第23話  芽の事情

文字数 2,041文字

 鳥のさえずりに誘われ、初は新しいスニーカーを箱から取り出した。弾のアメリカ土産は、倅三のがん騒動で出番がなく、シューズボックスにしまわれたままだった。
 大磯では車でないと買い物ひとつ満足にできない。となると、歩くのが面倒になり、歩ける距離でも車を使うようになった。
 あるとき、なんでもない道のりで息切れした。
 これはマズイと散歩を始めて一年。身じたくにお金をかけたせいで、なんとか続いている。最初は三分もすると帰りたくなったのに、今では坂も難なくこなす。電車で立つのも苦ではない。
 新しい黒のスニーカーは気分をシャキッとさせた。立派な屋敷沿いの新緑が、初の目を楽しませる。
「給水、給水! 給水しないと倒れますよー」
 聞きおぼえのある声は、庭で手を振るともだった。
「キャディーさんみたいな格好だね、とも。紫外線対策もバッチリだし。芝生のお庭でゴルフの練習ですか?」
「残念ながら、草むしり。もうすぐゴールデンウィークだから綺麗にしておこうと思って。ハーブティーでもどう? 変わった色のお茶が手に入ったよ」
 初は伸ばした腰を大げさに拳で叩くと、初を玄関に招いた。

 山積みだった段ボール箱はきれいに片付けられていた。花瓶の菖蒲は、この間、庭で見かけた株だろう。
「あの段ボール、大変だったでしょ。芽さんはおしゃれだから、荷物も多いよね。檀の部屋に全部入ったの?」
「なんとか詰め込んだみたいよ。まだいくつか部屋に転がっているけれど。なにを考えているのかしらね、まったく」
「なにも考えていないよ。母親ってそんなもん。長女の迷惑は計算外。
 それにしても、いつも家をきれいにしているよね。今日はみかんの花が、いい香り」
 ともの家は築三十年、日当たりのいい平家だ。広々した庭は芝で覆われ、素足で歩くと心地よかった。
 フェンスに這わせたバラやジャスミンが、蕾をほどきかけていた。庭でハーブや野菜を育てるのが、家で仕事をするともの気分転換である。
「あのひとが来てからずっと落ち着かなくて。ほら、生活時間も違うし、食べ物の好みも違うでしょ。やっとペースを取り戻したところ。無視しようと思っても、疲れるよね、やっぱり」
 テーブルに用意したガラスのティーポットは、色鮮やかなブルーの液体で満たされている。
「なに、これ? すごい色。こんなハーブあるの?」
「バタフライピーっていうマメ科の植物。花が青いのよ、ほら。フィリピンあたりではこの花でお米を炊くらしいよ。青いご飯になるんだって」
「おもしろい香り。ぬるいっていうか、優しいっていうか。豆臭くもないし、案外癖になるかも。
 ところでさ、あれから芽さんの裁判、どうなったの?」
「一体なにがどうしてこうなったのか、あのひとに問いただしました。そうしたら、ケロッと『誤解があったらしいのよ』って」
 ともは芽から聞いたやり取りを初に聞かせた。
 あるとき芽は、この原告とやらにお金を無心したようだ。
「ねぇ、少し用立てていただけないかしら。ほんの二、三十万円でいいの。もちろんすぐにお返しします。一週間だけ、お願い」
 甘えた声も効き目なく、男の堪忍袋は切れた。
「またか、もううんざりだ。いい加減にしろ。とっとと出て行ってくれ。今まで貸したものは全部返せよ。家も車も全部だ」
「ちょっと待って。すぐには無理だから、お願い。一週間後には必ず返しますから」
 芽は床に擦りつけんばかりに頭を下げる。
「もうその手には乗らないよ。あんたはいつも、口ではすぐに返すと言うくせに、返した試しがないだろう。あるか? あったら言ってみろ」
 ここまで再現して、芽はしらっと言った。
「なにをされるかわかったものではないでしょ。だから荷物をまとめてその日はホテルに泊まったの。次の日からは教団の仲間の家に二、三日ずつお世話になってね。
 ある人のところに落ち着いたら、なぜか裁判所から郵便が届いたのよ。調停をやる、って書いてあったから、もうびっくり。それで出かけて行って、いままでのことを話したら、そちらは終わったわ」
 と懲りた様子はなかったらしい。
「だいたい他人を信用し過ぎなのよ、あのひとは。親切にされてあたり前、親切はタダと思っているし。そういうところはホント、お嬢さん育ちね。
 それに、いい歳をして男にホイホイついて行くのが、頭の悪すぎるところ。あのひとの『お友だち』はみんな男。反省は全然ないし、そもそも差し押さえられる財産もゼロだけどさ。
 この件は、しょうがないから友だちの弁護士に相談したの。そうしたらこうアドバイスされた。
『訴えはめちゃくちゃだよ。でもお母さんに全然非がないわけでもない。準備書面で丁寧に反論するしかないね。場合によっては少しお金を払わないと。なんなら代理人を立てずに、ともがやってあげたら?』
 でもねぇ、関わりたくないからその人に頼んできちゃった。費用はかかるけれど彼は優秀だし、時間がもったいないからお金で割り切るの」
 と初に劣らず、ともも母親に振り回されていた。

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