第6話 トラブルメーカー
文字数 1,909文字
そこには芽が涼しい顔で立っていた。
「どうしたの、ママ」
「荷物着いたでしょ。あら、届いているのね、よかった。送る前に知らせるつもりだったのよ。でもバタバタしちゃって。行ったほうが早いかしらと思って電車に乗ったら、あっという間ね、静岡から」
よく通る声がしだいに大きくなり、優雅に姿を現したのは、まさしく芽だった。つば広の帽子にサングラス、レースの手袋にスカーフと、ヨーロッパのマダムに引けを取らない貫禄は相変わらずである。
「あら初さん、お久しぶり。いらしていたのね。あなた、いつまでも若くてうらやましいわ。三十代でも通用するわよ」
おっとりとサングラスを外せば、色の白い木目の細かな肌は衰え知らず。芽とは十五年ぶりのともの結婚式以来だが、ミスコン荒らしだった若き日の面影たっぷり、とても七十代半ばには見えない。
「芽さんこそ、時間が止まったみたいですよ、若々しくて。秘訣を教わりたいぐらい」
挨拶に立とうと腰を浮かせた初を、芽は手で制す。
「どうぞ、そのままで。ともちゃん、私、部屋にバッグを置いてきたいの。案内してもらえないかしら?」
「部屋って? どういう意味でしょうか」
「しばらく置いてもらうつもりで静岡を引き払ったのよ。迷惑よねぇ、でもともちゃんのところ以外に身を寄せるあてもないし。荷物を先に送っちゃったってわけなの」
悪びれもせずサングラスを顔に戻す芽に、ともは目を合わせない。
「廊下の突きあたり左、檀の部屋」
離婚する前に夫が書斎にしていた部屋を、忌々しげにあてがった。
「ごゆっくり」
初に愛想笑いを投げて、芽が引っ込む。
「信じられない。なんの相談もなく引っ越してきたのよ。しかも初がいるときを狙って。どういうこと?」
ともの怒りはもっともだった。芽はふらりと現れ、またいなくなることの繰り返しだ。そのたびにだれかに騙されたり、若い恋人から逃げていたりのトラブルメーカーだ。
ともと妹のとこは、一年もあけずに結婚した。そのとき、この際だから芽の戻る場所をなくそうと、実家を処分した。
風来坊の母親問題は解決したかに見えたが、そうではなかった。
十年後にともが離婚。夫婦で買った家をローンごと引き継いだ。するとどこで聞きつけたのか、芽がひょっこり現れ、しばらくするとまた姿を消した。
芽の気まぐれにあうたび、あのひととは縁を切る、とともは宣言する。それなのに本人を前にすると、「可哀想になって」つい許してしまうのだ。
母親に毅然とできないともの姿は、初には人ごとではなかった。
「しょうがないね、ダメ母は」
と親友を慰めるのは、似たような境遇にある自分への言葉でもあった。
初はともの怒りが落ち着くのを見計らっていた。
「あんまりかっかしないでね、とも。私、そろそろ帰るよ。布団を干してきちゃったから。またすぐ押しかけるけれど」
と席を立ち、廊下の奥に向かって声をかける。
「芽さん、初はそろそろ帰りますね。うちは近所なのでぜひ遊びにいらしてください。芽さんのお好きな海が見えますよ。ではごきげんよう」
初のあとをついて、ともも玄関に向かう。
すると沓脱の手前で、白い封筒に気づいた。中から書類をつまみ出したとたん、顔が険しくなる。
「ちょっと、初、これ見てよ、この紙。腹が立つわね、まったく。またなにかやらかしたのよ、あのひと」
積み上げられた段ボールの横で、初は靴を履いていた。乱暴に差し出された書類には「訴状」とある。ともがよこした十枚ほどにざっと目を通す。芽はある男に訴えられていた。
「いろいろ貸したけれど返してくれない。慰謝料込みで五百万円払え、だって。この人そうとう怒っているみたい。とも、どうする?」
「五百万円! いろいろって、あのひと、なにを借りたの? お金? そうよね、お金に決まっているわよね」
「まずお金。それからこの人が所有しているマンション、それから車。あとは時計とか指輪とか、細かい物が書いてあるけれど」
初が芽に初めて会ったのは、中一の夏休みだった。芽が出奔する直前だ。鎌倉の家に遊びに行くと、寿司の出前でもてなしてくれた。
芽は若くて美人だった。「おばさん」とは呼び難い。「とものお母さん」ともじもじ声をかけると、「芽さんでいいわ」と微笑みが返った。
友達の母親としては素敵なおばさまなのに、と初は残念になる。
「ママ!」
奥に向かってともが叫ぶが、コトリともしない。
「ママ、ちょっと来て! いるんでしょ、部屋に。隠れたってわかっているのよ。早く出てきてよ!」
