第41話 あなたの為に②
文字数 4,522文字
目に映 る古 びたアパートの壁。身体は横になっていて、頭が何かひんやりとした柔 らかいものに載 っている。
「危ないから、動いちゃダメ」
顔を動かそうとしたら優しい声に叱 られた。そして耳の中に何かが触 る。それで耳かきをしてもらっていた事を思い出した。
台所にある小さな窓から熱 い風と蝉 の声が流れてくる。今は夏で、だから触 れている母さんの足の方がひんやりとしているのだ。そういえば、何かを忘れている気がする。何かをしようとしていたような。千歳 と勉強をする約束だっただろうか。
「今日、千歳 が来るかも」
「千歳 ?」
不思議そうな声を聞いて気が付く。母さんは千歳 の事を知らないんだった。
「友達。いや、それ以上に大切な人なんだ。岬 さんにそれからクスィも、後で紹介するよ」
「そう、沢山 大切な人が出来たんだね」
「うん」
僕の報告 を聞いて弾 んだ母さんの声に、嬉しくなる。
「じゃあ、もう大丈夫だね」
何気なく続けられた言葉。それに何故か不安を覚えた。声音 は変わっていないのに、どうしてだか凄く嫌な予感がする。離 れようとしている耳を掻 いていた棒の感触。それが無くなって、終わりを告げられてしまったら、何もかもが消えてしまうような気がした。
だからその前に体を起こして、母さんの腕を掴 まなくちゃならなかった。そんなものは僕の思い違いで、母さんはきっと吃驚 するだろうけれど、それでもそうして、そして母さんを此処から連れ出して、みんなを紹介して、それから、それから、それから……。
「おはようございます」
目が覚めた途端 、クスィの顔が見えた。一気に現実に引き戻される。降 り注 ぐ光の中、微笑 みながら此方を見つめるその顔からは傷が無くなっていて、伸ばした手で触 れると、そこにはひんやりとした滑 らかな肌があった。
「良かった。治ってる」
「はい」
その返事が、目覚めた時に覚えた喪失感 を払 っていく。失われたものはもう戻らない。けれど確かに、今、目の前にあるものは守る事が出来た。
「ここ、は?」
「塔 の地下、人形都市 の中枢 です」
返ってきた言葉を聞きながら自分の頭がクスィの膝 にのせられている事に気付く。ひんやりと柔 らかいクスィの腿 、それであんな夢を見たのだろう。
「どうして、こんなところまで来てしまったんですか?忘れるように言ったのに」
問いかけたクスィはどこか複雑な表情をしていて、少しだけ怒っているような気がした。
「クスィが呼んだから」
クスィに触 れている左手の指環 には青 い光が灯 っている。
「それが反応してしまったのは、佳都 が私に会いたいと願って、泣いてしまったからですよ。私は来てほしくはなかった。実際、危険でした」
「そっか……でも、どうしてももう一度会いたかったんだ。……君を助けたかった」
「人形 の為 に命を懸 けるなんて馬鹿げていますよ。本当に仕様 がない人です」
呆 れたみたいにでもどこか嬉しそうに微笑 んだクスィは目にかかった僕の髪を指先でそっと払 った。
「けれど、おかげで人形都市 の再起動は果たせました。防衛機構 とそれに組み込まれていた人形達の停止も完了し、私は身体を完全に修理できた」
それを聞き、改めて自分がそれを成し遂 げられたのだという誇 らしさが生まれる。
「そっか」
「ええ、もう心配していただかなくてもいいんですよ」
晴 れやかにそういったクスィの言葉に僕が笑みを返した時、微 かな振動 と音を感じた。
「この揺 れと音は?」
「攻撃を受けているのです」
なんでもない事のようにクスィは言った。
「攻撃?」
「佳都 が眠っている間に皇国政府と交渉を試 みたのですが、受け入れてもらえず軍が動き出してしまいました」
不穏 な言葉に急いで身を起こすと、壁面に映像が浮かんでいた。それが外部の光景である事をすぐに理解する。
空には無数の黒 い点が浮かんでいて、海には湾 を封鎖 するように軍艦 が並んでいる。
「戦闘を避ける為、人形技術 に対し妨害信号 を送っているのですが、流石は世界最大の人形技術保有国です。このような事態も想定していたのでしょう。展開されている兵器群は人形技術 に依存 しない操作系の有人機であり、用いられている砲弾も干渉 を受けない単なる高質量体 です」
確かに都市の外縁 を囲 む高速道路を進んできているのは多脚式 ではなく、キャタピラ式の戦車だった。軍事施設からいつもは海の向こうを睨 んでいる巨大な砲台 も今は此方 を向いていて、その固定砲台 からの砲撃を受けた瞬間、室内が大きく揺 れた。
「けれど大丈夫です。この施設 は頑丈 ですし、人形技術兵器の作動を妨害 している事により有効となる攻撃が実行されるにはまだ暫 くかかる筈 です。また軍は攻撃前に大規模な演習 を名目に住民を避難させた為 、人的被害の心配もありません。千歳 は此方 に向かおうとしたようですが、途中で保護されて地下避難所に入った事が確認できています。岬 さんも同様に避難済みです」
