第43話  ぐずぐず

文字数 1,894文字

 肉の味わいをめぐってひともんちゃくあった翌日。
 晩御飯のしたくに初が台所に立つと、乃津麻は言った。
「あれ、悪くなるから食べちゃってよ」
「あれ、ってなに?」
「ほら、スープ」
 減りの悪い例のスープのことらしい
 鍋の中には、一人前にしては多く、汁物として三人で消費するには心もとないトマトスープがだらしなく残っていた。
「お母さん、スパゲッティある?」
「えっと、どこか奥の方にあるはずよ。あったあった。これでいいの? スパゲッティなんてこんなのしかないけれど」
 茹でてまでパスタは食べないのだろう。いつ封を切ったかわからない代物が、食料棚の奥から出てきた。
 煮詰めたトマトスープを絡めたパスタは、思いのほか立派だった。麺類を欲していた倅三が喜ぶだろう。
「いい匂いがするな。お、スパゲッティか」
 料理が整うと、倅三がのっそり現れた。
 フォークでなく箸をウキウキと、いつものようにパスタに入れ、しかし一口食べると手を止めた。
「硬いよ」
「あれ、硬かった? ごめん」
 アルデンテを目指したが、ブヨブヨのナポリタンが基準の倅三には硬いかもしれない。
 とはいえ食べている間に、伸びてちょうどよくなるはずだ。細かいことにこだわらない檀なら、なんの問題もない。
 そのとき、もしかしたら麺のせいかも? と思いあたった。乾物だから古くても関係ない、と初は気にしなかった。慌ててパスタを口にすると、酸化した小麦の匂いが鼻についた。
 乃津麻のスープは、缶詰とはいえトマトを使っている。それも問題だった。
 初はカフェで出てくるパスタのイメージで仕上げたが、倅三はどうやら、昭和の喫茶店のケチャップ味のナポリタンを期待していたようだ。
 テーブルを見渡すと、焼いた牛肉があった。昨日、乃津麻が指示したように甘辛く濃いめに味をつけたものだが、遠くに追いやられている。見ただけで味がわかるのか、倅三は箸をつけようともしない。
 実は倅三が席に着く前に、乃津麻が肉の味見をしていた。
「これ、お弁当のおかずにはいいけど、お父さんこういう味つけは食べないから」
 顔をしかめて皿を突っ返したが、その通りになった。
 倅三はパスタの皿を脇にどけ、くし切りのトマトを二つ三つ突つく。昨日と同様、お茶漬けを黙って掻き込んだ。
「あれ取ってくれ、ゼリー」
 何種類もある薬が喉に引っかかり飲めない。そう嘆くので、薬を飲むためのゼリーを用意していた。
 倅三は慣れた手つきでピースパックから、ゼリーを少量スプーンに出す。その上にカラフルな錠剤を載せると、口に運んでごくんと飲んだ。
「ごちそうさん」
 後ろ手にドアを閉め、姿を消すと同時に乃津麻がきつい目を向けた。
「初、ちょっと病院に電話してくれない? こんなんじゃ困るわ」
「電話してどうするの? 今日は日曜だし、夕方の六時だし。どうにもならないでしょ」
 それでも乃津麻は、念のため、と食い下がる。
 救急外来に電話を入れると、来院はかまわないが主治医じゃないとわからない。なにもできませんよ、とのことだった。乃津麻はやっとあきらめた。
 これまで全力で倅三を励まし、役に立ってきたと思う。しかし、好きな料理で失敗したことに初は傷ついた。
 難しい手術は成功したのだ。食欲がないことぐらいで命を落とすわけにはいかない。しっかりしよう、と自分に言い聞かす。しかしなんの手立ても思い浮かばないのが情けなかった。

 翌朝、浮かない顔で倅三は、パジャマのまま降りてきた。
「やっぱり調子が上がらないなぁ」
 うつむいて首をかしげている。
 病院の受付開始の八時半ちょうどに、初は病院に電話をした。
「予約はなくても受診できますよ。十一時までに来てください」
 思いがけず親切な対応に、明るくなる。
 初が付き添い病院までタクシーを飛ばすことになった。
「それでいいでしょ、お父さん。病院まで初に連れて行ってもらいなさい。こんな風ではどうしようもないから」
「そうだよなぁ。でもなんだか今日は、昨日より食べられる気がする。食べようかな、と思える感じなんだよなぁ」
「ええ? なんなの、いまさら。それじゃ病院には行かないの? 行かなくていいのね?」
 尖った調子で問い詰める乃津麻に、倅三は首をひねる。
「じゃ、一応、行っておくか」

 タクシーを捕まえようと初は通りに飛び出した。月曜の朝なのに、車がちっとも通らない。
 タクシー会社に電話を入れる。
「今の時間は混んでいるからちょっと難しいですね」
 オペレーターはつれない。
 大通りまで行けばなんとかなるだろう。
 歩き始めるとすぐ先の整形外科の前に一台止まった。開いたドアから、会計を終えた老婦人が降りた。
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