第34話 人殺し①
文字数 4,340文字
長距離鉄道の客室は規則正しい間隔で揺れていた。腰かけているソファーベッド。二つあるその間に開かれた折り畳み式の机には、お菓子と飲み物が載っている。促されて口にしたチョコレートが無くなったら言おうと思って、舌でゆっくり溶かしていたら、机に冊子が広げられ、そこでチョコレートがなくなった。
「……ぁ」
「ここが今向かっている場所。私達がこれから暮らす街」
漏れた音は言葉になる前に消えてしまって、チョコレートが無くなったらという決意は話が終わったらに変わった。開かれた冊子に載っているのは海に面した街の写真。
「出入りが厳重に管理されているからシェルターとして引っ越しを希望する人も多いんだ」
「……シェルター?」
知らない言葉だったから恐る恐る聞いた。途中で口を挟むと怒られてしまうかもしれないけど、知らないまま頷いていた方が後でより強く怒られてしまう事を僕は知っていた。
微かな変化も見逃さないように窺っていたけど言葉を遮られた事を岬さんが気にした様子は無かった。
「シェルターっていうのはね。安全な場所の事。それから私達のような場合には補助金が出るのも大きかったかな。ああ、でも仕事はもう決まってるし、普通に暮らしていく分には十分だから、そもそもそうじゃなかったら保護者の申請が通らないからね」
岬さんは多分、お金の事で僕を不安にさせないようにと笑って見せたのだろうけどそれは別に気にならなかった。ただ、怒られなかった事にホッとした。
「当分の間は私と暮らす事になるし、手続き上、名字は私のものになってしまうけれど、いずれ元に戻す事もできる。その時が来たら君は自分の行きたい土地に自由に行っていいし、勿論ずっとこの街にいてもいい。君の未来は君が決めていいの」
その言葉にどんな反応をしたらいいのかわからなくて曖昧に頷いた。それよりも早く言わなければならないという気持ちが溢れていた。
「あ、あの」
後回しにしてしまった言葉はもう遅すぎて、きっと怒られてしまう筈だった。
「何?」
穏やかな声と共に微かに首を傾げた岬さんから少しだけ視線を逸らす。
「その、……これ。貰い、ました」
そう口にしながら昨日貰ったカードを差し出す。
「これ、相談窓口の……」
視界の端で岬さんの表情が変わったのが分かった。身体が瞬時に強張る。
「君が持っていなければいけないって言われなかった?」
唾を飲みこんで、ゆっくりと頷いた。これを僕に渡した人はそう言っていた。
「でも……」
岬さんの手が動いたから、次に来る痛みを想像して目を瞑った。カードを差し出そうとしていた腕が顔を守ろうと反射的に上がる。
「これは、君が持っていなきゃいけない大切なものなの」
予想した痛みは無く、代わりに温かい何かが手に触った。恐々と目を開けると僕の手は岬さんの両手に包み込まれるように握られていて、その手がカードをゆっくりと押し戻した。
困惑したまま受け取ってもらえなかったプラスティックのカードを見つめる。
「我慢する必要はないから。もしも、私が君の保護者として相応しくないと思ったり、私の事が嫌になったら、そこに連絡してね」
「それが新しい、ルールですか?」
そう聞くと岬さんは悲しそうな顔をした。だから何か間違った事をしたのだと思った。
「ごめんなさい」
謝ると岬さんの表情は何故だかもっと悲しげなものになった。
「違うの。もうルールは無いの」
如何したらいいか分からなくなった僕に、岬さんはいつかの母さんと同じ事を言った。でも、ルールが無いという事がよく分からなかった。ルールは教えられるか、できるならそれよりも前に気づかなければならないものだ。
「すぐには難しいかもしれないけど、これから君は自分でどうするかを決めていいし、決めていかなくちゃいけない。もし、どうしたらいいか分からない事があったら、その時は私も一緒に考えるから。だから思った事や気になった事があったら、なんでも言ってね」
微笑んだ岬さんを見て、困惑したままプラスティックのカードを隣に置いていたリュックにしまった。たぶんそれが岬さんの望む事だと思って……。
「それじゃあ、改めて、これからよろしくね」
差し出された手を握ると岬さんは微笑み、近づいた身体から母さんと同じ匂いがした。この匂いがあったから僕は、何度も病室を訪れた岬さんに「私と一緒に暮らすのはどうかな?」と提案された時、躊躇いながらも頷いたのだ。
ずっと病院にいる事は出来ないと知っていて、本当は嫌だったけど、拒み続けて大人の男の人がいる所に送られてしまうよりはきっとマシだと自分に言い聞かせた。
子供を作る臓器がないから特例として保護者になれて、もう誰かを好きになる事は無いし、ずっと二人だけだと、少しだけ寂しげに言った岬さんの言葉を信じる事は出来なかったけれど、その不安も母さんと同じ匂いで紛らわした。
◆◆◆
目を開けると無機質な天井が見えた。それはいつかの病室と似ていて、一瞬夢がさらに巻き戻ったのかと思った。でもすぐに違うと気付き、全てを鮮明に思い出した。漏れそうになる呻き声を抑える。
口の中に残っている気持ち悪さ、それに耐えながら視線を動かすと近くに置かれた椅子に見知らぬ女が座っていて、手にした本を読んでいた。
「ああ、良かった。気が付きましたね」
僕が目を開けた事に気付いた女が、本を閉じて机の上に置いた。
