月明りの差し込む室内に音が
響く。
寂しげなその
旋律は夜の海を
想起させる。窓の外に見える現実の海とは違う、
穏やかで
温かな不安の無い海。そこに浮かんで
揺蕩っているような感覚。
古いピアノの
鍵盤を
弾く細く綺麗な指。演奏しているクスィの姿は、何処か幻想的だった。
最後の音が
響き、その
余韻が完全に無くなってしまってから、クスィは
鍵盤から指を離した。
車椅子を動かし、机の上に用意してあった金属のトレーを持って、ボクがいるベッドまで運んでくる。
トレーの上には水の入ったコップと袋に入った
錠剤。始めは劇的な効果を
発揮していた
錠剤も
服薬し続けているうちに耐性ができてしまって、いつの間にか眠る事は儀式のようなものになってしまった。
踏むべき手順を守って、そのうえでこの小さな
錠剤が無ければ眠ることができない。そうでなければ死に
至るまで目を開けている気がする。
眠る為には薬が必要で、
歪んでしまった
水晶体は
眼鏡によって
矯正しなければ正しく
像を
結ばないのだからボクは生物として欠陥品だった。
技術が
淘汰の
網から救い上げた命。そんな事を思いながら
錠剤の入った袋を取らずにクスィを見る。
「今日も、素晴らしい演奏だったよ」
心から思った事を
伝えると、水の入ったコップを渡そうとしていたクスィが動きを止めた。
「本当にそうでしょうか?」
今まで無かった言葉に疑問を
抱く。
「うん?どうして?」
「良い演奏には心が必要だと聞きました。私には心が有りませんから」
ボクの知らないうちに、何処かでそんな情報に
触れたらしい。
「心、心か……クスィはそれが欲しいのかな?」
「それであなたが今よりも、喜んでくれるのなら」
そう言ってくれたことが
既に嬉しかったが、
照れ
臭かったので口にはしなかった。
「じゃあ、クスィは心とは何だと思う?」
「生物だけに
宿る解析不能なものです。
魂や自我と時に同義として扱われるもの、あなたなら
視座と呼ぶかもしれません」
「そうだね、人が考える解析不能で
神聖なもの。でも、本当にそうだろうか?」
ボクがそう告げるとクスィは首を
傾げた。
「どういう意味です?」
「心というものは
神聖視されるけれど、それを作りだしているのが発達した脳である事はもはや
疑いようが無い。だからそれは人が考えているほどに特別なものでは無く複雑化した生存の為の
単なるシステムであり、
蓄積された経験や本能に
基づいて実行される適切と思われる反応に過ぎないのかもしれない。そう考えればクスィだって同じ事をしているんじゃないか?」
「けれど、人はそれで
納得し、私に心があると言うでしょうか?」
「言わないだろう。人は心という
神聖性を手放したくないから、全てが
解析されたとしてもそれを拒否する
筈だ。狂信者みたいに」
「では、やはり私には心はありません」
クスィが導き出した結論を聞き流して続ける。
「けれど一方で人は人以外のものにも心が存在すると考えている。人によってその
範囲は
異なるけれど、結局のところその
根拠も、こちらの行動に対して
示す反応だったり、それが行っている動作に心があるように感じるというだけの事だ。そしてそれは
凡そ、その生物の脳の発達具合に
因っている。
脳が生み出す反応がある点を超えた瞬間、観察者はそこに心の存在を意識するんだ。だから自分以外の心というものは対象自体では無く受け手の認識が発生させている。世界に確実に存在すると言えるのは自己の
視座とその心だけで、それ以外はの心は、それが存在するという観察者の
信仰じみたものに過ぎない。ならば心のある演奏と言うのもその程度の意味でしかない。クスィはボクが好きな曲をボクが心地よいと思うように弾いているんじゃないか?」
「そうです。あなたの様子を見て選曲し反応を見て演奏を調整しています」
やはりそうかと思った。クスィの演奏はいつも
最上とされる
完全再現演奏よりも良く聞こえる。
