第13話  泣き虫

文字数 2,567文字

 古びたパン焼き器にジューサー、壊れた扇風機と座椅子……。檀の部屋には、見おぼえのある生活用品が詰まっていた。
「このガラクタを早くなんとかしてちょうだい、ってあのひとうるさいの。使えそうな物はある?」
 押しかけて来た芽に、ともは、かつての檀の書斎をあてがった。そのせいで物置にしていた部屋を片付けなくてはならない。
 不用品をアート作品に仕立てる初に声がかかったのは、そのためだ。懐かしの品々はお宝の山だった。
 愛車の軽のワンボックスに、二人でどんどん積み込む。初が扇風機を載せたとき、なにかが始まった。
「あれ、なに?」
「あのひとのお経。気持ちがすっごく落ち着くらしい」
 ともによれば一日に何回か決まった時間に、芽は経を唱えるようだ。娘たちの作業中、リビングに避難していた芽は、檀の部屋に戻り日課を始めたらしかった。
 芽は一心不乱に打ち込んでいるようだ。張り上げた声の調子から伝わってくる。
 こんなことが日に何度もあれば、家で翻訳仕事に取り組むともには迷惑だろう。しかし諦めているのか、そのあたりの愚痴を初は聞いたことがない
 お経が始まったことで作業は終了となった。ともの煎れたミントティーをすすると、爽やかな香りが鼻を抜けた。
「ちょっと痩せた、初? 疲れた顔だよ」
 ともは缶からクッキーを一つつまむ。そしてひまわりのような笑顔を見せた。初が好きな、笑ったともの顔だ。
 一方、心労ばかりの初は顔色が冴えない。
「まあね」
 と力なく返すが、目元の深いくまといい、いつもの元気はなかった。
「父が電話で検査を受けないって言い出してね。そのころからかな、なんでもないときに涙して、ずっと泣いているの。父ももう長くないのかって。
 小さいころの思い出やいろんなことが浮かんで、うるっと来ちゃうし。死んだらどうしよう、ってメソメソするし。
 さっきなんかヨガのレッスン中に、ポーズを取りながら涙を拭いていたの。バカでしょ」
 そう告白し、もう涙を浮かべている。
「泣かない日はないぐらいぐずぐずなの。混んでいる電車でちょっと肩があたっただけでも涙が滲むし。いつでもどこでも泣けちゃう。
 父はまだ元気なのに、こんな風では死んだときにどうなるのか。自分でも思いやられるわ。
 でもね、これがもし母だったら全然違うと思う。
 恐らく彼女は家族の意見も聞かず、全部自分で決めるでしょ。手術やリハビリみたいなややこしいこともしないだろうし。
 病気が見つかったらあっけないだろうな。悲しいだろうけれど、順番だからしょうがない、って受け止めるよね。父の死がよぎるときのように、思い詰めはしないはず」
「辛いよね、はっきりしない状態は。うちは気をもむ間もなく死んじゃっていたけれど」
 ともの父親は救急搬送先の病院に着いて間もなく、死亡が確認された。くも膜下出血だった。
 高校一年のともは、一週間の忌引きを終えるとクラスに戻った。ときどきふさぎこみ、話しかけても聞こえていないようだった。
「檀くんからメールをもらったあとにね、父と近所の医者に意見を聞きに行ったの。
 死ぬのも簡単じゃないよ。自分で食べて、自分の足でトイレに行ける。その状態で死ねるのはすごく恵まれているなって思った。
 健やかに死ぬには健康が必要みたいよ」
 終わりの見えない介護は家族も大変だが、本人はもっと辛いだろう。長患いせずにころっと死ぬのはよい逝き方だと、地格野医師の話に教えられた。
「お父さんはどんな様子なの、初?」
「元気よ、ピンピンしている。弾と中華に行ったときなんかびっくりするぐらい食欲旺盛で。
前菜にピータンと棒々鶏でしょ、それから骨つき黒豚の酢豚。豆苗の炒め物、海老と空豆の豆腐うま煮も。もりもり食べていたわよ。最後は海鮮そばね」
「すごいね。八十歳ですい臓がんかもしれなくて、そんなに食べられるの」
「お酒だってビールやら紹興酒やら飲んでいたし。この人、ほんとうにがんなのかなって、じーっと見ちゃった。
 あの食べっぷりを目にしたら、来年の今ごろは死んでいるかもしれないなんて、考えられないよ」
 倅三は入院する二カ月前に個人タクシーを引退していた。時間ができたからとウォーキングを始めた。スポーツセンターでの軽いウエイトトレーニングも習慣で、ゴルフの打ちっ放しも以前より頻繁に通っている。
 そんな矢先の入院騒動だった。退院後はまた体を動かす生活に戻ったから、体調は悪くないのだろう。
 倅三がまだ仕事をしていたころ、年々食が細くなることを乃津麻は心配していた。ところが今では目を見張る健啖ぶりだ。倅三もこの状態を維持したいらしく、それも手術へのためらいに繋がっているようだった。
「それで検査は受けたの?」
「それがね……」
 と話し始めたところに電話が鳴った。ともは待ち受け画面に目をやる。
「仕事だ、ちょっとごめん」
 部屋を出ると、とたんにお経が止み、芽がすっとダイニングに現れた。
「芽さん、お邪魔しています。今、お茶煎れますね」
「どうぞお構いなく。ちょっとね、家事をしに来ただけだから」
 芽は、うふふ、と照れ笑いし、台所の隅から桐の米びつを出した。初が結婚祝いに贈ったものだ。カップ二杯分の米を炊飯釜に入れると、水を注いだ。
 ネイルの美しいあの爪で米を研ぐのだろうか。
 初は鉄瓶で湯を沸かしながら注意深く観察する。芽は引き出しから取り出した泡立て器で米を混ぜている。
「初めて見ました。泡立て器でお米を研ぐところ」
「あら知らなかった? 便利よ、手を濡らさなくていいから」
「芽さんも家事をなさるのですね。ともも助かるだろうな」
「これくらいしないと追い出されちゃうのよ、居候だから」
 芽はちゃかちゃかと音を立てたり、米をゆすいだりして炊飯釜をセットした。
「お部屋でいただくわね」
 初が煎れたミントティーのカップを片手に廊下に向かう。
 入れ違いにともが戻ってきた。
「芽さん器用にお米を研いでいたよ」
「どこでやり方を聞いたのだか。あの方法ならやるのよ。押しかけだからね。嫌いな家事も少しはやって、機嫌をとろうってわけ。
 それはそうと、さっきの続きを聞かせて」
 初は倅三の迷走ぶりを語り始めた。
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