第31話  逃げも隠れも

文字数 1,596文字

 初が病院から戻ると、乃津麻はダイニングテーブルでなにやら書きつけていた。ただいま、の声にぬっと顔を上げ、老眼鏡をずり下げ鋭い目を向ける。
「明日のタクシー、六時五十分だって。いいわよね」
 倅三は八時半に病室を出て手術室に向かう予定だ。家から病院まで、倅三によれば、朝なら十五分で着くという。タクシーには七時半に来てもらえば十分だった。
「それがね、朝は配車できないとか、電話をもらえれば手配しますが予約は受けていません、とか。そんなのばっかり。一社だけ、六時五十分か八時なら、ってところがあるのよ。そこでいいでしょ?」
「八時じゃ見送りできないかもね。予約しないで車が拾えなかったら悲惨だし。六時五十分でもしょうがないか」
 初は苦手な早起きを覚悟した。
 手術中の待機についてはひと悶着あった。
 手術が決まったとき、付き添いは長丁場だから乃津麻と分担しようと初は思った。たとえば午前中は乃津麻に任せ、午後から代わるのだ。
 ところが乃津麻は、疲れた疲れた、ときつい顔でしじゅう漏らし、見舞いもろくに行かない。最低十時間はかかる待機は無理そうだ。
 そこで初はホテルに前泊しようと思いついた。気疲れする乃津麻の元を離れる口実にもなる。
「初が前の日、ホテルを取って、手術の日は朝から一人で付き添うらしいの。私は病院に行かないから。それいいでしょ」
 楽だと思ったのか乃津麻はすぐに受け入れた。
 倅三は新聞に目を落としたまま反応しない。
「私も行ったほうがいいの?」
 重ねて聞いても黙ったままだったらしい。
「どうやら来てほしいらしいのよね。それで、朝も早いからタクシーを使え、ってお父さんがこれを書いてくれたの」
 と新聞の折り込みチラシを出してきた。裏にはボールペンで、病院まで裏道で行く最短経路が描かれている。チラシに収まらない部分は、サイズの違う細い裏紙がセロテープで足してあった。
 家族で支えほしい。
 倅三のメッセージがにじむ。
 初はホテルをキャンセルし、乃津麻から逃れるチャンスを失った。

 翌朝、五時に目覚めた初はもう眠れなかった。
 気のはやる乃津麻にせかされ、早々に玄関で待つ。
 六時四十五分、玄関チャイムが鳴ると、倅三の手書きの地図を運転手に見せた。
 タクシー会社からは、混んでいれば五十分かかる、とクギを刺されている。だが病院に着いてみれば壁の時計は七時ちょうど。倅三の計算どおり、所要時間十五分である。
「見て、お母さん。縁起がいいよ」
 受付で渡された二人の入館証番号は、001と002。この日一番の見舞客だった。
「早起きもしてみるものね。道はすいているし、一番乗りだし。手術もスムーズにいくといいけれど」
 乃津麻も珍しく機嫌がいい。
 病室のカーテンを開ければ、倅三はさっぱりした顔でベッドに横たわっていた。
「おい、今日、メスを握るのは一体だれだ。知っているか、初? 城市なのか桐鯛なのか、どっちだ」
 前夜から食事を口にしていないはずだが、特に変わった様子はない。むしろいつもより元気だ。
「城市でしょ、初。ほかの人のはずないわよね。もし桐鯛なら城市はなんだったの」
「城市先生は切らないでしょ、一度も顔を見せていないのに。立ち会うかも知れないけれど……。執刀医は桐鯛先生だよ、きっと」
 手術前の緊張を追いやろうと、詮ない話に熱が入る。
「ご気分はどうですか、観社さん」
 そこにゆるりと現れたのは桐鯛医師だった。
「はい、大丈夫です。気分は悪くないですよ」
「先生、父はあのあと、手術を止めると言い出しましてね。この際だからバラしちゃいますけれど」
「初耳だな、それは。今日は大丈夫ですか? これから手術ですが」
「ええ、もう大丈夫です。腹を決めましたから」
「よかった。じゃ、手術室でお待ちしています。少し準備がありますので、これで」
 どうやら桐鯛医師が執刀医らしい、と三人は目で確認した。

          
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