「クスィ、それはもう機械を、いや、もしかしたら人間さえも超えている。君がしている事が、ボクの感情を動かしてしまっている。いうなれば、君は心のある演奏を実現できてしまっているんだ。それはもう言われなければ本物と区別がつかない」
機械ゆえの
超絶技巧に、聞いている者の
為にアレンジまで
加えているのなら、
人形だと知らされなければ誰だって手放しで
称賛するだろう。
「あの絵と同じように?」
夫人に問いかけた絵の事が浮かび、
頷く。
「そうだ。きっとどこまでいっても人形に心はないと人は言うだろうけれど、人形だと
提示されない限り区別がつかないなら、もうそこに意味なんてないんだ」
区別がつかないならそこに意味は無いと
理屈付けながら、ボクはソムニウム・ドライブを受け入れることはできなかった。夢に
浸る事を拒否しながらも、現実を夢で満たそうとしている
矛盾を脳裏から追い払う。
自らを正当化するための嘘を人はいつだって必要としている。
「ボクは君に心の存在を感じている。だから君には心があるんだ」
「それは
錯覚です」
「そうかもしれない。君にとっては何処まで行ってもそうなのだろう。でもボクは君に心があると感じ、愛されていると感じ、そして君を……愛している」
僅かな
躊躇いを押しのけてそう言った
途端、
此方を見つめる表情に
戸惑いが浮かんだ。
「あなたは私を……愛しているのですか?」
「ああ、そうだよ」
その
肯定は今まで口にしてきた、どの愛しているよりも確かなものだった。
「それは間違っています。愛とは心を持つ人間の
双方向的な感情である
筈です。私がどれだけ
適切な反応を返せていて、あなたが私に心を感じているとしても、私には心が無く、愛を理解できていません。あなたを愛せていません」
クスィは
哀しそうに言った。それすら
適切と判断された反応に過ぎないのだろう。
「それでもいいんだ。ボクだって愛なんて理解できていない。けれど、どうしようもなく君に
惹かれている。これが
錯覚でも、本来は人に向けるべき感情の
誤作動でも構わない。もしもボクがナイフで君を傷つけながら、抱きしめてくれと言ったらどうする?」
「抱きしめます」
反論を待たず続けた問いに、一瞬も迷う事なくクスィは答えた。
「
抵抗しようとも逃げようともせずに?」
「はい」
「どうして?」
「あなたが私を傷つける事と抱きしめられる事を望んでいるからです」
想像していた通りの答えに
胸が
高鳴る。
「そうだ。きっと君はそうしてしまう。逃げる事はおろか悲鳴すら上げず、
自らが
動作不能に
陥るまでボクを優しく抱きしめてくれるだろう。そしてそれはボクが君の管理者であるからだね」
「そうです」
クスィの同意に、笑いだしてしまいそうだった。
「そう、その一点によってのみ君はボクを優先する。資産や容姿、思考に思い出、人が人を愛する為に必要とする要素の何一つとして君は必要としない。ボクが何をしても、何を失っても、君はそばに居てくれる。それはまさに人の
賛美する真実の愛そのものだ。本能的な欲求や社会的
打算の
妥協点ではない空想上の産物でしかなかったそれが、科学的なものによってようやく
現出する。それはとても、とても素晴らしい事なんだ」
興奮を隠せなくなったボクとは対照的にクスィの表情は
陰って見えた。
「それは正しい事でしょうか?」
口にされた言葉は、まるでクスィが自分自身を否定したがっているようにも聞こえた。
「何が正しいかなんて誰にも決められない。そんなものは個人の勝手な判断に過ぎない」
「そうかもしれません。けれど、偽物だと解りきっているものは、何処まで行っても本物にはなり得ません。例えそれが本物を超えているように見えたとしても」
言葉を返そうと開きかけた口を閉じた。何かを続ける事はできただろう。だが目的は彼女を言い負かすことでは無い。だから違う言葉を探す。
「だとしてもそれを選ばせてくれないか、ボクは人を愛する事ができない」
「
何故です?」