「それなら、良かった……でも、これからどうすれば」
「人形都市 を完全に停止させましょう。そうすれば彼らが攻撃する意味は失われる。彼らもできるならこの事態を本当に演習 だったとして処理したいでしょうから……あれを」
クスィが指さした先。部屋の中央には黒 く精緻 な意匠 を施 された小さな一つの椅子があった。
「私があの椅子に座れば、全ての権限 が管理者 である佳都 に与えられます。ですから私が座 ったら、管理者 として人形都市 の完全停止を命じてください。それに伴 って管理者 として権限 は失 われてしまいますが、此処から出るだけなら可能ですし、何も問題はありません」
問題はないというその言葉に何故だか不安を覚える。
「クスィも一緒に帰れるんだよね?」
すぐに頷 いてくれると思っていたクスィは何故か沈黙 した。
「……残念ですが、それはできません。人形都市 を停止させ、封印 を完全なものにする為 には、管理人形である私も此処で停止しなくてはなりませんから」
「そんな……それじゃあ駄目だ。僕はクスィを助けに来たんだ」
「いいえ佳都 。そもそも私達の目的は封印 を完全なものにする事だったはずです。私を助ける為にそれが叶 わなくなれば意味がありません」
「違う……そんなの、僕にはどうでもよかったんだ。クスィを助けられるなら……それにクスィだって僕と一緒にいてくれるって言った」
「確かに言いました。けれど可能な限り、と」
確認するみたいに発せられた言葉に絶句する。
「そんなの……そんなの嘘と一緒じゃないか……まさか、あの時にはもう……」
責 める為に語気を強めた僕に、クスィは少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「此処まで辿り着いてしまったらこうするしかない事は分かっていました。嘘だと言われてしまったら確かにそうかもしれません。けれどお伝 えしても佳都 を苦しめるだけだったでしょう。それに佳都 が語 った目的も嘘だったならおあいこです。私達はお互 いに嘘をついていました」
クスィの声が僅 かに弾 み、その口元が笑みを作る。僕はきっと正反対の表情を浮かべている。
「戦闘範囲外に出る安全な通路は端末に送信済みです。ですからあとは……」
「嫌だ。僕はクスィを助けたいんだ。何か……そうだ、もういっそ全部やめて逃げよう。何もかも放り出してそれで……」
「どこへ逃げるというのですか?都市は完全に包囲 されています」
「それなら人形都市 を停止させずに軍を退 ければいい。再起動している今ならそれができる筈 だ。そうだろ?」
それを聞いたクスィの表情が強張 る。自分の言葉が駄々 をこねる子供のそれだという事は分かっている。けれどクスィに同意する事は出来ない。そうしたら全部終わってしまう。
「……攻勢機構 を稼働 させれば目前の軍を退 ける事は可能です。ですが、そんな事をしてしまえば大戦 がもう一度起きてしまいます。この都市は戦場と化し、膨大 な数の犠牲者がでます。そして私達は敗北する。世界を相手に勝つ事は出来ません。なによりその後 にはきっと残った人形技術 を巡 って人間同士の争いが起 こります。ただ惨禍 を招 くだけ、他に道は無いのです。千歳 や岬 さん。佳都 の大切に思う人達をそれに巻き込むつもりですか?」
向けられた強い眼差 しに耐えられず目を逸 らす。
「でも……でも僕は、あんな思いをするのはもう嫌なんだ。だから何か、何か別の方法を」
そんなものが無いのは分かっていて、それでもそれを拒 みたかった。
「佳都 」
穏やかで、けれど力強い呼びかけに視線を向けるとクスィは優しく微笑 んでいた。
「私は死ぬのではありません。これはあの時のような意味ではないですよ。本当にただ、少し長い間眠るだけです」
「そんなのは言葉遊びだ。壊れなくたって目を覚まさないなら、それはあの時と同じ意味だよ」
叫び返した言葉にクスィは違うとは言わず。ただ涼 しい顔をしていた。
「けれど、もともと私は百年以上眠っていましたし、目覚める予定も本当は無かった。それに私以外の人形は目覚めさせなかったじゃないですか」
「そんな理屈には惑 わされ無い。クスィ以外の人形がクスィと全く同じ存在でも、僕にとっては違うんだ。クスィとの間には共に過ごした日々の記憶 があるから」
千歳 が僕にそう言ってくれたように、岬 さんの事を嫌いになれなかったように、母さんの事を忘れられないように、クスィをどうしても助けたいように、誰かにとって誰かを特別にするもの。
「そうですね。確かにその通りかもしれません。私にとって佳都 が特別であるのは、佳都 が管理者 であるからというだけではなく。出会ってからの事が全て私の記録 の中にあるからかもしれません。でもそれならば、尚更 私は佳都 の提案 を拒絶 しなければなりません。解 っていただけますね?佳都 は十分私を助けてくれました。だからこそ私は此処まで来られたのです。あなたとの日々、その記録 と共に私は眠ります。私に向けてくれたその優しさは、今、佳都 のそばにいる大切な人、そしてこれから出会う人達に向けてあげてください」
