第51話 食べたい
文字数 1,644文字
ほらね。
初が思ったとおりの反応だった。
母はなぜ、あんな風に感情的で不愉快なもの言いをするのだろう。
「私はわかったからいいわ。あなたが聞きたいなら一人で会ってきたら?」
普通にそう言えばすむことなのに。
これだけ娘を巻き込んでおきながら、そっとしておいてとはどういうことか……。
初は思わず両手の拳をこめかみにあて、ぐりぐりと頭をもんだ。最近よく襲われる頭痛だ。
倅三が入院する日も手術の前日も、初が付き添っていた。手術当日、最後まで病院で待機したのも初だ。
入院中の見舞いも、退院後、食べられない倅三を病院に連れて行ったのも、まさしく初だった。
さんざんやらせておきながら、いまさら首を突っ込むな? そっとしておいてくれ?
なにを言われても傷つかないよう用心したはずだった。しかし初の頭は怒りで爆発しそうだ。
そこに電話が鳴った。待ち受け画面の「乃津麻」の文字に、ぎくりとする。
「さっきは言い過ぎたわ、ごめんなさい」
そんなしおらしい話である可能性は、ない。無視しようかと一瞬迷ってから、通話ボタンを押す。
「あんたね、言っておくけれど、お願いだからそっとしておいて。ね、お願いだから」
哀れを誘うつもりの言葉が安っぽく響く。
「あのさ、お父さんが大変なときに、こんなことでいがみ合っている場合かな? できることを分担して、力を合わせて支えればいいでしょ。お願いなんかされない!」
怒鳴りつけて初は、はじめて電話を乱暴に切った。我慢の限界だった。
翌日。
主治医との面談を申し込んだ返事が今駄医師からあった。明日の午後一時はどうかと打診され、承諾した。
「観社さんは、昨日は食事も八割、九割平らげて、血圧も一三五まで上がりました。もう少し下げたほうがいいのですが、お元気にしていらっしゃいますよ」
乃津麻を通すと倅三は今にも栄養失調で死にそうだし、この医者もとんでもなく失礼なヤカラになる。しかし実際は、倅三はそこそこ食欲があり、それを報告する医者の態度はひどくまともなのだった。
桐鯛医師との面談の前に、初は映画に行き、カフェでランチをした。ささやかな贅沢のおかげで、乃津麻への怒りは落ち着いた気がする。
個室のベッドで倅三は、ポツンと天井を見つめていた。初に気づくと寝たまま、軽く手を挙げた。
「お父さん、調子はどう? ご飯が食べられなくて入院したらしいね」
「うん、そうなんだよ。元気は元気なんだけどなぁ」
「困ったね。病院では少しは食べられるの? 家にいたときよりまし?」
「まぁなんとかな。初、俺は退院したら、焼きそばを食べてみようと思っているんだ」
「焼きそばって、駅前の、このあいだ行ったお店?」
「インスタントで『鉄平ちゃん』とかっていうの、あるか? それがうまいって聞くよ」
「『鉄平ちゃん』? そんなのがあるの? 知らないな」
「なかなかうまいって評判だよ」
娘は心配をこじらせた母親と険悪になっているのに、『鉄平ちゃん』が食べたいとは、呑気なものである。
「つけ麺もうまそうだよな」
「つけ麺ね。どんなやつ?」
「このあいだの店で隣に座った人が頼んだの、あれつけ麺だろ。違うか?」
「あれは冷やし中華。おいしそうだったよね、私もあれにしようかと一瞬迷った」
「そうか、冷やし中華か。上に載っている野菜はいらないから、汁と麺と肉を食べたら、さぞかしうまいだろうな」
駅前のラーメン屋で中年の女性客が注文した冷やし中華は、初の目にも魅力的だった。倅三もそれを盗み見ていたとは、おかしなものである。
病院食は倅三の嫌いなおかゆばかりのようだ。脱水症状を改善させる点滴も続いている。
倅三が退院後にあれを食べよう、これを食べようと夢想するのは、食欲があるからに違いない。 現実逃避に食べ物のことばかり考えているのだろう。
「ほかにはなにが食べたいの、お父さん」
「黒豚のとんかつはよさそうだな。退院したら自分で買い物に行って、好きなものを食べるよ」
話を向けるといくらでも、好物が淀みなく出てきた。
初が思ったとおりの反応だった。
母はなぜ、あんな風に感情的で不愉快なもの言いをするのだろう。
「私はわかったからいいわ。あなたが聞きたいなら一人で会ってきたら?」
普通にそう言えばすむことなのに。
これだけ娘を巻き込んでおきながら、そっとしておいてとはどういうことか……。
初は思わず両手の拳をこめかみにあて、ぐりぐりと頭をもんだ。最近よく襲われる頭痛だ。
倅三が入院する日も手術の前日も、初が付き添っていた。手術当日、最後まで病院で待機したのも初だ。
入院中の見舞いも、退院後、食べられない倅三を病院に連れて行ったのも、まさしく初だった。
さんざんやらせておきながら、いまさら首を突っ込むな? そっとしておいてくれ?
