第16話  決意

文字数 2,492文字

「なるほど、それもそうだな。じゃ、早いほうがいいな」
 そう言うなり、倅三はスケジュール帳代わりにしているカレンダーを、壁から外した。
「ちょっと待って。早いほうがよくてもお父さんの都合で手術日は決められないよ。先生が考えてくれるはずだから、とにかく話を聞きに行こうよ」
 とたんにその気になった倅三に、焦ったのは初だ。
 こうやってあたり前のことを話して聞かせれば納得するのだ。不安がこじれて考えが後ろ向きになるのは、乃津麻のせいだ。否定的なことばかり吹き込むからだ。
 手術はしないと倅三は言った。そのあとに、「お母さんの負担になるし……」と、消え入りそうに言葉を濁した。初はもちろん聞き逃さなかった。
 手術に前向きになれない理由の一つが、妻に迷惑をかけないためならなおさら、支えてあげなくてはならない。そばにいて自分の考えで決断できるよう支援するのだ。

 夕飯を五時に始めるのは乃津麻の習慣だった。乃津麻はまだ戻っていないが、初は台所に立つ。
 大磯から持ってきた脂の乗ったブリはお造りに。イカの酢味噌和えと春野菜の天ぷら、貝の味噌汁が今夜のメニューで、テーブルにお皿の花が咲く。
 乃津麻が戻ると、倅三を急かせた。いつもぐずぐずして乃津麻を怒らせるからだ。
「すごいご馳走だな。初、大変だっただろう。どれもうまそうだなぁ」
 席に着いた倅三が目を見張る。
 長年肉食だったが、七十を過ぎてからは魚も好んで口にするらしい。乃津麻によれば、近ごろは刺身を好んで食べているという。
 待ちきれず、倅三がぶりをつまむ。軽く醤油につけ、口に運ぶと目を細めている。魚なんて食った気がしないと長年けなしていた。同じ人物とは思えない光景だ。
「これはうまい。お母さんも食べなさいよ、早くしないとなくなっちゃうよ」
「まず乾杯だよ、お父さん」
 スーパーで買ったらしい紙パックのワインを、なにかのおまけのグラスに注いでいた乃津麻が顔を上げた。
「なにに乾杯するのよ」
「今日も食事ができる幸せに、かな」
 皆の心にあるのは倅三のがんだ。それを口にするのは直接過ぎた。
「じゃ、乾杯!」
「乾杯!」
 無心に刺身を攻めていた倅三が、ふと箸を止めた。
「あれ、お母さん、お刺身は? 食べないの?」
「最近お腹周りが気になるから」
 漁村育ちで魚好きの乃津麻には珍しく、魚にもワインにも手をつけていない。しきりと大きなグラスで白い液体を口にしている。
「お母さん、なにそれ?」
「牛乳にお酢を混ぜたやつ。痩せるんだって、テレビでやっていた」
「おいしいの?」
「まあね」
 娘が用意した食事に夫が喜んでいるのが気に入らないのだろう。
 テレビを見ながら食事をするのは観社家の長年の習慣だ。だが倅三の耳が遠くなったせいで、初には音がうるさい。
 キンキン声で若い女がゴールデンウィークのオススメ観光スポットを紹介している。その声に負けないように倅三が宣言する。
「明日は三人で行くぞ、一生のことだからな」
「どこに行くわけ? ピクニック? ああ楽しい」
 乃津麻がわざとらしく茶化し、「ははは」と乾いた笑い声を上げる。
 退院後初めてウイスキーの水割りで喉を湿らせた倅三は、珍しく音を立ててグラスをテーブルに戻した。
 乃津麻は夫の苛立ちに気づかないふりだ。
「初が行くってよ。二人で行ってくればいいのよ」
「だめだよ、三人で行かないと」
 テレビの音に負けないよう、初は怒鳴り声になる。
「行かないわよ、私は」
 乃津麻がそっぽを向いた先には、行列のできるラーメン店が映っている。レポーターの麺をすする音だけが派手に響く。
 冷え切った食卓だった。
 食事を終えると、初が冷蔵庫からガラスの器を運んだ。盛られたイチゴを家族が無言でつつく。
ついに倅三が立ち上がった。
「ごちそうさん」
 風呂にでも入るのだろう。
ドアが閉まったとたん、乃津麻が好奇の目を向けた。
「お父さん手術するって?」
「わからないよ。心臓の検査をして外科の話を聞いてみないと」
「どうせやりたいのよ。命が惜しいの、あの人は。モルモットにされるだけなのに。
 あんた、裏の松本さん知っているわよね。ご主人ね、二十何年か前にまだ五十代で、手術で取り切れるって言われたんだって。それなのに取り残しがあとで見つかったそうよ。
 クリスマスに切って三月に死ぬまで寝たきりだったって。死を待つ人を見舞うのは辛いものよ、って。しんみりしていたわね。
 うちのお父さんもそのクチよ」
「松本さんのご主人、亡くなったの、そんなに前なんだね。膵臓がん?」
「胃がん」
「お父さんと同じ病院?」
「違う、どっかの大学病院だけれど」
 時代も年齢も病気も病院も、どこにも倅三との接点がなかった。それなのに乃津麻は夫とその人を重ね合わせていた。
「あのさぁ、そういう方がいらしたのはお気の毒だけれど、お父さんとは全然違うよね。比較にならないよ」
 席を立ち、初はテーブルに残った調味料を片づける。食器を洗っていると、ともの言葉が頭に浮かんだ。
「お母さんは思考停止しちゃっているね。お父さんの病気、受け入れられないのだよ」
 乃津麻の心配は理解できる。しかし否定的な情報ばかり吸い寄せ不安な気持ちを増長させるのは問題がある。
 最悪の状況を想像し、そこに溺れたいのか? 溺れて忘れてしまいたいのか? 
 愚かな現実逃避は倅三の生きたい気持ちを妨げていた。

 二階の自室のドアを閉めると、初は床にヘタり込んだ。
 がんかもしれないと告知されて以来、緊張が解けない。調べ物や倅三のケア、実家での食事の支度や片付けがのしかかっている。
 しっかり者として楽々こなしているよう振る舞ってきた。少しでも疲れた様子を見せれば、乃津麻に嫌味を言われるだろう。
「来なくていいわよ。大磯でゆっくりしていなさいよ」
倅三だって「心配いらないよ」とやんわり帰すはずだ。
 こんなに疲れていては今夜もまた寝つけない。
 でもこの件が片付くまでは、やり通す決意だった。
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