
為、
承認も不可能です」
「
管理者?」
聞きなれない言葉を
復唱する。
「人形を管理する人間の事です。全ての人形は人間に管理されていなければなりません。ですが現在の私は管理者がおらず正常とはいえない
為、
速やかに廃棄されるべき存在です。よって私を助ける必要はないのです」
「それなら僕が管理者になれば助けられるのか?」
急いで言葉を
重ねた。あの時と違って出来る事があるのだと言って欲しかった。
「
貴方が私の管理者に?」
「僕じゃなれないのか?」
「回答不能です。現在私の記録は大部分が
欠損しており通信も
繋がりません。
貴方が管理者となる資格を
有しているのか判断できません」
「なら、不可能ではない訳だ」
人形の答えに希望を感じ、願いを込めながらその
青い瞳を
覗き込む。
「確かに、現在持ち得ている情報で判断する限り不可能ではありません。ですがそれを行った場合。
後に
貴方が管理者となる資格を有していなかったと判断されれば、管理者権限を
剥奪されるだけでなく法的に
罰せられる可能性があります。
賛同できません」
「それでもいい」
「ですが……」
「僕は君と一緒でなければ避難しない。このままなら僕は此処で自らを危険にさらし続けるぞ」
脅迫するように
叫んだ。人形の
語った
懸念など何も
怖くは無かった。
恐らくそれは大戦以前に存在した
規則だ。人形の言う
罰則を与える法も、それを行使する機関も、もう存在しない。
「……仕方がありません。ならばお手を、
貴方を私の管理者として登録します」
此方に向けて伸ばされた手に
併せ左手を差し出すと、人形がそれを
握った。
伝わった手の冷たさに思わず手を引きかける。
「すみません。人形である私の身体は冷たいのです」
そう謝罪した人形は、いつの間にか
握っていた
黒い
環を僕の人差し指に通した。指よりも大きかった
環が
収縮し、付け根あたりに
収まったかと思うと青い光の線が表面に浮かんだ。
「これは?」
「
環状端末です。
貴方が私の管理者である
証しであり、管理者権限を付与すると共に私と
繋ぐもの。
それで、貴方が避難する為に必要なのは私がここから抜け出す事で
宜しいですね?」
人形の問いかけに
頷く。
「その為には管理者であるあなたの
承認が必要です。
承認いただけますか?」
「
承認する」
人形の声に
被せるように言い放つ。
「分かりました。それでは少し
離れていてください」
それを聞いて
安堵した。これで人形は助かる筈だ。数歩
後退した僕の前で人形が床に両手をつく。ゆっくりと
瓦礫が持ち上がっていく、そんな光景を想像したのに、視線の先にある人形の身体は
捻られようとしている気がする。
「いや、ちょっとまっ……」
制止する前に人形の身体が回転して、
青い液体が
散った。
「抜けました」
脇腹を
裂いて
瓦礫の
拘束から抜けた人形は、何事も無かったかのように立ち上がった。人間だったら死んでいるだろう光景に、改めて目の前に居る少女みたいなものが人形なのだと理解する。
「血が……」
それを見ても取り乱さずに済んでいるのは、それが
青く、血の
匂いがしないからだ。
「
循環液の事でしたら心配はいりません。既に
循環系は
再構築済みで、重要部位の
損傷は
軽微です。確かに処置しなければならない箇所もありますが、当面の活動に
支障は有りません。
それよりも、まずはここを離れましょう。
早急にあなたの安全を
確保しなければなりません」
近づいてきた人形が差し出した手。小さく
柔らかいけれど
温もりのない
冷たいそれを
握ると、その手は僕を出口とは違う方向に引いた。
「待って、違う。出口はあっちだ」
見当違いの壁面に向かおうとしている事に
抵抗すると、人形は素直に足を止めて、
此方を見た。
「時間をかけすぎました。そちらはもう危険です」
その瞬間。入ってきた通路を
塞ぐように
黒い
瓦礫が落ち、
轟音が
響いた。
「
此方へ、私を信じてください。必ず貴方を
避難させます」
唯一知っていた通路が
塞がった今、そうするより他に無く、ただ引かれるままに歩き出すと人形は速度を上げた。壁に向け真っすぐ進んでいる事に不安を感じ始めた頃。視線の先に穴が開いた。
現れたのは通路。
引っ張られながらそこに飛び込むと人形は速度を
緩め、足を止めた。
「此処まで来れば、もう大丈夫です」
そう言われても、今も後ろからは
瓦礫が落下する音が
響いている。
「あれは
老朽化した
供給路が
崩壊しているだけです。この
施設自体に問題はありません」
僕の不安を
察したのか、人形が
解説してくれた。
「ですが本来なら崩壊と再生は