なにを言われても傷つかないよう用心したはずだった。しかし初の頭は怒りで爆発しそうだ。
そこに電話が鳴った。待ち受け画面の「乃津麻」の文字に、ぎくりとする。
「さっきは言い過ぎたわ、ごめんなさい」
そんなしおらしい話である可能性は、ない。無視しようかと一瞬迷ってから、通話ボタンを押す。
「あんたね、言っておくけれど、お願いだからそっとしておいて。ね、お願いだから」
哀れを誘うつもりの言葉が安っぽく響く。
「あのさ、お父さんが大変なときに、こんなことでいがみ合っている場合かな? できることを分担して、力を合わせて支えればいいでしょ。お願いなんかされない!」
怒鳴りつけて初は、はじめて電話を乱暴に切った。我慢の限界だった。
翌日。
主治医との面談を申し込んだ返事が今駄医師からあった。明日の午後一時はどうかと打診され、承諾した。
「観社さんは、昨日は食事も八割、九割平らげて、血圧も一三五まで上がりました。もう少し下げたほうがいいのですが、お元気にしていらっしゃいますよ」
乃津麻を通すと倅三は今にも栄養失調で死にそうだし、この医者もとんでもなく失礼なヤカラになる。しかし実際は、倅三はそこそこ食欲があり、それを報告する医者の態度はひどくまともなのだった。
桐鯛医師との面談の前に、初は映画に行き、カフェでランチをした。ささやかな贅沢のおかげで、乃津麻への怒りは落ち着いた気がする。
個室のベッドで倅三は、ポツンと天井を見つめていた。初に気づくと寝たまま、軽く手を挙げた。
「お父さん、調子はどう? ご飯が食べられなくて入院したらしいね」
「うん、そうなんだよ。元気は元気なんだけどなぁ」
「困ったね。病院では少しは食べられるの? 家にいたときよりまし?」
「まぁなんとかな。初、俺は退院したら、焼きそばを食べてみようと思っているんだ」
「焼きそばって、駅前の、このあいだ行ったお店?」
「インスタントで『鉄平ちゃん』とかっていうの、あるか? それがうまいって聞くよ」
「『鉄平ちゃん』? そんなのがあるの? 知らないな」
「なかなかうまいって評判だよ」
娘は心配をこじらせた母親と険悪になっているのに、『鉄平ちゃん』が食べたいとは、呑気なものである。
「つけ麺もうまそうだよな」
「つけ麺ね。どんなやつ?」
「このあいだの店で隣に座った人が頼んだの、あれつけ麺だろ。違うか?」
「あれは冷やし中華。おいしそうだったよね、私もあれにしようかと一瞬迷った」
「そうか、冷やし中華か。上に載っている野菜はいらないから、汁と麺と肉を食べたら、さぞかしうまいだろうな」
駅前のラーメン屋で中年の女性客が注文した冷やし中華は、初の目にも魅力的だった。倅三もそれを盗み見ていたとは、おかしなものである。
病院食は倅三の嫌いなおかゆばかりのようだ。脱水症状を改善させる点滴も続いている。
倅三が退院後にあれを食べよう、これを食べようと夢想するのは、食欲があるからに違いない。 現実逃避に食べ物のことばかり考えているのだろう。
「ほかにはなにが食べたいの、お父さん」
「黒豚のとんかつはよさそうだな。退院したら自分で買い物に行って、好きなものを食べるよ」
話を向けるといくらでも、好物が淀みなく出てきた。