看取リ手

文字数 6,569文字

 ガラスケースの中で彼女は椅子に座っている。長い睫毛(まつげ)(わず)かに()ね。白磁(はくじ)(ごと)き肌に少しだけ(みだ)れた白銀(はくぎん)の髪がかかっている。
 硝子(がらす)一枚(へだ)てて、合わせ鏡のように同じ顔がそれを見つめていた。この部屋にある膨大(ぼうだい)な美術品のひとつ、彼女の原型(げんけい)になった等身大の人形。天才的な人形作家が作ったそれを三次元解析(かいせき)してボクは彼女を作ったのだ。
 結局の所ボクは、本当の意味では何も生み出せなかった。それでもこの名はソムニウム・ドライブやこの施設の製作者として歴史に(きざ)まれるのだろうか?
 (おさな)い頃にはそれを望んだ事もあった。いつか絶えてしまう命の代わりに、せめて生きた(あかし)を残せればと、だがいつだったかそれも自らの命が終わるという事実から目を()らす(ため)の逃避に過ぎないと気付いた。
 何かを成した人間も、何も成せなかった人間も、この世界に生まれた誰もが必死で生きていた(はず)なのに()ってしまえば、それで終わりなのだ。何かを残したとしても全ては時の中に埋没(まいぼつ)しやがて忘れ去られる。あとはそれまでの間、その死を好き勝手利用されるだけ。
 そしてそんな人の歴史もいつかは終わり、この惑星や宇宙すら終わる。虚無(きょむ)という世界の本質。そこに継続(けいぞく)させられるものはなく、誰も勝利できない。
 けれど、それを理解してもなお、此処に(かざ)られているものは確かに力を持っていた。中でもその内の一枚に()きつけられる。傾いた日の下で此方(こちら)を見つめている少女の絵。悪寒(おかん)と共に全身の肌が粟立(あわだ)つ。それは初めて彼女を見た時と同じ感覚で、(にぎ)りしめた手が嫉妬(しっと)(かす)かに(ふる)えた。

「どうかしましたか?」

「いや……何でもないよ」

 いつの間にか戻ってきていたクスィの問いかけに、動揺(どうよう)(さと)られないように答える。

「そうでしょうか?此処に居る時のあなたはどこか変です。全ては此処にあるものが関係しているのではないですか?特にあの絵」

 その指摘(してき)に息を()む。此方(こちら)をじっと見つめる()き通った(あお)(ひとみ)は、何もかもを見透(みす)かしているように思えた。

「……そうだ……そうだね」

 溜息(ためいき)()くように答えながら、(はじ)などもう取り返しがつかない(ほど)重ねているというのに、誤魔化そうとした自分に(あき)れた。

「ボクも同じ場所に行きたかったんだ。あれに並ぶ(ほど)のものをこの手で(えが)いてみたかった」

 視線を再び絵に戻しながら答える。何を見ても何をしても、何も感じなくなっていたあの(ころ)。それでも無くならなかった生への執着(しゅうちゃく)が、この身を世界に(とど)めていたあの(ころ)偶然(ぐうぜん)立ち寄った美術館でこの絵に出合ったのだ。その時(おぼ)えた強烈な寒気(さむけ)と、全身に立った鳥肌(とりはだ)。それで自分にまだ感動という情動(じょうどう)が残っている事を知った。
 初めて目にしたのに、良く知っているような気がした少女。あの日と変わらず此方(こちら)をまっすぐに見つめている彼女は、どこかクスィの原型となった人形にも似ている。それはきっと単なる偶然などではなく、どちらも少女というものを完全に(あらわ)しているからだろう。二人の天才は、その(さい)(ゆえ)に、少女という存在のイデアを現出(げんしゅつ)させるまでに(いた)ったのだ。その驚異(きょうい)にボクは()かれ、そしてそれ(ゆえ)に絶望した。もう遠い昔の話だ。

「今は、違うのですか?」

 目を伏せて視線を()らそうとした瞬間に発せられたその(しず)かな問いが、心を(きざ)んだ。一瞬何も言葉が出てこなかった。違うと言ってしまいたいのに、言ってしまえばいいのに、何かがそれを(こば)んでいた。いや、本当は解っていた。まだ失われていない情動(じょうどう)が、今も感じる寒気(さむけ)がそれを(しめ)している。

「……意味が無いんだ。この世界には何も無い。全ては逃避で無駄で、例えそれが出来ていたとしても満たされる事は無かった(はず)だ……だから……」

 (しん)ではあっても回答を避ける(ため)の言葉が口を()いた。クスィがもたらしてくれた莫大(ばくだい)な資産も、物語も、クスィですらボクを(なぐさ)めても救いきる事はできなかった。何もボクを満たしてくれる事は無かった。