此方をじっと見つめる深く
青い瞳に、ずっと押し殺していた隠し事を引き
摺り上げる。
「人は
所詮肉で、神が
創りたもうた神聖な何かだと信じ込むことができなくなってしまったから……。昔は違った。愛を持っていると思っていて、そして人を
抱いた。けれど
高揚と
快感がもたらしたのは強烈な自己感覚だけで、
果ててしまえばそこに存在するのは生殖器を
露わにした
なまもの
に過ぎなかった。荒くなった呼吸と脈。自分もまた肉でしかないという実感に
目眩がした。
未知を
既知とした事でそこにあった
筈の何かが消えてしまった」
あの時口にした愛しているという言葉は
無味乾燥に
響いた。あれは自分に言い聞かせるための言葉だった。
回された腕、触れた肌から
伝わる温もりと鼓動。皮膚の上を
滑っていく汗。叫び出したいのを必死で
堪えた。愛していた
筈の女が満足そうに笑った。同じ気持ちを共有していると思っていたのだろう。けれどボクは置き去りにされていた。
「結局、
薄ら
寒さだけが残り、ボクは自分が彼女を、いや、そもそも人間を愛していなかったことに気が付いた。ただ、救いを求めていただけだった。人々が
讃える愛というものを手に入れたのならば、きっと満たされる
筈だと、そう勘違いをしていた。少なくともボクはそれに
浸れなかった。人は肉だ。その中には
糞尿が
詰まり、
老い、そして死ぬ。それをボクは愛せない。……だけど君は違う、君を
構成する何一つとして
醜く
汚らしいモノは無い。
排泄をせず、死ぬ事はおろか、
老いる事さえも無く、
私欲や
打算では動かない。君はボクの理想だ」
人を神の似姿とするのなら、人の完璧な似姿でありながら人のような
醜さを持たない彼女は、きっと人よりも神の似姿に
近しい。
変わる事の無い綺麗な体と、存在を感じさせながらも無いのかもしれない、人のものとは違う
恐ろしく
澄んだ心。そこにボクは
惹かれているのだ。例えこの気持ちが
錯覚に過ぎないのだとしてもそれで良かった。
「それに、例え君に心が存在しなくても、ボクは君と言葉を
交わす事、君といる事で、人間でいられるんだ。完全ではないとしても少なくともその
ふり
が出来る。だからどうか、正しくなかったとしても、そばにいてくれないか……」
クスィの
代わりになるものなどない。それ
程までに、ボクはクスィに
依存している。
口にした言葉が否定される事はないと確信しながらも、それでも不安になったボクを見てクスィは
僅かに目を
細め、困ったような笑みを見せた。
「仕方がないですね。とりあえず今はそれでいいという事にしておきましょう」
安堵と共に
頷いたボクに、クスィが水の入ったコップを差し出す。
「……さあ、もう眠らなくては、私の
所為で予定の就寝時刻を過ぎてしまいました」
「まだ眠りたくないんだ。もう一曲何か
弾いてくれないか」
「駄目です。本当はさきほどの演奏が終わったらお薬を飲んで、おやすみになる約束でした」
憐れみを
請うような表情を作ってクスィを見つめてみる。
「そんな顔をしても無駄ですよ。あなたはいつもどうにかして夜更かししようとしますからね」
突き放すような言葉とは違って、その顔は穏やかで、もしかしたらクスィは、眠りたくないボクの
為に
問いかけてくれたのかもしれないと思った。約束を破らないように自分の所為にして……。
「目を覚ますまで、ここにいますから」
思考の
所為で動きが止まっていたのを不満の表れだと
捉えられてしまったようで、
駄々をこねる
幼子に言い聞かせるようにクスィは付け加えた。
気恥ずかしさと共に何も言えなくなって、仕方がないから袋から取り出した
錠剤を飲んだ。
空になったコップを返すと満足そうに
微笑んだクスィが機械式のベッドを操作して倒していく。照明が
絞られ室内は
薄暗く
沈む。
手を伸ばして
眼鏡を
机上の
箱にしまい、ぼやけた世界で目を
瞑る。
「おやすみなさい」
その
澄んだ声に返事をして、眠る
為に思考を止めた。