第24話 もしもあなたが世界を壊してしまうのだとしても③
文字数 5,739文字
低くなった陽光で空は赤く染まり、手を繋いだ僕と母さんの影は長く伸びていた。何度も振り返りながら進んでいたら手が引っ張られて、優しい温もりと石鹸の匂いに包み込まれた。
「ごめんなさい」
不安だという事が伝わってしまったと思って謝ると、さらに強く抱きしめられた。
「ごめんね。謝らなくちゃいけないのは、私の方なのにね」
母さんの声は、少しだけ震えていた。
「これからは、もうそんな思いさせないから。私が守るから」
「僕が怪獣でも?」
そんな事を口にしたのは、僕はきっと怪獣で母さんは僕を連れて逃げたけど、いつかヒーローが倒しにやってくるからだ。
それを想像して身体が震えた。母さんは聞き返したりせず、少しだけ身体を離して、僕の目をまっすぐに見つめた。
「もしも、けいとが怪獣で、街を壊してしまっても、けいとを倒すためにヒーローが現れて、世界中の人がそのヒーローを応援していても、私だけはけいとの味方でいて、絶対にけいとを守る。これからずっと……そう約束する」
僕の小指に母さんの小指が絡められ、ゆびきりをした。もう一度母さんの身体に顔を埋めると優しい手が、僕の頭を撫でた。
割れた窓硝子からコンクリートの屋根と、夕日を反射して煌いている貯水池の水面が見える。視線を遠くに向ければまだ廻っていない最後の索墳。
病院を抜け出してからは連日、クスィの指示に従って居場所を変えながら人目の付きにくい夜に索墳を廻っていて、今日も半日かけてこの廃墟まで移動してきた。
「僕は母さんを助ける事ができなかった」
窓から差し込んだあの日と同じ眩しさに目を細めて、止まっていた話の続きを口にする。
「目の前に居たのに、何もできなかったんだ。崩れてきた天井の下敷きになった母さんを助ける為に瓦礫を持ち上げようとしたけど、どれだけ力を込めても、それは少しも動かせなかった。
母さんは危ないからやめてって僕を抱きしめて、大丈夫って繰り返して、でも、そうしている間にもその身体からは血が流れ出していたから、だから全然大丈夫じゃなくて、早く助けなきゃいけなかったのに母さんは僕を離してくれなかった」
あの時、台所から転がってきたのだろう包丁が広がる血溜まりに触れて赤く染まるのを見た。
「最後に母さんが口にしたのはずっと僕を守るって言った約束を守れない事に対する謝罪で、でもそんなのどうでもよくて、守ってくれなくてもただそばにいてくれればよかったのに……、助けたかったのに……、僕にはそれをするだけの力が無かった」
クスィは黙っていたけど、そっと手を握ってくれて、それが聞いているという事を僕に伝えた。
「全部が終わってしまった後、棺に入れられた母さんは、良く出来た偽物みたいだった。流れている物悲しい音楽はどこか滑稽で、全部が下手な芝居じみていて、僕を騙す為に誰もが演技をしているのだと思った。
すぐに舞台の奥から笑いながら母さんが現れて種明かしをしてくれると思ったんだ……。でも、いつまで待ってもそんな事は起きなかった」
急に胸が苦しくなって、あの時は少しも流れなかった涙が零れた。僕の手を握っていた左手が離され、代わりに身体を引いた。抱えられた頭。小さな胸に頬を伝った滴がしみ込んでいく。
「分解される母さんの骨を宝石に変える事もできた。でもそれにはお金が必要で、そんなお金はなかったから少しだけ灰にしてもらったんだ。それならお金がかからなかったから……
小さな容器に入れられた灰からは温もりも、いつもの匂いもしなかったけど、溢してしまわないように、少しずつ口に入れて飲みこんだ。そうしたらずっと一緒に居られると思ったから」
心臓の辺りに触れる。何度呼びかけても応えてくれなかったけど、それでも母さんはこの身体の中に溶けて循環しているのだと信じたかった。そうでなかったら何処へ行ってしまったのかわからない。
天国に行ったんだと斎場の女の人は言った。そこは空の上にある暖かく穏やかな場所で、そこから僕を見守ってくれていて、きっと僕の力になってくれると。
でも母さんよりも先に天国に行った筈の誰かは母さんを助けてくれなかったし、人が打ち上げた船は天国を見つけられずに空を通り抜けてしまった。
それともそこは圧倒的にこの惑星と離れてしまっているから何度祈っても微かな応えすら返って来ないのだろうか?膨大な時の果てでこの惑星が消え、宇宙すら果ててしまってもそこは存在して、いつかそこで再会できるのだろうか?