「それがあなたの本音であるとするのなら、なぜ最近のあなたは以前とは比べ物にならない(ほど)、この部屋を(おとず)れるようになったのです?」

 此方(こちら)を見つめているクスィの(ひとみ)は逃げる事を許さなかった。残された時間が無くなり続けている事からくる焦燥(しょうそう)が、まだ何も()せていないという未練(みれん)が、身体をこの場所に運んでいる事は解っている。それを集める事は出来た。作らせる事も出来た。それでも、自らの手で作る事は出来なかった。

「ボクには無理だったんだ。だから……もういいんだ」

「本当にそう思っているのですか?」

「……ああ」

「ならば、どうしてそんなに苦しそうな顔をしているのです?」

 (かろ)うじて口にした言葉を、今日のクスィはそのまま受け取ってはくれなかった。そして返された問いに再び強い痛みを感じた。

「……どうして、かな、届かないと知っているのに……無意味な逃避だと解っているのに……」

「それでも、求めているからではないですか?どうしようもない(ほど)に……」

 投げかけられた声に胸が詰まった。確かにそうだった。そこには絶対に届かないと分かった(はず)なのに、まるでそれだけが自らを救済(きゅうさい)するとでもいうように心が()えを(うった)えている。

「……そうかもしれない」

 (しぼ)り出した声は(ふる)えていた。

「今でも、()かれるんだ。出来ないと解りきったのに……なんて無様(ぶざま)なんだろうね」

「いいえ」

 冗談(じょうだん)めかして笑って見せたのにクスィは(うなず)いてくれなかった。それどころか表情一つ変えなかった。

「此処に在るものがあなたにとって特別な意味を持つように、今あなたが(いだ)いている思いもまたそのように笑って流してしまえるようなものではない(はず)です」

「どうしてそんな事が言える?」

「ずっとあなたを見てきたからです」

 咄嗟(とっさ)(あら)げた声、それに返された言葉と(あお)眼光(がんこう)射貫(いぬ)かれて、胸が()まり、何も言えなくなった。

「どうか私には全てを話してください。私はその(ため)に存在します」

 クスィが僕の手をそっと(にぎ)った。小さくて(やわ)らかい、ひんやりとした手。視線を()らし、何度か躊躇(ためら)った後で、今度こそ完全に降参(こうさん)したボクはようやく口を開いた。

「此処にあるのはねクスィ。(いの)りなんだ。狂おしい(ほど)()かれて、でもボクにはできなかった。ただひたすらに美しい(いの)り」

(いの)り?」

「ああ、此処のあるものだけじゃない。人が行う事はたぶん全てがそうなんだ。ボクが()かれないものだって全部」

 ボクを見つめたクスィは(わず)かに首を(かし)げ、理解できない事を(しめ)して見せた。当然だ。人ではない彼女にはわかる(はず)がない。そんなものを彼女は必要としない。

「脳が発達しすぎた所為(せい)で、人はそんなものを必要とするようになってしまった。古代の人間が作った今では意味の分からない造形物も、合理性を度外視しているような調度品も、忘れられた(とむら)いの(あと)もきっとそれだ。この惑星で唯一(ゆいいつ)、人間だけが必要としてきたもの。存在しないものを探す行為。手にできたものに価値があると思い込む行為。現実から逃避する為の行為。労働に娯楽、愛や生殖、その結果として生まれた命を育て、何かを(つた)える事さえ……。求めているのは意味、突き()めれば()(どころ)、この世界の(むな)しさを、生きているという絶望を払いのけるだけの何か」

 口にした身体から何かが(こぼ)れていく気がした。

「この世界が楽園ならそんなものは()らなかった。死を見つめられる(ほど)の知性がなければそんなものは()らなかった。(ある)いはなにかしらの救いがあれば、けれどこの世界には一つとして救いなど無く、物語ならいつまでも幸せに暮らしましたと()めくくられ、(えが)かれる事のないその場所に現実は必ず辿(たどり)り着いてしまう。だから、生きているという苦痛を最後まで(いだ)き続けていなければならない人はそんなものを必要としている。だけど……ボクには一つとして出来なかった。出来なかったんだよクスィ。()かれたものは(おろ)か、そうでなかったものですら、何一つとして……」

 本当に求めたものには手が届かなかった。そしてそれ以外のものは全て空虚(くうきょ)にしか思えず、そこに意味を見出す事も()(どころ)とする事も出来なかった。

「だから目を(そむ)けた。今だって、それに向き合うのが苦しくて苦しくて仕方がないからそうしようとしている。君の追求(ついきゅう)から逃げて……でもそれさえも苦しいんだ」