何も言えなくなった僕を残してクスィが身を翻 す。踏み出されたその足は置かれた黒 い椅子に向かっている。
「眠ってしまったら、いつ目を覚ませる?」
この瞬間を僅 かでも引き延 ばしたくて、口を吐いた問いかけにクスィが足を止めて振り返った。
「いつか世界が本当に平和になって、人が人形技術 なんかで争 わなくなったなら、その時に」
それは間違いなく嘘だった。そんな日はやってこない。例え実現する筈 のないそんな世界が現 れても、きっとクスィが目を覚ます事は無い。でも、それを信じたふりをして、分かったと微笑 み返すべきだった。涙を堪 えてそうすべきだった。
でも、そう出来ないでいる内 に、クスィが椅子に腰を下ろした。
「さぁ佳都 。人形都市 の停止を命じてください」
僕を促 す言葉に頷 きかけた時、逃げ道を探し続けていた思考が何かに引っかかった。今そうしたように必要があるならクスィは嘘をつく。指環 が反応したのは僕が泣いていたからだとクスィは言った。でも本当にそうか?あの時僕は何をした。何と言った。
「佳都 ?」
案 ずるようなクスィの顔。気付いた。気付いてしまった。そしてそれを確かめる方法はある。それがクスィの気持ちを裏切る酷く最低な方法だとしても……。
「危ないから、動いちゃダメ」
顔を動かそうとしたら優しい声に
台所にある小さな窓から
「今日、
「
不思議そうな声を聞いて気が付く。母さんは
「友達。いや、それ以上に大切な人なんだ。
「そう、
「うん」
僕の
「じゃあ、もう大丈夫だね」
何気なく続けられた言葉。それに何故か不安を覚えた。
だからその前に体を起こして、母さんの腕を
「おはようございます」
目が覚めた
「良かった。治ってる」
「はい」
その返事が、目覚めた時に覚えた
「ここ、は?」
「
返ってきた言葉を聞きながら自分の頭がクスィの
「どうして、こんなところまで来てしまったんですか?忘れるように言ったのに」
問いかけたクスィはどこか複雑な表情をしていて、少しだけ怒っているような気がした。
「クスィが呼んだから」
クスィに
「それが反応してしまったのは、
「そっか……でも、どうしてももう一度会いたかったんだ。……君を助けたかった」
「
「けれど、おかげで
それを聞き、改めて自分がそれを成し
「そっか」
「ええ、もう心配していただかなくてもいいんですよ」
「この
「攻撃を受けているのです」
なんでもない事のようにクスィは言った。
「攻撃?」
「
空には無数の
「戦闘を避ける為、
確かに都市の
「けれど大丈夫です。この
「それなら、良かった……でも、これからどうすれば」
「
クスィが指さした先。部屋の中央には
「私があの椅子に座れば、全ての
問題はないというその言葉に何故だか不安を覚える。
「クスィも一緒に帰れるんだよね?」
すぐに
「……残念ですが、それはできません。
「そんな……それじゃあ駄目だ。僕はクスィを助けに来たんだ」
「いいえ
「違う……そんなの、僕にはどうでもよかったんだ。クスィを助けられるなら……それにクスィだって僕と一緒にいてくれるって言った」
「確かに言いました。けれど可能な限り、と」
確認するみたいに発せられた言葉に絶句する。
「そんなの……そんなの嘘と一緒じゃないか……まさか、あの時にはもう……」
「此処まで辿り着いてしまったらこうするしかない事は分かっていました。嘘だと言われてしまったら確かにそうかもしれません。けれどお
クスィの声が
「戦闘範囲外に出る安全な通路は端末に送信済みです。ですからあとは……」
「嫌だ。僕はクスィを助けたいんだ。何か……そうだ、もういっそ全部やめて逃げよう。何もかも放り出してそれで……」
「どこへ逃げるというのですか?都市は完全に
「それなら
それを聞いたクスィの表情が
「……
向けられた強い
「でも……でも僕は、あんな思いをするのはもう嫌なんだ。だから何か、何か別の方法を」
そんなものが無いのは分かっていて、それでもそれを
「
穏やかで、けれど力強い呼びかけに視線を向けるとクスィは優しく
「私は死ぬのではありません。これはあの時のような意味ではないですよ。本当にただ、少し長い間眠るだけです」
「そんなのは言葉遊びだ。壊れなくたって目を覚まさないなら、それはあの時と同じ意味だよ」
叫び返した言葉にクスィは違うとは言わず。ただ
「けれど、もともと私は百年以上眠っていましたし、目覚める予定も本当は無かった。それに私以外の人形は目覚めさせなかったじゃないですか」
「そんな理屈には
「そうですね。確かにその通りかもしれません。私にとって
何も言えなくなった僕を残してクスィが身を
「眠ってしまったら、いつ目を覚ませる?」
この瞬間を
「いつか世界が本当に平和になって、人が
それは間違いなく嘘だった。そんな日はやってこない。例え実現する
でも、そう出来ないでいる
「さぁ
僕を
「