第35話  生還

文字数 1,676文字

「まだかしらねぇ、初。もう帰らない? お父さんの顔なんか見なくていいわよ。早くご飯にしたいわ」
「あのさぁ、せっかくここまで待ったのだから、もうちょっと我慢しようよ。お父さんが頑張っているのに、家族がだれも出迎えなかったら、がっかりでしょ」
 乃津麻の言葉がどこまで本心か、初は測りかねた。
「どうだった? お父さんはどんな具合?」
 振り返ると、珍しくジャケットを着た、パリッとした格好の弾だった。
「うまく行ったみたい、腫瘍は取り切れたって。浸潤もなかったらしくてひと安心」
「そりゃよかった。よかったですね、お義母さん」
「え、あ、はい」
 乃津麻は愛想よく返したが、どこかよそよそしい。
「お義母さん、ちょっと失礼しますよ。急ぎで片付けなきゃいけない仕事があるので」
 弾は空いているソファに腰を下ろすと、ノートパソコンでなにやら作業を始めた。
 乃津麻が娘婿と会うのは、これで三回目だった。七年で三回。倅三の手術がなければ二回のままだ。
 少なくとも年に一度は弾を交えて両親と食事を、と願う初だが、乃津麻のせいで実現しない。乃津麻の偏屈を理解して、妻の実家に上がれないことも、会食できないことも、気にしない風情のに、初は感謝している。
 そんな思いの娘をよそに、乃津麻は弾からそっと顔を背けて口を開いた。
「忙しいなら、来なけりゃいいのに」
 ひとりごとのふりだが、初にだけ聞こえるよう計算ずくだ。初は思わず見つめ返す。乃津麻はなにもなかったかのように、あらぬ方向に目をやり澄ましている。
「ねえ、帰ろう。もういいでしょ、いなくたって。あーやだやだ、いつまでこんなところにいるのかしらね。早くご飯食べて、お風呂に入って、寝なくちゃ。明日もあるのに」
 乃津麻に大した用があるはずがなかった。
 あなたには明日があるかもしれない。でもお父さんにはないかもしれないよ、と返したい気持ちをこらえる。
「わかった。お母さん、ここでちょっと待っていて。あとどれくらいかかるか、聞いてくるから」
 初は立ち上がった。
 壁の時計は七時四十分を指している。桐鯛医師が姿を見せてから、一時間が経っていた。
 
 ひんやりした廊下の先に集中治療室はあった。インターフォンを押して、マイクのあたりに口を近づける。
「観社倅三の家族ですが、まだかかりそうですか。もうすぐ出てくると、先生からさっきうかがったのですが」
「少しお待ちください」
 いつもの対応だがもう腹も立たない。長いこと待たされたあげくラチがあかないか、さらに待たされるか、どちらかだろう。
 壁にもたれてふと足元に目をやる。ちょっと前におろしたスニーカーが場違いだ。服もバッグもなんだか冴えない。初は突然、全部脱ぎ捨てこの場から逃げたくなった。
 そのとき、インターフォンから声が漏れた。
「観社さん、どうぞお入りください」
 われに返り、小走りに待合室へと戻る。
「もう会えるって。早く、早く」
 乃津麻と弾はあわてて荷物をまとめると、初を追った。
 集中治療室に入るには、したくが必要だ。
「まずロッカーに荷物を置いて。それから髪をここにある不織布のキャップで覆って、マスクをする。そのあと石鹸で手を洗ってから消毒液を擦り込むの」
 前日教わったことを指導すると、二人はぎこちなく真似した。
 扉の向こうは広くて天井の高い空間だった。いくつものユニットにわかれている。それぞれのユニットは大きく、ものものしい機械が並んでいる。
 桜のころ、倅三が暴れていた救急治療室も、ちょっとした眺めだった。しかしこの部屋には見劣りするだろう。集中治療室が横綱だとしたら、救急治療室は小結か。それぐらい、技術の粋が詰まっている。
 案内された区画には、目が開かないほど顔が腫れた倅三がいた。ベッドを囲むものものしい機器が、命を繋いでいるようだ。
 初は思わず駆け寄った。
「お父さん、よく頑張ったね。終わったよ。先生が全部取れたって言っていた。よかったね」
「見えますか、観社さん。ご家族がいらっしゃいましたよ」
 看護師が耳元で話しかけると、倅三は横たわったまま首を縦にかすかに動かした。
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