ともの怒鳴り声に、初の鼓膜まで痛くなった。
「どうしたの、ママ」
「荷物着いたでしょ。あら、届いているのね、よかった。送る前に知らせるつもりだったのよ。でもバタバタしちゃって。行ったほうが早いかしらと思って電車に乗ったら、あっという間ね、静岡から」
よく通る声がしだいに大きくなり、優雅に姿を現したのは、まさしく芽だった。つば広の帽子にサングラス、レースの手袋にスカーフと、ヨーロッパのマダムに引けを取らない貫禄は相変わらずである。
「あら初さん、お久しぶり。いらしていたのね。あなた、いつまでも若くてうらやましいわ。三十代でも通用するわよ」
おっとりとサングラスを外せば、色の白い木目の細かな肌は衰え知らず。芽とは十五年ぶりのともの結婚式以来だが、ミスコン荒らしだった若き日の面影たっぷり、とても七十代半ばには見えない。
「芽さんこそ、時間が止まったみたいですよ、若々しくて。秘訣を教わりたいぐらい」
挨拶に立とうと腰を浮かせた初を、芽は手で制す。
「どうぞ、そのままで。ともちゃん、私、部屋にバッグを置いてきたいの。案内してもらえないかしら?」
「部屋って? どういう意味でしょうか」
「しばらく置いてもらうつもりで静岡を引き払ったのよ。迷惑よねぇ、でもともちゃんのところ以外に身を寄せるあてもないし。荷物を先に送っちゃったってわけなの」
悪びれもせずサングラスを顔に戻す芽に、ともは目を合わせない。
「廊下の突きあたり左、檀の部屋」
離婚する前に夫が書斎にしていた部屋を、忌々しげにあてがった。
「ごゆっくり」
初に愛想笑いを投げて、芽が引っ込む。
「信じられない。なんの相談もなく引っ越してきたのよ。しかも初がいるときを狙って。どういうこと?」
ともの怒りはもっともだった。芽はふらりと現れ、またいなくなることの繰り返しだ。そのたびにだれかに騙されたり、若い恋人から逃げていたりのトラブルメーカーだ。
ともと妹のとこは、一年もあけずに結婚した。そのとき、この際だから芽の戻る場所をなくそうと、実家を処分した。
風来坊の母親問題は解決したかに見えたが、そうではなかった。
十年後にともが離婚。夫婦で買った家をローンごと引き継いだ。するとどこで聞きつけたのか、芽がひょっこり現れ、しばらくするとまた姿を消した。
芽の気まぐれにあうたび、あのひととは縁を切る、とともは宣言する。それなのに本人を前にすると、「可哀想になって」つい許してしまうのだ。
母親に毅然とできないともの姿は、初には人ごとではなかった。
「しょうがないね、ダメ母は」
と親友を慰めるのは、似たような境遇にある自分への言葉でもあった。
初はともの怒りが落ち着くのを見計らっていた。
「あんまりかっかしないでね、とも。私、そろそろ帰るよ。布団を干してきちゃったから。またすぐ押しかけるけれど」
と席を立ち、廊下の奥に向かって声をかける。
「芽さん、初はそろそろ帰りますね。うちは近所なのでぜひ遊びにいらしてください。芽さんのお好きな海が見えますよ。ではごきげんよう」
初のあとをついて、ともも玄関に向かう。
すると沓脱の手前で、白い封筒に気づいた。中から書類をつまみ出したとたん、顔が険しくなる。
「ちょっと、初、これ見てよ、この紙。腹が立つわね、まったく。またなにかやらかしたのよ、あのひと」
積み上げられた段ボールの横で、初は靴を履いていた。乱暴に差し出された書類には「訴状」とある。ともがよこした十枚ほどにざっと目を通す。芽はある男に訴えられていた。
「いろいろ貸したけれど返してくれない。慰謝料込みで五百万円払え、だって。この人そうとう怒っているみたい。とも、どうする?」
「五百万円! いろいろって、あのひと、なにを借りたの? お金? そうよね、お金に決まっているわよね」
「まずお金。それからこの人が所有しているマンション、それから車。あとは時計とか指輪とか、細かい物が書いてあるけれど」
初が芽に初めて会ったのは、中一の夏休みだった。芽が出奔する直前だ。鎌倉の家に遊びに行くと、寿司の出前でもてなしてくれた。
芽は若くて美人だった。「おばさん」とは呼び難い。「とものお母さん」ともじもじ声をかけると、「芽さんでいいわ」と微笑みが返った。
友達の母親としては素敵なおばさまなのに、と初は残念になる。
「ママ!」
奥に向かってともが叫ぶが、コトリともしない。
「ママ、ちょっと来て! いるんでしょ、部屋に。隠れたってわかっているのよ。早く出てきてよ!」
ともの怒鳴り声に、初の鼓膜まで痛くなった。