第37話  壁に虫がいる

文字数 1,685文字

 初と目を合わせた倅三は、体をベッドに預けたまま、口を小さく動かした。
「最高だよ!」
 見たことのない笑顔だった。むくんだ顔にうもれた目まで輝かせている。背後の窓から射し込む光が神々しかった。
「昨日は看護師さんがとてもよくしてくれたよ、親切でね。なにも心配はなかった。いい夜だった」
「そう、よかったね」
 手術後の、おそらく過酷な夜を、倅三は乗り切った。初にもうれしいことだった。
 ユニットに流れるアップビートの洋楽が耳障りだ。倅三の趣味ではない。消してもらおうと、看護師を目で探す初を倅三は見ていた。
「この音楽、いいだろう。気が紛れるから、とかけてくれたんだよ。
一人、特に気の利く子がいてな。タバコ、って頼むとマッチと灰皿を一緒に持ってくるような子だよ。あの子はよかったなぁ」
 優しさが思い出されるのか、しきりに感心している。
 回復が順調なら一晩で一般病棟に移れる、と聞かされていた。倅三は手術室からすぐには出られなかった。顔は今でも相当むくんでいる。しばらく集中治療室に滞在だろう。
 先ほどまでそばにいた担当看護師がブースに戻ってきた。
「観社さーん、これから一般病棟に移動になりますからね。お支度しますよー」
「今日ですか?」
「ええ、十一時です。今から準備に入りますので、手術待合でお待ちください」
「今日はてきり無理だと思っていました」
「容体が安定していますし、新しい患者さんも入ってきますので」
 数に限りがある集中治療室は、次の人に譲るのだ。
「お父さん、よかったね。一般病棟に引っ越しだよ。向こうで待っているからまたあとでね」
 倅三に手を振り、初は部屋を出た。
 前日、長い夕方を過ごした家族待合室には、見おぼえのある家族がいた。廊下にたたずむ家長らしき初老の男性は、難しい顔で電話をしている。ソファに残った他のメンバーも、顔を寄せひそひそと声を交わす。
「一時は心臓が止まったって言うじゃないか」
 ただならぬ話がときおり漏れてくる。
 大変なのはよそも同じなのだ。

 しばらくすると、看護師に付き添われ、倅三がベッドごと廊下に出てきた。一緒に新たな病室に向かえば、案内されたのは個室だった。
 倅三の希望は相部屋だ。個室は寂しくてたまらないと言う。ただ病院の方針で、手術直後は個室に入る決まりらしい。
 この部屋にもまた、ものものしい機器が据えつけられていた。とはいえ集中治療室が横綱とすると、大関クラスだ。一つ一つが小ぶりで簡易的である。
 所定の場所に固定された倅三は、機器から伸びるチューブを、鼻、お腹、背中に繋ぎ直されている。痛々しい見た目だが、痛みを感じないのか、なすがままだ。
 こんなに早く一般病棟に移れるとは、奇跡としか思えなかった。
 看護師から、昨日の朝預けた荷物を引き取る。箸、スプーン、コップ、歯間ブラシをサイドテーブルの引き出しに並べると、あとは退院まで一直線な気がする。気がかりは、替えの下着がないことぐらいだ。
「一般病棟に移れてよかったね、お父さん。しかも個室だよ」
「これじゃ狭いよ、間口がこんなじゃなぁ」
「贅沢だね、十分広いと思うけれど。入り口は車椅子が楽に通れる幅だし、洗面台もトイレもゆったりしているし。おまけに建物も新しいから設備もきれいで……」
 豪華ではないが十分快適な空間だ。倅三にしては珍しい不平だった。

 その病室が相当なストレスだとわかったのは翌日のこと。
 手術後初めて見舞いに行った乃津麻から、電話があった。
「お父さんは壁に虫がいるって言うの。困っちゃう」
「虫? また例のアレかな。ほら、せん妄ってやつ」
「そうでしょ。よく眠れないって言っているし」
「かわいそうだね。で、なにか対応してもらったの? 看護師さんはどう言っていた?」
「別に」
 乃津麻はふてくされたように吐いた。
 聞くだけ無駄だった。倅三の困惑を看護師に訴える乃津麻なら苦労はしない。
 しばらく見舞いは母に任せるつもりでいたが、そうもいかないようだ。それに、生検の結果も気になってしかたがない。
 ほんとうにがんが取り切れたと、一刻も早く確認したい。そうでないと安心できなかった。
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