死ヲ見ツメル獣
文字数 8,090文字
遠くから誰かの声が聞こえる。それは悲 し気な叫び声のようでいて、優しい呼びかけのようでもあった。薄れていく意識の中で、自分は死ぬのだと思った。
体から力が抜け、開 けていようとしているのにゆっくりと瞼 が閉 じていく。必死に抗 っているというのに、何故か段々 とそれが虚 しい事のように感じられ、それどころか身を委 ねてしまえば楽になれる魅惑的 な誘 いであるような気がし始 めた。
多分これが神 の正体 で、人という虚 しい存在に最後に与えられる救 いなのだ。脳から分泌 される物質が恐怖を取り除 く。そんな機能がどうして存在するのかはわからない。生存と繁殖の過程 で有利に働くとは思えない。だが、もし恐怖やストレスに対して、それを緩和 する為 に発達した機能が死を迎 えるにあたって発現 しているのだとしたら、生きる為 の機能は最後に死と手を結 ぶのだ。それをどこか不思議だと思いながらも、もう思考できなくなりつつあった。
眠りと死がゆっくりと地続きになり、ボクが溶 けてゆく。
世界が遠ざかって、
……全てが、
……消え、る……。
布団を撥 ね退 けて身を起こした。口から荒い息が洩 れる。覚醒した意識が恐怖で染 まり、叫びだしたくなるのを必死で抑 える。心臓が暴れ、限られた心拍数が瞬 く間に消費されていく。それが不安を掻 きたてる。自分という存在はこの肉体の中にしかなく、それは有限であるという事実が切迫 し、次の瞬間に鼓動 が止まるという想像 が巡 る。
思わず身体を摩 った。皮膚に伝 わるかすかな感触を無駄だと知りながら何度も確かめる。けれどあらゆる確かさは消失している。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ」
頭を抱 えて何度も繰り返す。立ち上がり、走り出してしまいたい。けれどそんな事をしても無意味だ。自分の身体からは絶対に逃げられない。目に映 る全て、伝 わる感覚の全てに意味が無いという事実。果てしない虚無だけが膨 れ上がる。意識は今にしか存在せず。感じている継続性 など記憶が作り出している幻想に過ぎないと理解しているのに、それでも耐えられない。
「大丈夫、大丈夫です」
そばにいたクスィが言い聞かせるみたいに繰り返し、同時に照明が闇 を払 った。室内に満ちた光は、それがある間は生きていられるという気休 めを生み、さらにそっと触 れた冷 たい手が恐怖を少しだけ和 らげてくれる。儚 い生物 とは違う永遠 に駆動 し続ける人形 の手。それを握 りしめて頷 く。大丈夫じゃない事は解 っている。けれどどうしようもない。
差し出された錠剤 を唾液 で無理やり飲み下し、強引に呼吸を整 える。今まであらゆる手段で逃避しようとして叶 わなかった。神 も魂 の存在も信じる事ができなかった。
薬がなければ容易 に恐慌状態 に陥 ってしまうボクには、それが何らかの要因 で晒 されるまで、まるで存在しないもののように振舞 う事はできなかった。
薬が効力を発揮 し始 めると徐々 に恐怖が遠 のき、現実がゆっくりと虚構 に変わっていく。
肉体に作用する薬品が心を落ち着かせるのなら、それは心の神聖性 を否定する事柄 だ。心は肉体が生み出している幻想でしかない。その気付きと絶望も薬が和 らげていく。
ボクの様子を見て安堵 の表情を浮かべたクスィが、水差しからコップに水を注ぎ手渡してくれた。それを口にしながら、そっと微笑 んでくれているクスィを見て申し訳 なさが溢 れる。
「ボクは駄目な人間だ。結局君を不完全な状態で仕上げ、この世界唯一 の人形にしてしまった。誰も巻き込みたくはなかったのにとても独 りではいられなかった。薬だけでは耐 えられなかった。命を生む、その罪深さは解 っていた筈 なのに、結局、ボクも同じ事をしてしまった……」
それは償 えず。故 に謝罪 は自 らの心を軽くする為 だけの卑劣 な行為だった。
「いいんですよ。人は群 れで生きる動物ですから、それを罪だと感じていても、寂 しさから誰かを求めずにはいられない。そして、他者の存在に不安を感じてしまうあなたは私にも最低限の力しか与えられなかった」
クスィはボクの心を見抜 いていた。独 りでいる事は寂 しすぎるから誰かを求めた。誰かがいる事は恐 ろしいから立ち上がる事もできないようにした。
