第40話  個室なのに

文字数 1,856文字

「でもこんな所じゃダメだろう、いくらなんでも」
 倅三は声を落とした。
「なんでよ、大丈夫に決まっているって。だって個室でしょ、この部屋。だれかの迷惑になるわけでもないし」 
 初の励ましに気をよくしたのか、リモコンをいじり、電動ベッドを起こした倅三は、パターの感触を確かめている。
 たまたま顔を出した看護師に確認すると、初めてのケースだが個室なので大丈夫、とのことである。
「ほらね、言ったとおりでしょ。これくらい平気だって」
 倅三と笑っているところに、見るからにベテランの、威厳のある看護師が現れた。
「ワタクシ、こちらの病棟の看護師長をしております。今しがた担当看護師から、ゴルフの練習をなさりたいと聞きました。いったいどういうことでしょうか」
「あの、練習というほどでもなくて……。父はここ数日落ち込んでいます。パターでも握ってボールを転がしたら気散じになるかと思いまして。家から簡単な道具を持ってきました」
「お気持ちはわかります。でもなにかの拍子にお腹の管に引っかけて、抜けてしまうといけませんし……」
 語尾を濁したが、要はやんわりとした禁止だ。
 初は「わかりました」と応じると、部屋の隅に広げた人工芝を無言でたたむ。すごすごとロッカーに戻し扉を閉めたとたん、世界が色を失った。
 さえない倅三の回復がどういう段階なのか、主治医から話を聞きたかった。コンビニのおにぎりとサラダでお昼を済ませてから、ナースステーションに立ち寄る。
 処置の立て込む時間帯なのか、スタッフはだれもいない。やっと戻った看護師に、観社倅三の様子が聞きたい、と伝える。
「私は担当ではないのでわかりません」
「ご担当の方をお願いできませんか」
「今は手が離せません」
「桐鯛先生のお話をうかがいたいのです。朝の回診は何時ごろですか。回診のときにいれば、お話をうかがえますよね」
「オペがあると回診は昼過ぎになることもあります。夕方の回診も八時、九時にずれ込むことは普通ですし。先生のお話はいつ聞けるかわからないです」
「それでは約束して来たほうがいいですね」
「アポを取っていただくにしても、一週間ぐらい先になります」
 元気のない父、不親切な看護師、いつになったら会えるかわからない主治医。初はあきらめて病院を後にした。

 翌日。
 いつものように病室に顔を出してから、フードコートでひとり昼食をとった。ゴミを捨て病室に戻りかけたとき、ばったり顔を合わせたのは、白衣の桐鯛医師だった。
「先生、観社です、父がお世話になっております」
 医師はすぐに認識したようで、親しげな笑顔を見せた。
「あの、合併症はどうでしょうか。元気がないのが心配で」
「合併症は幸い、ないです。ただ、ご飯が入って行かないみたいですね」
「偏食で早食いなので、よく噛んでゆっくり食べて、といつも口うるさく言っています。でも嫌いなものはろくに噛まず飲み下すようで、胃腸に負担をかけているのではと……」
「退院」が頭をかすめる。膵頭を切除する手術の場合、順調なら術後三週間で退院、とどこかのサイトにあった。元気のなさからして、そのペースではとうてい無理だろう。
「こんな調子ではいつ退院できるか、先生も決められないですよね」
「いえ、退院は今週末……そうですねぇ、週明けには可能です」
「週明けって、あと数日ですか?」
「二週間で退院、って言いましたよね」
 怪訝な初に、医師は宣言した。
 ほんとうだろうか? 聞き間違いではないか?
 たしか、手術後の説明では、「一週間で口から食事、さらに一週間で退院が見える」と聞いた気がする。
 初は「二週間経ったら退院時期がわかる」と理解した。だが医師は「手術後二週間程で退院できる」と言っていたのだ。
「お父さん、お父さん!」
 エレベーターを下りるのももどかしく病室に飛び込む。
「今ね、桐鯛先生にばったり会ったの。週明けには退院だって。
 よかったね、すごいじゃない。ここにいるのもあと数日だよ」
 手を握ると、倅三はもう涙を浮かべている。
「好きなご飯が食べられるし、今度こそゆっくり眠れるよ、お父さん」
「そうだな。野菜臭い味噌汁はかなわないよ。昨日までご飯が出ていたのにおかゆに戻っちゃったし。看護師には、梅干しがあれば食べられるって言ったんだ。そうしたら梅肉ペーストがついたのは助かったけれど」
 倅三はせん妄のせいで匂いに敏感だ。それで味噌汁の具も臭ったのだろう。
 ほっとして、初はへたり込みそうだった。
 病院通いは限界だ。生検の結果はまだだが、それすら手放し体を休めたかった。
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