「どうぞ、そのままで構いません」
優し気な声を無視して身を起こそうとすると手を貸された。それを振り払うだけの力が無かった。女から母さんや岬さんと同じ匂いがして、反射的に生まれた安心感がすぐに憎悪に変わる。その匂いを明らかに敵の仲間である女が纏っている事が堪らなく厭だった。
「気分はどうですか?」
続けられた言葉に口を噤んだままでいると、それを気にした様子もなく女は微笑んで見せた。
「貴方に危害を加えるつもりはありません。ただ保護する必要があると判断しました」
誤解を解こうとするみたいに言いながら、女は背後にあったキャスター付きの台を引き寄せた。その上にはいくつかの缶やペットボトル飲料に加え様々なお菓子が載っている。
「お好きな物をどうぞ」
その光景が岬さんとの思い出を穢しているようで怒りが増す。
「クスィをどうした」
はっきりとした敵意を声に乗せたのに女は平然としていた。
「貴方と共にいたあの人形の事でしたら私からお話できる事はありません。他に質問がないようでしたら本題に入らせていただきます」
僕が食い下がる前に女は話を進めた。
「まず言っておくと貴方が罪に問われる事はありません。人形が関わった事件は公にはできませんので、だから貴方を勾留する事もありません。眠っている間に行わせていただいた検査で肉体に問題がない事は確認されましたし、後は精神状態が良好であるかどうかの確認だけです。人形災害に巻き込まれてしまった人の精神的ケアも私達の業務の一つですから。全て良好と判断されれば貴方は解放されます。今の気分はいかがですか?」
僕が聞いていないような態度をとっても女は話し続けた。柔和な笑みを浮かべ穏やかに語ってはいるが、それはまるで機械みたいで、問いかけに答えず黙ったままでいると室内に沈黙が降りた。
「大変心苦しいのですが……何も答えていただけないなら、貴方を開放する事はできなくなってしまいます。貴方がどう思うかは分かりませんが、保護者の方やお友達は悲しむでしょうね……私達はそれを望んでいませんが……そのような措置が必要ですか?」
態度も声色も変わっていなかったが、それは間違いなく脅しだった。
「……必要、ありません」
吐き捨てるような答えを聞いた女が満足げに頷く。
「結構です。ではもう不毛なやり取りはやめにしましょう。一つだけ私のお願いを聞いてください。何か口にしていただけたら、それで貴方の精神状態は安定していると判断します」
女が示した先。用意されていた飲み物から一つをとって栓を開ける。そのまま容器を口に運び、中身を流し込むと、喉の渇きと口内に残る嘔吐物の気持ち悪さが和らいでいく。
「ありがとうございます。もしも、何かあった時はこちらに連絡してください」
何の気持ちもこもっていないような声と共に差し出された名刺を仕方なく受け取る。女は変わらず完璧な笑顔をその顔に張り付けていた。
「暫らくの間は監視が付く事になります。勿論、貴方が気付く事は無いでしょうが、一応お伝えしておきます。それから先ほど保護者の方へ連絡したところ迎えに来ていただけるそうです。到着次第、貴方は解放されます。遠くない内に、またお話を聞かせて頂く事になるかもしれませんが、大した事はありません。ただし今回の件は決して口外しない事です。まぁ口にしたところで誰にも信じて貰えないでしょうが、大切な人達に不利益が生じるのは貴方も望まないでしょう?」
それには何も答えなかったが、女は特に気にしたふうもなかった。
「では、これをお返しします」
差し出されたトレーには携帯端末と千歳の作ったアクセサリー、手袋と、そして指に嵌まっている筈の環があった。咄嗟に握った指に環の感触が無い。外れない筈のそれが外れていた。
「眠っている間に全て調べさせてもらいましたが、特に変わった点は認められなかったので」
信じられないまま取り上げた指輪は、黒く冷たいただの金属で、人差し指に通すとピッタリではあったが吸い付くように嵌まっていた以前の感覚は無くなっていた。
呆然としたまま、女に従って部屋を出ると通路にあった窓の外は暗く、まだ夜だと分かった。
促されるままに長椅子に座る。端末を起動させるとそれ程時間も経っていない。ただ開いてみた地図は情報量の少ないものに戻っていて、クスィを示す赤い点も消えていた。
人差し指に嵌めた指環は微かな光を放つ事さえ無く、まるで全ての魔法が解けてしまったみたいだった。それが何を表しているのか分かっていて、けれど受け入れたくない。
平衡感覚が狂ってしまったような気持ち悪さに耐えていると扉がきしむ音がして、足音と共に響いた岬さんの声に身体が一度震えた。出迎えた女に謝罪した岬さんが此方に近づいてくる。
「……ごめんなさい」
「うん」
視線を少しだけ上げて、けれどその顔を直視できないまま呟いた僕に岬さんは頷いた。怒られると思っていたのに岬さんはそうせず、代わりに自分が巻いていたマフラーを僕の首にそっとかけた。僕が身体を縮こませている理由を、きっと寒さからだと思ったのだろう。鼻元まで覆ったその柔らかく温もりの残るマフラーからは母さんと同じ岬さんの匂いがした。
「帰ろう」
優しい声に促されて僕は立ち上がった。
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