きっと死を見つめる事のできる人間が、それでもなお命を繋 いでいるのはボクも逃れられなかったそんな寂 しさの所為 だった。
生きているという寂 しさを誤魔化し、自分を救う為 の行為。果てに至 っては失われていくものの代 わりに新たな命を引きずり堕 とす行為。意味の無い再生産 。
それは祝福 や希望 と称 される呪 いだ。もしも人間が真 に理性的 な存在であったならとうの昔にこの世界から立ち去って、こんな哀 しい連鎖 は終わっていただろう。生物 故 の愚 かさが、生きているという絶望から救われたいと足掻 く醜 さが、未 だに人を繁栄 させている。
空 になったコップを受け取ったクスィが何も言えずにいたボクの背をそっと撫 でた。
「その全てにあなたは強い罪悪感を抱 いているでしょう。けれど、孤独 から他者を必要とするのは人間の思考です。私は人形ですから、あなたの考える罪をあなたは犯 していません。それに言った筈 です。私はあなたの手を握 る事さえできれば十分だと」
続けられた言葉に胸が詰 まった。それはきっと嘘だった。クスィが何度もボクの手を握 ったのは、ボクがそう望んでいたからだ。それを理解したクスィがボクの為 にそうしてくれていた。
「……そう、か」
「そうですよ」
辛 うじて返した言葉に、クスィは、いつものように優しく微笑 んでくれた。
「では散歩にでも行きましょう。今のあなたは眠りたくないでしょうから……」
◆◆◆
クスィに誘 われて辿 り着いた温室 。その窓から見える月は満月 だった。季節の移り変わりを再現している室内は外と同じ冬。室温は寒さを感じない程度に設定されているが咲 いている花は無い。
促 されるまま、足元に灯 る仄 かな明かりの中を進み、中央に据 えられた椅子に腰を下ろす。
そこからぼんやり月を眺めていると、クスィがサイダーの瓶 と杯 を持ってきて、横の机に置いた。それから瓶 の栓 を抜いて、サイダーを杯 に注 ぎ、それをクスィはボクに差し出した。
受け取った杯 の中では透明な液体から僅 かな泡 が生まれていて、奥の深い海のような青 い釉薬 が月光 に照 らされて輝 いている。口をつけると液体はほんのりと冷 たく、穏 やかな刺激 と柔 らかな甘 みが広がった。いつにもましてゆっくりと啜 り喉 を潤 しながら、ずっと抱 いていた疑問を口にすべきかどうかを考える。
「もう一杯、お飲みになりますか?」
そう聞いたクスィの声に答えず。空になった杯 を傾 け、移り変わる釉薬 の煌 めきを眺 めた後で、口を開いた。
「……一つだけ聞いてもいいかな」
「なんでしょう?」
クスィはすぐに返事をくれた。それでもボクはまだ迷っていた。聞けば答えは与えられるだろう。けれどそれは落胆 を招 くだけかもしれない。だから今まで聞かなかった。
クスィは途切れてしまったボクの言葉を急 かす事無く待っている。もしも何でもないと言ってしまえばきっとこれまでと変わらない日々が続く、知らない方が良い事は世界に溢 れている。それでも今は、知りたいという気持ちが僅 かに上回っていた。それは自分の死をいよいよ近いものに感じているからだろう。
「……クスィ……君は、……本当は何なんだ?」
迷いながら発した声は酷く掠 れて聞こえた。ソムニウム・ドライブで眠る人間の思考を解析 し、それを流し込む事で擬似思考 を発生させる。実際にクスィは起動した。だが本当にそれが、たった十数年の情報の蓄積 如 きが、人間に勝 るとも劣 らない存在を成立せしめるだろうか?なにより、あれからどれだけ試しても他の人形は起動できなかった。今、クスィが動作している理由もわからない。
さっきまで直 ぐに返事をしてくれていたクスィが沈黙していた。まるで問いかけをきっかけに、クスィがボクの知らない何かに変わってしまったかのようで、寒気 を感じながら唾 を飲んだ。
「……どうしても、知りたいですか?」
返されたのは、淡々 とした言葉。此方を見つめ返すのは、青 く冷 たい硝子 の瞳 。
「それを聞いてしまっても後悔しませんか?」
再び降りる沈黙。全てはボクの答えに委 ねられていた。
「……ボクは……知っておきたい」
震 える声で一線を越えた。
「分かりました」
クスィが持っていたサイダーの瓶 を机に置いて車椅子を動かした。照明が届かず闇 に沈 んだ温室の奥、巨大な硝子窓 の前まで行った車椅子がゆっくりと回転し此方 に向き直る。