ずっと考えているのに答えが出ない。いや、本当は分かっていて、ただ認めたくないだけなのかもしれない。
涙を拭い、少女のようなクスィに泣きついてしまった事を情けなく思いながら身を離す。
「佳都がなぜ私を助けようとするのかわかりました」
「初めはそうだったかもしれない。でも今は違う。母さんのことが無かったとしても僕は……」
誤解して欲しくなくて、慌てて訂正した僕に、クスィは優しく微笑みながら頷いた。
「佳都が伝えたい事は分かります。でも代わりでもいいんですよ。人形ですから私は気にしません。それに大切なのは今佳都がどうしたいかと、これからどうするかです」
鼻をすすりながら頷くと吹き込んだ風がクスィの右袖を揺らした。右腕が存在しないからだ。直したのだと思っていた腕は強引に動かしていただけだったらしく、邪魔になるからと、クスィが自ら引き千切ってしまった。
あれから千歳にも岬さんにも連絡していない。二人からの連絡は沢山来ているらしいけど、位置を特定され無いように全部無視していた。それを申し訳なく思っても、結局どうする事もできず、ただ終わったら酷く怒られるだろうという不安を感じながら、けれどそれよりも今はクスィの事の方が気がかりだった。
あれから僕たちは三つの索墳を廻りなんとか此処までやってきた。ペースだけ見たら順調で、クスィも取得したコードの数が増えた事で自分は本来の機能を取り戻しつつあり、クチナワに近づけばそこに流れる力の一部を利用可能になったと言った。
実際に索墳の近くにいる時のクスィは浮遊する黒い微細機械の生成と操作が出来るようになって、それで現れる人形の動きを遅らせられるようになった。けれどそれも僕等が逃走する為の時間稼ぎ程度にしかならなくて、言葉とは裏腹にクスィは段々と衰弱しているみたいに見えた。
だから僕は出来るだけ多くの人形を銃で倒して、クスィの負担を減らそうとしたけれど、それにどれだけの効果があったのかは分からない。少なくともクスィの調子が良くなっていない事は確かで、何度問いかけてもクスィは自分の活動可能時間にはまだ余裕があると言って微笑んで見せたけれど、それをそのまま信じる事も出来ず、ただ焦燥感だけが募っていた。
此処に辿り着いたクスィが唐突に昔語りをせがんだのは、僕のそんな気持ちを察したからなのかもしれない。
「佳都、よかったら今度は千歳の話を聞かせてください。まだ時間は有りますから」
僕が黙ってしまったからか、クスィが話題を変えた。それに頷きながら千歳との事を思い出す。
「千歳と出会ったのは、中学の時だった。この街に引っ越して転入してきた僕に初めは沢山の人が声をかけてくれたんだけど、それに上手く返せなくて、だからそのうち孤立しちゃって、それなのに千歳だけは変わらずに僕なんかに話しかけ続けてくれたんだ。
友達になったのは梅雨の時期だったな。外は雨が降っていて、ほら、千歳はくせっ毛だから。湿度の高い日は髪がよく跳ねるんだ。あの日も一房跳ねていて、それを直そうと何度も手で押さえつけてた。直った?って聞かれたけど、全然直ってなくて、それがおかしくて、千歳はよく髪の跳ね具合で天気がわかるって友達に揶揄われてたから。だから僕も同じように、ちょっと揶揄ってみたんだ。そしたら千歳が怒って」
「そんな事で?」
「ああ、嘘っていうか冗談のつもりだったみたいなんだけど、あの時の僕にはそれが解らなくて、本気で怒らせてしまったと思ったんだ。せっかく唯一仲良くなれそうな相手だったのに、全部駄目にしたって。
だから必至で謝って、そしたら、敬語を止めて名前で呼んでくれるなら許してあげるって……。あの時はまだ、敬語を使って名字に敬称をつけて呼んでいたから。
全部千歳の策略だったんだよ。自分は名前で呼んでるのにって、だから初めて名前で呼んだんだ。だけど呼び捨てにはできなくて、そしたら要らないものが付いてたって言い直しを要求されて……」
あの時、千歳は犬歯を見せて愉しそうに笑った。思えばあれが最初に見た意地悪な笑みだった。
「何とか呼び捨てにして許してもらったんだけど、僕の様子を見た千歳は悪い事をしたと思ったみたいで、嘘をついたお詫びに何か一つだけ願い事を叶えてあげるって言ったんだ。私に出来る事限定って条件で、急に言われて困ったんだけど一つだけ思いつくものがあった」
「何をお願いしたんですか?」
「その、……友達になってほしいって」
口にして恥ずかしくなる。
「勇気を振り絞って言ったんだよ。でも、千歳は呆然とした顔をしてて、言うべきじゃなかったんだと思った。きっとそんなの嫌に決まってて、調子に乗ってしまったって、千歳の顔はすぐに不満そうなものに変わったから、でもそれは嫌だからじゃなかった。