塵程度の大きさで行われるもの。施設が放棄されているのだとしても破壊されていない以上、
保守点検作業は継続されている
筈なのですが……申し訳ありません。現状私が所有している情報では回答不能です」
「いいんだ。それよりも処置しなければならない
箇所があるって言わなかった?」
「ええ、けれど
切迫したものではありませんので先に自己紹介を、私はクストスです」
唐突に口にされたそれが、人形の名前なのだと理解する。
「クストス?」
口に出すと、
異国語らしいその
響きは
美しい少女のような人形には似つかわしくない気がした。
「そうです。私の
管理者様。
貴方のお名前は?」
「
佳都」
「
佳都様」
初めて呼ばれた
敬称に恥ずかしさにも似た違和感を覚える。
「その、
様はつけなくてもいいよ。
佳都でいい」
「分かりました。では以後、
佳都とお呼びします。さて、それでは自己処置できる
範囲での
修復を
施そうと思いますが、残念ながら
腕の数が足りません。少し手を
貸していただけますか?」
「分かった。何をしたらいい?」
「
胸部外装を開くので、作業の邪魔になるものを
保持していてください」
頷いて、手を持ち上げる。
「あれ?さっきの
指環が……」
気が付けばさっきクストスが指に通した
黒い
環が消えていた。
「防犯上の都合により透明化されただけです。
環状端末は管理者である限り
外せませんから」
そう言われると指には
環の感覚が残っていて触れるとそこにある事が分かる。それを確認している間にクストスが
纏っていた
服の
紐を
解き、それをはだけさせた。
反射的に向けてしまった眼が
露わになった身体を
捉える。
千歳とは違う発達していない胸、薄く浮き上がる
肋骨の
線と小さな
臍。ホクロ一つない
滑らかな肌には
瓦礫から抜けた時にできた
筈の傷すら見当たらない。
美術品みたいなその身体を見つめてしまってから、強烈な
背徳感を
覚えて目を
逸らした。人形とはいえ、少女にしか見えないものの
裸なのだ。
「ではこれを持ち上げていてください」
投げかけられた声。出来るだけ直視しないように視線を戻すとその薄い
胸部が開かれていた。そこには想像したような
生々しさは
欠片も無く、
青く
輝く
球体と
多様な機械部品、そしてケーブルの
束があるだけで、けれどそんな事よりも
胸部が開かれた事で
背徳感が
薄れた事になによりホッとした。
「
恐れる必要はありません。ただ私の指示に
従っていただければ大丈夫です」
僕の反応を勘違いしたらしいその声に
慌てて
頷き、
指で
示されたケーブルをそっと持ち上げるとクストスが手を突っ込んで作業を始めた。
「……あの、クストスは何の為に作られた人形なの?」
そう口にして、ばつの悪さを
払う。でも、クストスが普通の人形だと思えないのは確かだ。
「私は
管理人形の
予備人形です」
「
管理人形?」
「この下にある都市全体を管理している人形の事です。私はその予備ですから本体に何らかの問題が生じ、それを解決する為に目覚めさせられたのだと
推測しました。ですが違うようです。何の指示も無く此方からの通信にも応答がありません。
今何が起きているのか
佳都はご存じですか?」
返された言葉に
背筋が
寒くなった。クストスの言っているこの下にある都市とはきっと地下にある
人形都市の事だ。だとしたら
管理人形というのは……。
「どうかしましたか?」
沈黙した僕を
訝しんだのか、作業の手を止めず
俯いたままのクストスが聞いた。
「いや、なにも……ごめん、僕にはわからない」
「そうですか、気になさらないでください。私の通信機が故障しているのかもしれません。此処から出たら通信機のある場所に向かいましょう……
終わりました。もう
離しても大丈夫です」
これ以上何か聞かれたらという緊張感と共に手を
離すと
開いていた
胸部が閉じられた。周りの皮膚が
蠢いたかと思うと
つなぎ目
が消えていく。
瓦礫から抜けた時の傷もきっとこうやって消したのだろう。そんな超技術の産物に僕は今
嘘をついている。
「これで、
治った?」
服を合わせ、
紐を
結びなおしているクストスに聞いた。
「いいえ、応急処置をすませただけです。ですが、とりあえず二週間ほどは問題ないでしょう」
「その先は?」
「完全な修理を受けなければ活動停止に
陥ります」
「……そんな」
この人形は危険だと訴える理性を感情が
僅かに上回った。
「現状ではこれが限界です。けれど安心してください。適切な設備のある場所へ行けば容易に直す事が出来ます」
元気づけようとしてくれたのだろうその言葉は、状況を理解している僕にとっては絶望の言葉だった。