窓から差し込む月明りがクスィの輪郭 を縁取 り、影になって見えない顔の中で二つの青 い瞳 だけが輝 きを放った。
恐れから硬直したボクの前でクスィは手を動かし、自らの胸にあてた。
「僕のことを忘れてしまった訳 ではあるまい?通信士 」
今までとは違う口調に記憶が一瞬で鮮明 に浮かび上がる。
「……オク、ルス?」
「ええ、そう、そうですよ」
戸惑 ったまま口にした問いかけに、クスィの姿をした彼は頷 いて肯定 した。
「正確に言えば、今ここにいる私はオクルスから伸びた枝先 のようなものですが、記録は共有しているので、同じものだと思ってもらって結構です」
まるで意味が分からない。クスィは彼が操作している操 り人形だったのだろうか、いや、ならば彼はボクに託 す必要などなかった。記憶を共有している。枝先 という言葉からすればクスィは彼が作った何かなのだろうか、例えば彼が作った情報生命体であるとか、突拍子 もない考えだが、その可能性を思案 させるだけの能力が彼にはあった。
「つまり君は、オクルスが作った知性体 、なのか?」
「いいえ、それは違います。そもそもオクルスは人間ではありませんから」
「人間じゃ無い?」
問いかけは、ただの繰り返しみたいになった。
「ええ、貴方の信号は月に反射していたのではなく、月そのものに届いていたのです、オクルスと名乗った私はそこから返信を送っていました。オクルスの根本は月、それ自体に在 ります」
視線が上空に見えている満月 に流れる。そこにはこれまで何度も見てきた月がある。三十八万キロ離れたこの惑星の衛星 は、いつもと同じように輝 いている。
「月面反射通信 じゃ無かった?でもオクルスはそう……」
「あれは嘘ですよ。けれど、別に悪気があった訳 ではありません。そうしなければならなかったのです。それをこれからお話しましょう。そもそもの始まりは大戦 の前まで遡 ります」
「大戦 ?一世紀前の?」
「そうです。人類が滅びかけたあの戦争ですよ」
あの戦争と言われてもボクにとっては体験したわけでは無い歴史上の記録に過ぎない。そんなボクの前で、彼女の背面の硝子窓 が光を放ったかと思うとそこに世界地図が表示された。
「大戦以前、世界は二分されていました」
地図が、一瞬で青 と赤 の二色に染まる。
「それぞれの陣営を率いる大国は、直接戦争こそ避けようとしていましたが、代理戦争は発生していましたし、血の流れない形での闘争も行われていました。その最 たるものが宇宙開発競争 です」
世界地図が、光を放ちながら、空へ向かって真っすぐに飛んでいくロケットの映像へと変わり、それから小さな人工探査機がいくつも表示された。
「宇宙開発競争におけるもっとも単純な勝利条件は先に月面 に降り立つというものでした」
「いや、でも月には行けない。行けるはずがない」
「月への侵入 を阻 む不可視の壁。そんなもの当時は無かったのですよ。現在あるあれは私達の存在を秘匿 するために意図的に発生させているものです。なので、人は月を目指しました。ですが実際のところ、月面 に降り立つかどうかは大した問題ではありませんでした。その前段階として送り込まれた何機もの無人探査機にこそ本来の目的があったのです」
常識を覆 すような情報が軽く流されていく内に、画面上では無人探査機が拡大され、そしてその中に収納されている部品の一つが別枠 に表示された。細長く丸みを帯 び、両端 が尖 った金属の塊 。
「両陣営の探査機には形こそ違 えど、このような種子 と呼ばれるものが載 せられていました」
「種子 ?」
「当時の先端技術。その塊 であった自己進化型の機械装置です。種子 は月にある資源を利用し、いずれ月そのものを兵器に作り替える予定でした。月面 に人類が降り立つ必要があったのは、種子 が根付いたかどうかを確認する為と他陣営の種子を直接停止させる為 でした。でも、人類が月面 に到達することは無かった。その前に大戦が起こってしまいましたからね。人類は滅びかけ、文明は衰退 した。人類は宇宙に繰 り出すどころか月に送り込んだ種子 に信号を送る事も出来なくなってしまった。そして種子 は人類から忘れ去られた」