 直視(ちょくし)すればそれを成せないという圧倒的な絶望があり、目を(そむ)ければ何も成せていないという空虚(くうきょ)さの絶望がある。

「いっその事、自ら終わりにしてしまえたら良かったのに、それすら出来なかった。だとしたらそんな人間はどうしたらよかった。何も持っていなかった人間は、この(から)っぽを何で()めればよかった。何であれば()められた?」

 噴出(ふんしゅつ)した絶望に()み込まれる途中で腕を引かれた。バランスを取る間もなく(かたむ)いた身体が受けとめられる。肋骨(ろっこつ)と、その上に申し訳程度(ていど)にのった胸の感触。気が付けばクスィに()きしめられていた。何も言わないままクスィの手がボクの背を()で始め、それが感情を決壊(けっかい)させた。 
 嗚咽(おえつ)()らしながら、細く自分よりも小さな身体に(すがり)りつく、涙がとめどなく(あふ)れてくる。ずっと、こんな世界は嘘だと誰かに言って欲しかった。正しい答えを教えて欲しかった。けれど夢やクスィですら満たされなかったボクにそんなものがある(はず)がない。与えられた何かに(うなず)けるぐらいならきっと人を愛する事が出来た。自分の無力さを受け入れてその上で生きる事が出来た。

「どうしたらよかった。どうしたらよかったんだ……」

 見苦(みぐる)しく泣き続けるボクの背をクスィは()で続け、そして耳元に顔を()せた。

「もう一度だけ足掻(あが)いてみませんか?例えまた絶望するとしても、あなたをあなた自身の手で救う(ため)に、少なくともそうしようとする(ため)に」

 (ささや)かれたその言葉に泣きながら(うなず)く、それしかない事はもう分かっていた。

◆◆◆
   
 気が付くと目の前に少年が立っていた。細く、だが生命力に満ち(あふ)れた肢体(したい)。燃えるような眼光(がんこう)此方(こちら)(にら)んでいる。その姿に見覚えがあった。実際には一度として対面(たいめん)する事のなかった少年。
「お前のようには成るものか」と少年は言った。ああ、そうだろうと思う。あの(ころ)の空は限りなく高く、世界は果てしなく広かった。未来には何かがあって手を伸ばし続ければいつか(つか)めるのだと(うたが)いもしなかった。
 少年の眼差(まなざ)しを(にごり)り切ってしまった(ひとみ)で受け止め無言のまま(うす)(わら)う。そうだ。そうしてくれと声に出さずに叫ぶ。叶うなら、こんなざまにはならないでくれと。懇願(こんがん)したくなる気持ちを押し殺し、(あふ)れそうになる涙を(おさ)える。
 少年にとってボクは怠惰(たいだ)が産んだ()(もの)でなければならなかった。間違った選択肢の成れの果てでなければならなかった。絶対悪(ぜったいあく)でなければならなかった。
 そうであるべきだった。そうであってほしかった。

 いつかの自分が地を蹴って、その(かた)(にぎ)りしめられた(こぶし)がこの身体を粉砕(ふんさい)する瞬間に目が覚めた。
 ぼんやりと()れる視界の中で、(のぞ)き込んでいるクスィの顔が見える。もう、とうに夢と現実の境界(きょうかい)曖昧(あいまい)になっていたが、何故だか今はいつもより強く覚醒していて、そしてこれが最後なのだろうと不思議と確信した。

「おはようございます」

 その日だけで、何度目になるか分からない挨拶(あいさつ)(かろ)うじて(うなず)く。目覚めるたびにクスィはそう言って微笑(ほほえ)み、ボクの手を(にぎ)ってくれた。伸ばされたもう一方の手、その冷たい指先が(ほお)(つた)っていた涙を(ぬぐ)う。
 此処が現実だった。例え何度やり直せても辿(たど)り着いてしまうだろうくだらないボクの到達点。視線を動かせばあの日から、また(えが)き始めた絵が見える。上手く()けないと()き、確かなものが無いと()き、(すが)りついては(なぐさ)められ、差し出された錠剤(じょうざい)を飲みこんで(えが)き続けた絵。もうその(いの)りに手を(くわ)える力は残っていない。

「……駄目だ。駄目だな」

 それは今まで()いたものの中で一番良く出来ていて、けれど駄作(ださく)だった。(かがや)きは宿(やど)らなかった。解っていた。残されている時間が少なくなったからといって奇跡が起きたりはしない。どれだけ(いの)っても存在しない神が下りてくる事は無いように……。

「たった一つ……。たった一つでよかったのにな……」

 せっかく(ぬぐ)ってもらったのに、また(つた)った涙と共に笑ってしまった。それが逃避に過ぎないと解っていても(つか)んでみたかった。

「結局ボクは何者にも成れなかった。かつて夢みた情動(じょうどう)()き立たせる何かを、この手で作り上げる事ができなかった……長いようで短すぎる一生を使い果たして、何もできなかった……」

