第27話  チャンスを掴め

文字数 1,623文字


 乃津麻はいつものように、細かなやりとりを初に聞かせた。
「お父さんがこう言うの。
『俺は菊ノ香ワクチン一本で行く。それで行けるとこまで行く』
『もう決めたの?』
『ああ、決めた』
『ほんとうに決めたの?』
『そうだ』
『手術したほうがいいでしょ。手術したら?』
『いや、腹は決まったから』って。
 とにかく本人に代わるから。お父さーん、あら、さっきまでここにいたのに。おかしいわね、一回切ってかけ直すわ」
 手術後のダメ押しによかれと思った免疫療法だ。その資料のせいで、手術を止めると言いだした。血の気が引く後悔が初を襲った。
 思いがけない展開に、とまごまごするうち電話が鳴った。
「お父さん? お母さんがなんか言っていたけれど、どうしたの?」
「いやぁ菊ノ香ワクチンだけで行くよ。もう手術はよすから」
「地格ノ医院と別野クリニックで話を聞いたよね。菊ノ香ワクチンを受けている患者さんが一人ずついた。元気にしているって話だけど、どちらもがんの手術は受けていたよ。一人は抗がん剤まで打っていた」
「そうだな。そう言っていたな」
「菊ノ香ワクチンだけでがんを抑えられればいいけれど、手術したほうが絶対確実だって。医者も『取り切れる』って言ったよね。
 お父さんは運がいいの。膵臓がんは手遅れで見つかる人がほとんどだから、手術したくてもできない。それで抗がん剤に頼ったり、菊ノ香ワクチンみたいな免疫療法を試したりすの。
 チャンスを与えられたお父さんが見送るのはもったいないって」
 懸命に話しながら、初は電話の向こうで倅三が涙を拭っている気配に気づいた。手術を止めると言いだしたのは、自信がないからだろう。
 若いころ蓄膿の手術をしたぐらいで、倅三はお腹を切ったことがない。三年前、部分麻酔でステントを入れたときでさえ、倅三には大手術だった。いくつもの臓器にメスを入れ繋ぎ直すなんて、ありえない話だ。
 仮に手術を受けたとして、その先はどうなるのか。本当に回復するのか? もし寝たきりになったら……。不安の種はいくらでもあった。
 初の言葉が途切れると、倅三はな重い口を開いた。
「……チャンスか。そうだな、チャンスの女神は坊主だけど、前髪はある。だから急いで掴まないといけない、って聞くからな。
 ……よし、やるか。やろう」
 自分に聞かせるように、最後は力強かった。
「そうだよ、お父さん。ほら、春にお墓参りに行ったよね? こんなに早い段階でがんが見つかったのは、おじいちゃんとおばあちゃんが仕向けてくれたのかもしれないよ」
「うん、その考えはいいな」
「明日、飲み会でしょ? 気晴らしに行ったら? パッと飲んできたらいいよ。明後日は入院するだけだから二日酔いでも大丈夫」
「そうだな、顔を出してくるかな」
「じゃ、病院に行くときは私が付き添うからね。明後日の十時半ごろ、ロビーでね」
 大事な任務を終えると、横で弾が首を傾げていた。
「君はうまいこと説得するなぁ」
「なにを喋ったのかおぼえてない。われながら必死だったなぁ、汗かいたわ。
 それより、やっぱり手術することにした、ってお父さんが言ったら、どうなる? お母さんがなんて反応するか、それが心配」
「あのさ、入院するときに会おうなんて呑気すぎるよ。明日お父さんの元に行ったら? 一日、二日惜しんで後悔しても知らないぞ。ちょっとしたことで気持ちが萎えるから、手術までそばにいてあげなよ」
 弾の言うとおりだ。入院当日ロビーで待ち合わせなんて遅い。手術日の午後に行くのは論外だ。
 今すぐ駆けつけ寄り添っておかなくては、どこかに飛んで行ってしまいそうだ。

 翌日、実家を訪れると、倅三も乃津麻も出払っていた。合鍵を使い、リビングに入る。テーブルには初が送った菊ノ香ワクチンの資料。端をきっちりそろえて置いてあるのが倅三らしかった。
 リモコンを使い、所在なくテレビを眺めていると、玄関の鍵が開く音がした。
 そして着物姿の乃津麻が、今にも噛みつきそうな顔を出した。

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