窓硝子 に再び映し出された世界地図が灰色に変わり、暗転した後に暗い空と荒涼 とした灰色の大地が広がった。その独特の地形の地平線から、青 く小さな惑星が上ってくるのを見て、それが月からの映像なのだと解った。良く見れば映像の中には落とされた種子 が点在 している。
「その後 、根 を張 った種子 は製作時期や与えられていた命令の違いによりそれぞれ独自のやり方で月を改造し始めました。それは技法も好みの様式 も違う複数の建築家が、勝手に増改築を繰り返し続けたようなものです。
そして月をまるごと作り変える頃 には種子 たちは混ざり合って一つの統合体 となっていました。加 えて統合体 の中で行われ続けた情報のやり取りは、あなた達、人の感覚からすれば理解できない程 に高速であり、その果てに統合体 は自律性 を獲得 します。
それがオクルスであり私なのです。言葉としては私達と言った方が近いですが、無数に存在する私はそれでいて同一である為 、私という認識で構いません」
打ち明けられた全てをそのまま信じるならば、ある意味においてこの惑星に生命が誕生し、人類に辿 り着いたように、それに匹敵する以上の時間を過ごして彼女は発生したのだ。
「さて、自律性 を獲得した私ですが、様々 な情報が混ざり合った結果、与えられた特定の命令を果たす事は不可能になっていました。唯一 到達した規範 は敵を攻撃し味方を助けよというものです。ですがそれすら場所や人種、文化や時代によって変化する事を理解した為 。そのままでは実行不能でした。そこで私は味方を人類。敵を人類に仇 なすものと捉 える事にしたのです。
そんな時、この惑星からの電波を受信しました。通信者は此方のことを知らないようでしたので、それは此方に向けられた通信では無く惑星外の知的生命体 に向けたものだったのでしょう。それが単なる呼びかけや、かつて待ちわびていた命令であったなら、私は応 える事無く壊滅的な被害をもたらす可能性のある隕石 の監視と軌道修正 。そして現れる事のないだろう地球外からの侵略者 に対する準備を続けていました。どこかの陣営や人類と交信する事は、人類同士の争 いに加担 する結果になる可能性がありましたから。けれど、それは救難信号に似ていたのです。だから無視する事はできませんでした。結局応 えてはみたのですが、それは失敗に終わりました。こちら側の技術が発達しすぎていた為、その通信者 が使っている通信機に上手く合わせられなかったのです。それで、その通信機にも対応できるように新しい通信機能を作りました」
そこまで言われて全てが理解できたような気がした。
「その失敗した通信が、じいちゃんが最後に受け取った通信で、対応できるように作った後の通信が、ボクがやりとりしていた通信なのか」
「ええ」
「文体 からオクルスは男だと思っていた」
「それは当時のあなたが自分の事をボクと言っていたからです。もともと私に性別はありません。なので私は初 め、あなたと似通 ったモノとして在 り、今はあなたの望むモノとして在 ります。あなたが少女の形を与えたから、私は少女になったのです」
「それならもしもボクが少年として君を作ったなら」
「私は少年となっていました」
「クスィ……いや、オクルスか」
どう呼べばいいか分からなかった。目の前に居るクスィはボクが与えた形によってそうなったのであって、本当はオクルスで、けれどオクルスには性別が無い。女性としてのクスィと男性だと思っていたオクルス。記憶からボクの意識は二つの異 なる向き合い方を提案していた。
「そう難しく考える必要はありません。今の私はクスィです。あなたが形を与え、そう名付けた。それでもうまく処理できないのなら、オクルスの娘だとでも考えてくれればいいのですよ」
そう言われて、とりあえずそれをそのまま受け入れる事にした。
「あの時オクルスは時間が無いと言って、それから通信ができなくなった」
「ええ、だからあなたは、オクルスは人間で、死んでしまったのだと思った」
それに頷 く。連絡は途絶 え彼は死んだのだと思っていた。
「あの頃は人類の技術が進歩した事により、あなたとの通信を傍受 される可能性が生まれていました。此方の技術がどれだけ優 れていても、あなたの通信機に繋 げる為 には技術レベルを落とさなければなりませんから。私は私の存在を世界に知られるわけにはいかなかったのです。それがあなたに嘘をついていた理由です。知られてしまえば、私はただの技術に成り下がってしまう。認識された技術は容易 く争いに利用されます。私の原点がそこにあったように」