 涙は(おさ)えられたのに、弱った心が弱った身体から吐き出した言葉はたどたどしく、今まで何度も繰り返した()(ごと)になった。視線を移せば、神に愛されたような者たちの偉業(いぎょう)が見える。ボクには届き得なかったもの。そこに意味などないと解っている。
 倒すべき敵も、守るべきものも、果たすべき使命もこの世界にはありはしない。だから意味のある行動も、価値のある何者かなんてものも存在し無い。
 けれど、それはどこまでも(むな)しいのだとしても、確かに燦然(さんぜん)(かがや)(いの)りだ。

「知っています。あなたの理想に、あなたの手が届かなかった事も、例え届いたとしてもあなたが満たされなかっただろう事も、そして人の一生とはそんなものだとあなたが思っている事も、けれど少なくとも、あなたは最後まで足掻(あが)きました。(みじ)めだとしか思えなかったとしても、それでいいじゃないですか」

 そう言ってクスィは、ボクの頭を優しく撫でた。

「あなたは良く、頑張りましたよ」

 その()んだ声が()みて、一度は(おさ)えられた涙が(あふれ)れ出した。自分自身ですら欠片もそう思えないのに、クスィはボクの人生を認めると言ってくれた。それが無意味だと理解していても、一方でボクはきっとそれを求めていた。だからこんなにも涙が(あふ)れてくるのだ。

「君のおかげだ。君が(こた)えてくれなかったらボクはきっと気が狂っていた」

 ぼやけた視界の中、感謝と自嘲(じちょう)を込めて(つぶや)く。クスィは何も言わず、ただ優しい眼差(まなざ)しを(そそ)ぎながらボクの涙を(ぬぐ)い続けてくれた。

「あなたは私に、人形という存在に何を望みますか?」

 ようやく涙が(おさ)まった僕にクスィは微笑(ほほえ)みながらそう聞いた。たぶんそれが、彼女がボクにする最後の問いかけだった。

「……人の形をして、人に()い、人を記録(きろく)するモノ。看取(みと)()であり、そして……墓守(はかもり)

 名付ける時にそう願った。あの時は個人的な思いに過ぎなかったけれど、もしも人よりも優れた神の似姿が全ての人に対してそうしてくれたなら。その先では誰もが(しあわ)せに成れるかもしれない。彼女が人の命と行為には価値があるのだという(いつわ)りを真実としか思えないように(かた)ってくれたならきっと、この何もない世界にも意味と価値が(あふ)れ、楽園は(あらわ)れる。
 (しあわ)せとは、自らがそうであるという錯覚(さっかく)に過ぎないから……。

「ならば、そういうものでありましょう」

 返された静かな声に微笑(ほほえ)んで見せ、波のように襲う眠気にできるだけ(さか)らおうと力を振り(しぼ)る。
 けれど、身体を(わず)かに持ち上げた筋肉は目的を達成する事なく限界を(むか)えた。体勢を崩す前にクスィの腕に支えられて、そっと元に戻される。ボクの手を(にぎ)り直したクスィが顔を()せた。

「貴方が深い眠りに落ちてしまっても私は貴方が目を覚ます時を待ち続けます。そして目を覚ましたら貴方を散歩に連れ出して、また二人でたわいの無い(はなし)をして、貴方が(いの)るのを見つめて、涙を流すならこの胸に()いて、それから手を(つな)ぎます……私はいつまでも貴方のそばにいますよ」

 言い聞かせるようにクスィの(くちびる)(つむ)いだ言葉が耳介(じかい)をくすぐって鼓膜(こまく)(ふる)わせ、抵抗を続けようとしていた意識を(しず)めていく。口を動かして吐き出した言葉が、しっかりと発音できたかは分からない。ただクスィは微笑(ほほえ)んで(うなず)くと、冷たい指で優しく頭を撫でてくれた。最後までどうしようもなく見苦(みぐる)しい。けれどそれでもいいと思わされてしまう。
 (まぶた)が意思に(はん)して閉じてしまうと、(つめ)たいその手の(ぬく)もりだけがクスィの存在を(つた)えるものになった。(まぶた)の裏で二人だけの(おだ)やかな情景(じょうけい)を思い浮かべる。どれだけ時が()ってもクスィは変わらない姿で待っていてくれるだろう。そして「お帰りなさい」と(むか)えてくれる。
 残された力でクスィが(にぎ)ってくれている手に力を込める。クスィがそれに応えてくれた瞬間。(かす)かに甘い花の香りを感じて、もうそんな季節になるのだと思った。いつかクスィに教えてもらったこの花の花言葉は、確か……
 たし、か……
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