もうそうだと思ってたのにって言ってくれた。友達だと思っててくれた相手に友達になって欲しいって言うなんて酷い非礼で、僕はまた恟恟と謝ったよ。
千歳は呆れていたけれど、微笑んで、改めてよろしくって、手を差し出してくれた。
手を握った時。でもこれで願い事は使っちゃったから、佳都はせっかくのチャンスを無駄にしたよ。って笑いながら言われたけれど、僕にはそれで十分だった。
それが始まりで、あれから何度も怒らせたり呆れられたりしたけど、それでも千歳はそばにいてくれた」
「千歳は佳都にとって大切な人なのですね」
聞き終わったクスィがそんな事を言ったから余計に恥ずかしくなった。
「でも、千歳はなんで僕なんかに声をかけて、ずっとそばにいてくれたんだろう?」
これまでの事を思い出して今更ながらそう思った。独り言みたいな疑問にクスィが首を傾げる。
「直接聞いてみたらいいじゃないですか」
「そんなこと……」
「答えは千歳しか知りませんよ」
「それは、そうだけど……その前に、もう許してもらえないかも」
「もしそうなら何度も連絡を取ろうとはしないでしょう。怒ってはいるかもしれませんけどね」
少しだけ生まれた希望を、続けられた言葉が粉砕した。
「全部終わったら、謝って話せばいいのです。きっと許してもらえますよ」
「そう、かな?」
「人の使う言葉は効率が悪いですから、何かを伝える為には沢山の言葉が必要で、時には誤解だって与えてしまう。けれど話さなければ何も伝えられません。
負い目を感じているのなら、なおさら佳都から始めるべきです。これからもそばにいて欲しいと、そう思っているのでしょう?」
「そうだね。……そうだ」
クスィの言葉にいつか千歳に言われた事を思い出す。
「例えるなら人は本のようなもの。世界という巨大な書庫に納められた膨大な書物。どれも難解だから簡単に内容を知る事はできないし、数が多すぎて誰も全部読もうとは思ってない。装丁が美しいなら手に取ってもらえるかもしれない。タイトルやあらすじが興味を惹くものだったら序文ぐらい読んでもらえるかもしれない。でもそうじゃなかったら?誰がそれを手に取って読みこんでくれると思う?きっと誰もそんな事しない。
だから、一目で見て分かるほどに自信があるのでもない限り、自分から中身を見せていかなきゃならないんだよ。そうじゃなきゃずっと知ってなんかもらえない」
「もしもそれでうまくいかなかったら?」
口にしてしまった言葉に怒られるのを覚悟した時。千歳は呆れたような顔をしたけれど「その時は仕方がないから私がそばにいてあげる」と悪戯っぽく笑ってくれた。
あれは、きっと引っ込み思案な僕に対しての励ましの言葉だった。クスィが今言ったように千歳がいつか言ってくれたように、僕から始めなければならない。千歳にさえそれができないなら、いつになっても他の誰かにはできないだろう。
「クスィは人形かもしれないけど僕なんかよりずっとしっかりした人間に思えるよ」
「人間について学習しましたからね」
心底そう思った僕の言葉に、クスィは冗談のように答えて胸を張った。それを見ながら思いつく。
「あのさ、謝る時にさ、その……仲立ちしてくれないかな」
「そんな事をしたら、千歳はたぶんがっかりしますよ」
「……ああ、きっとそうだ」
想像して少しだけおかしくなる。千歳はきっと、クスィを引っ張り込むなんてと非難して、続く小言が倍ぐらいになって、ひとしきり怒った後で溜息をつくだろう。
それでも一人で立ち向かうよりはと思ってしまう所が、僕の情けないところなのだ。
「仕様が無いですね。じゃあこれをあげます」
そう言うとクスィは胸元から千歳に貰ったあのアクセサリーを引っ張り出して僕の首にかけた。
「持っていてください。佳都が千歳を信じられるように、少しだけ勇気を奮い立たせられるように」
差し込んだ陽光を反射させた石が煌めく。それはとても綺麗で、不思議と暖かささえ感じるように思った。千歳がそばにいてくれるような、そんな気がするからかもしれない。
「出来るだけ頑張ってみるよ。千歳には謝るし、それから岬さんにはクスィの事を説明する。だから全部終わっても一緒にいて欲しい。クスィも、もう僕にとって大切な人だから」
僕の言葉を聞いたクスィは少しだけ微笑んだ。
「私の管理者は佳都です。だから佳都が必要だと言うのなら可能な限りそれに従いましょう」
「クスィが必要だ」
そう言って笑みを返す。けれど喜んでくれると思ったクスィの顔は陰った。
「どうかした?」
「……いえ、何でもありません。そろそろ行きましょうか、世界を救いに……」
太陽が見えなくなって訪れた暗がりの中にクスィの表情は沈んでいて、そこから何かを窺う事は出来なかった。だからただ頷いて立ち上がった。
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