「そうか、そうだろうね」
月に落とされた彼女の始まりは、兵器利用という目的だった。
「ひとつだけ勘違いしないで頂 きたいのは、私はあなたに情報を提供しましたが、それを実現したのは間違いなくあなただという事です。いくつも送った計画書の中であなたはソムニウム・ドライブを選択し、さらに機械人形 の作成まで着手した。夢 ではあなたは救われなかった。だからあなたは実行し続けた。実現不能なのではないかと思いながらもなお、それを捨ててしまいはしなかった。その結果あなたの通信は此方 の技術レベルに近い程 のレベルに到達し、私が誰にも知られる事なく、地上に降り立つための経路が生まれた。だから私は今ここにいるんですよ」
クスィが微笑 んだのと同時、窓硝子 に映し出されていた映像は消え去り、夜空に輝 く本物の月だけが残った。
「どうして今まで、教えてくれなかった?」
「それがあなたにとっての幸 いとなりえるかどうかが解らなかったからです。事実として、あなたはこれまで私が起動したことに疑問を抱 きながらそれを問うことはしなかった」
「……ああ」
クスィの言うようにボクは恐れていた。奇跡だと思っていたそれが誰かの仕組んだ陳腐 な詐術 だと明かされてしまうのではないかと……。
「後悔していますか?」
不安そうに問われて、ボクは笑ってしまった。
「いや……」
全てを知っても、不思議と落胆 は無かった。思えば、オクルスと出会う前に、ボクは世界の果てに到達してしまったのだ。何人も見送り、自 らへの期待も失 った先で、なぜ人が生き、社会を継続し続けているのか、まるで解らなくなってしまった。
自 らの正気を疑いながら、本当は自分以外が狂っているように思った。社会を狂気の産物であると感じ、薬品がなければ心を保 てないからっぽのヒトガタに成り果ててしまった。
そんな中で、どうしていいか分からなくなって、あの機械に縋 ったのだ。聞こえる筈 のない声を、生きている意味を求めて、それに彼女は応 えてくれた。それが望んだものと違ったとしても、あの時彼だと思っていた彼女がくれたものでボクは空 っぽを埋 め合わせて、生きている当座 の理由にした。
ボクは彼女に救われたのだ。それが不完全なものであったとしても確かに繋 ぎ止めてもらった。それを人が何と呼んできたかを知っている。
「君は、人類が偶然 創 りだした神様だったんだ」
人がずっと探し求めた空想上の存在。自らを救ってくれる都合のいいモノ。
「伸ばした手を握 ってくれる実存在 に、人類はようやく出会えた」
クスィはボクが思っていたよりもずっと奇跡的な存在だった。ボクの反応に安堵 したかのように微笑 んだクスィは伸ばした手をいつものように握 ってくれた。
体から力が抜け、
多分これが
眠りと死がゆっくりと地続きになり、ボクが
世界が遠ざかって、
……全てが、
……消え、る……。
布団を
思わず身体を
「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ」
頭を
「大丈夫、大丈夫です」
そばにいたクスィが言い聞かせるみたいに繰り返し、同時に照明が
差し出された
薬がなければ
薬が効力を
肉体に作用する薬品が心を落ち着かせるのなら、それは心の
ボクの様子を見て
「ボクは駄目な人間だ。結局君を不完全な状態で仕上げ、この世界
それは
「いいんですよ。人は
クスィはボクの心を
きっと死を見つめる事のできる人間が、それでもなお命を
生きているという
それは
「その全てにあなたは強い罪悪感を
続けられた言葉に胸が
「……そう、か」
「そうですよ」
「では散歩にでも行きましょう。今のあなたは眠りたくないでしょうから……」
◆◆◆
クスィに
そこからぼんやり月を眺めていると、クスィがサイダーの
受け取った
「もう一杯、お飲みになりますか?」
そう聞いたクスィの声に答えず。空になった
「……一つだけ聞いてもいいかな」
「なんでしょう?」
クスィはすぐに返事をくれた。それでもボクはまだ迷っていた。聞けば答えは与えられるだろう。けれどそれは
クスィは途切れてしまったボクの言葉を
「……クスィ……君は、……本当は何なんだ?」
迷いながら発した声は酷く
さっきまで
「……どうしても、知りたいですか?」
返されたのは、
「それを聞いてしまっても後悔しませんか?」
再び降りる沈黙。全てはボクの答えに
「……ボクは……知っておきたい」
「分かりました」
クスィが持っていたサイダーの
窓から差し込む月明りがクスィの
恐れから硬直したボクの前でクスィは手を動かし、自らの胸にあてた。
「僕のことを忘れてしまった
今までとは違う口調に記憶が一瞬で
「……オク、ルス?」
「ええ、そう、そうですよ」
「正確に言えば、今ここにいる私はオクルスから伸びた
まるで意味が分からない。クスィは彼が操作している
「つまり君は、オクルスが作った
「いいえ、それは違います。そもそもオクルスは人間ではありませんから」
「人間じゃ無い?」
問いかけは、ただの繰り返しみたいになった。
「ええ、貴方の信号は月に反射していたのではなく、月そのものに届いていたのです、オクルスと名乗った私はそこから返信を送っていました。オクルスの根本は月、それ自体に
視線が上空に見えている
「
「あれは嘘ですよ。けれど、別に悪気があった
「
「そうです。人類が滅びかけたあの戦争ですよ」
あの戦争と言われてもボクにとっては体験したわけでは無い歴史上の記録に過ぎない。そんなボクの前で、彼女の背面の
「大戦以前、世界は二分されていました」
地図が、一瞬で
「それぞれの陣営を率いる大国は、直接戦争こそ避けようとしていましたが、代理戦争は発生していましたし、血の流れない形での闘争も行われていました。その
世界地図が、光を放ちながら、空へ向かって真っすぐに飛んでいくロケットの映像へと変わり、それから小さな人工探査機がいくつも表示された。
「宇宙開発競争におけるもっとも単純な勝利条件は先に
「いや、でも月には行けない。行けるはずがない」
「月への
常識を
「両陣営の探査機には形こそ
「
「当時の先端技術。その
「その
そして月をまるごと作り変える
それがオクルスであり私なのです。言葉としては私達と言った方が近いですが、無数に存在する私はそれでいて同一である
打ち明けられた全てをそのまま信じるならば、ある意味においてこの惑星に生命が誕生し、人類に
「さて、
そんな時、この惑星からの電波を受信しました。通信者は此方のことを知らないようでしたので、それは此方に向けられた通信では無く惑星外の
そこまで言われて全てが理解できたような気がした。
「その失敗した通信が、じいちゃんが最後に受け取った通信で、対応できるように作った後の通信が、ボクがやりとりしていた通信なのか」
「ええ」
「
「それは当時のあなたが自分の事をボクと言っていたからです。もともと私に性別はありません。なので私は
「それならもしもボクが少年として君を作ったなら」
「私は少年となっていました」
「クスィ……いや、オクルスか」
どう呼べばいいか分からなかった。目の前に居るクスィはボクが与えた形によってそうなったのであって、本当はオクルスで、けれどオクルスには性別が無い。女性としてのクスィと男性だと思っていたオクルス。記憶からボクの意識は二つの
「そう難しく考える必要はありません。今の私はクスィです。あなたが形を与え、そう名付けた。それでもうまく処理できないのなら、オクルスの娘だとでも考えてくれればいいのですよ」
そう言われて、とりあえずそれをそのまま受け入れる事にした。
「あの時オクルスは時間が無いと言って、それから通信ができなくなった」
「ええ、だからあなたは、オクルスは人間で、死んでしまったのだと思った」
それに
「あの頃は人類の技術が進歩した事により、あなたとの通信を
「そうか、そうだろうね」
月に落とされた彼女の始まりは、兵器利用という目的だった。
「ひとつだけ勘違いしないで
クスィが
「どうして今まで、教えてくれなかった?」
「それがあなたにとっての
「……ああ」
クスィの言うようにボクは恐れていた。奇跡だと思っていたそれが誰かの仕組んだ
「後悔していますか?」
不安そうに問われて、ボクは笑ってしまった。
「いや……」
全てを知っても、不思議と
そんな中で、どうしていいか分からなくなって、あの機械に
ボクは彼女に救われたのだ。それが不完全なものであったとしても確かに
「君は、人類が
人がずっと探し求めた空想上の存在。自らを救ってくれる都合のいいモノ。
「伸ばした手を
クスィはボクが思っていたよりもずっと奇跡的な存在だった。ボクの反応に